集会・行動案内 TOP
 
●満蒙開拓青少年義勇軍のこと



 近所に「ヒロッチャン」という上級生がいた。だいたい上級生というと「怖い」「何をされるやら分からへん」と思っていた。でもヒロッチャンは優しくて朗らかでみんなから親しまれていた。そのヒロッチャンが満蒙開拓義勇軍に行った。親父さんは養鶏場をやっていて、孵化に失敗した雛など河原に捨てに来たりしていて、よく話をした。「ヒロシが満州に行き、わしらも一家で満州に移民するんじゃ」など得意げに話していた。私はそれが羨ましくてならず、父親に「うちも満州に行こう」と言ったが全然相手にはされなかった。

 私の家は農家ではなかったが百姓仕事が好きで、できれば満蒙開拓義勇軍に行きたいと思っていた。百姓するにも土地がない。でも開拓義勇軍に行き訓練期間がすめば10町歩の地主になれるという。私の地方ではせいぜい5〜6反程度の兼業であり10町歩とはとてつもなく広い。学校担任は開拓義勇軍のことは言わなかったが、山間部の学校では志願割り当てがあったと噂を聞いた。
 いつも猟犬を連れて猟に出かけていたブリキ屋さんは満州に行った。広い原野でノロなど追いかけ自由に猟ができるだろうと噂した。親父さんが石屋をしていた同級生一家も移民した。旧出石郡高橋村は村ごと満州移民した話も伝わった。

 ヒロッチャンが久しぶりに帰ってきた。「僕も開拓義勇軍に行きたいんだけど」と言うと「やめといた方がいい」、「なんで--」、「苦労するから」、「苦労は承知やけど--」。ヒロッチャンはそれ以上何も言わなかった。「チンマンチョー--」
何だか調子はずれだが「満州国国歌だ」と教えてくれた。あとは凧揚げばかりしていた。親父さんは「大きな子が凧揚げして--」などその時ぼやいていたが、その後は満州移民のことは話さなくなった。私はてっきりヒロッチャンは訓練を終えて百姓生活に入っているものと思っていたが、土地は他人にまかせ仲間と組んで商売していると聞き意外に思った。なんだか分からないが割り切れない「何かあるな」と思った。その後戦雲急を告げ、開拓義勇軍どころでなく海軍を志願した。体力や運動神経などに自信はなかったが、滑空特別訓練の受講がきっかけとなった。

 戦後ヒロッチャンは満州から引き揚げ、仲間と四国の方で会社か商売を始めたと聞いたが、その後の消息は知らない。終戦時「満人」から日本人は報復を受けたがヒロッチャンは「満人」にうけがよく、そんなことはなかった、と聞いた。
 集団移民した高橋村の人たちは引き揚げ時、悲惨な「集団自決」を遂げたことなど、神戸で現役警官作家によるルポで知った。移民した同級生とは偶然、兵庫県の開拓基地で会った。割り当てられた入植地が不毛で作物に適さず、別の土地斡旋のため待機しているのだと聞いた。割り当てられた土地とは多分、播州の青野ヶ原だとおもうが、酸性のきつい赤土土壌のところだった。

 私は「満州」と言えば、どこの国にも属さない、広い広い未開拓の原野がひろかっているところとばかり思っていた。うかつな事だった。ヒロッチャンが口をつぐんで言わなかったのは、「満人」からあくどい方法で既墾地を取りあげ、日本からの開拓移民に割り当てていたことなどではないかと思う。
 満蒙開拓青少年義勇軍(のちに義勇隊と言うようになった)は、内原訓練所から軍隊が銃を白布で巻いて出征したように、鍬の柄を白布で巻いて華々しく満州に行った。軍隊さながらであることから、「義勇軍になれば軍隊に行かなくてもいい」との誤解もあり、失望して自殺した義勇軍の少年もいたという。私もあいまいながらそんなことも考えたことがある。実質的には昔の屯田兵のように、対ソ最前線に訓練所や開拓村が配備され、終戦撤退時には関東軍は開拓民らを放置して先に引き揚げてしまい、ソ連軍や「満人」民兵らの襲撃に晒されてしまった。

 いわゆる「残留孤児」はこうしたことなどから起きた。彼、彼女らの経歴を見ればなんと言っても旧「満州」が多い。「文化大革命」という困難な時期を経て、やっと日本に帰り着いても、生活の保証は中国にいた頃より不安定。そのため裁判を起こしても「時効」だとして認めてもらえない。満州移民という棄民政策はいまも続いている。
06/11/08 W



反戦・反基地ブログ