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ある反戦平和活動家の死

    〜「ハーフオプション」提起、元塾講師〜 

 青木雅彦さんの消息が途絶えたため、京都の友人が兵庫篠山市の実家を訪ねたところ、彼はすでに昨年3月亡くなっていた。姉さんが亡くなったため、京都から実家に戻りその後は一人暮らしだった。
 ご近所の話だと、昨年3月路上で倒れ、通行人の通報で病院へ搬送さたが間もなく息を引き取った。死因は不明、何らかの病に侵されていたと思われる。身内も看取ることもなく孤独な死だった。遺体は神戸の妹さんが引き取り荼毘にふされた。
 実家は昨年末取り壊され、家財は処分され今は更地になっている。享年50歳くらいと思われる。                
 彼は「脱軍備・キャッチピース」(トマホークの配備を許すな!全国運動の後身)の運営委員を務めホームページを担当したこともある。語学力とパソコンで各種サイトに内外の軍事情報を発信し続けた。『劣化ウラン弾〜湾岸戦争で何が行われたか』(日本評論社)が出版されたが、彼がラムゼー・クラーク氏らの原文を見つけ、共同翻訳されたものだった。      
 京大の学生時代から反戦平和運動に関わり、83年に、反戦ドタバタ会議を設立した。有事法制が問題になった頃、労組や市民団体の学習会講師など気軽に応じてくれた。
 90年代始め、十年で軍事費を半減する「ハーフオプション」を提起し論議を呼んだ。「国際貢献」に端を発し、1920年代の軍事費半減を前例としたが、論議は軌道に乗ったとは言えなかった。村山政権の自衛隊認知、「平和基本法」などの動向の中で原則論派に論難される形となった。しかし彼はその後も様々な方策で軍事費の削減を訴え続けた。彼を惜しみ、4月には親しかった人たちで「偲ぶ会」が京都で予定されている。

青木雅彦さん略歴

1955年  兵庫県多紀郡篠山町(現篠山市)に生まれる。父親は地方官吏、二女一男の長男。
1974年 県立篠山鳳鳴高等学校卒業。関西大学文学部入学(石川啄木を専攻)
1978年 京都大学理学部入学(京大熊野療に住む)
1981年 8月、学生らと「反軍フォーラム」発足(〜84年)『反軍レポート』『きちきちバッタ』など発行。三田ナイキ設置・
      大久保基地・伊丹観閲式反対など訴える。
1983年 4月、集会「反戦やるっきゃない」(計7回)を契機に「反戦ドタバタ会議」発足、会報『井戸端通信』発行
      (〜2003年)続ける。12月、「トマホークの配備を許すな!全国運動」(83〜92年)に応じ「トマホーク阻止京
      都連絡会」(トマ連〜94年)結成に参加。
1986年 11月、あいば野日米共同演習の開始、日米ガイドラインなど反対訴える。
1989年 8月、舞鶴戸島で海自へり基地反対キャンプ参加。ドタバタ会議で平和船団ボート購入。(トマ連発行『舞鶴
      は今』特集冊子制作に加わる)
1990年 7月、舞鶴に第七艦隊旗艦ブルーリッジ初の入港、反対をアピール。
      8月、イラクのクウェート侵攻に際し、「湾岸危機の平和的解決を求める会」の結成に参加。
1991年 3月、政府の湾岸戦費90億ドル拠出、掃海艇派遣等を違憲とする関西訴訟の原告に参加。
      5月、東京の集会で10年・軍事費半減の「ハーフオプション」提起。以後数年間、反戦団体などで論争おき、
      全国各地の集会に出席。(10月、賛否をまとめドタバタ会議で『ザ・討論』を発行)
1992年 5月、「トマホークの配備を許すな!全国運動」は「キャッチピース」に改組、その運営委員となり、一時期ホ
      ームページなど担当。
      9月、初のカンボジア派兵、京都府下大久保基地から開始。鶴見俊輔氏ら京都市民有志による自衛官や家
      族相談の「自衛官ホットライン」開設。
      青木は事務局員担当、相談員養成講座の講師などつとめる。
      同月、PKOカンボジア派兵を違憲とする関西訴訟の原告となる。
1995年 姉の死去で郷里篠山に転居。(この頃、ドタバタ会議内部でPKO推進派 の除名問題おきる。青木は後から
      入ってきたメンバーと同一視されるのが嫌だったのだろう。また、やむなく京都を離れる事情もあろう。)
1997年 11月、あいば野日米共同演習(第4回)反対の意見広告を、京都新聞への掲載「京滋ネット」で推進。
1998年 2月、キャッチピース神戸集会に参加し発言。(この頃、関西の労組や市民団体から学習会講師の要請があ
      り、青木は気軽に引き受け篠山からやってきた)
      5月、新ガイドライン・周辺事態法が推進される最中、神戸港にカナダ軍艦プロテクター入港。「非核神戸方
      式」を崩す動きとして、新社会党市議らと神戸市に申し入れる。
      11月、「米の海兵隊はいらない」の意見広告を、ニューヨークタイムス掲載する運動を推進。
      12月、この頃、米軍機低空飛行問題、湾岸戦劣化ウラン弾問題等をインターネットで報じる。米反戦団体の
      調査報告を紹介、東京の市民平和訴訟スタッフが翻訳出版(『劣化ウラン弾〜湾岸戦争で何が行われたか
      』)
2007年 97年頃から2007年夏頃まで、インターネット同報通信や「ヤフー」のNOMORWARなどに全国各地の反戦
      情報を投稿し続ける。
2008年 3月19日、郷里篠山の路上で倒れ、病院に運ばれたがそのまま死去した。
      在京中は塾講師、郷里に帰ってから「倉庫番をしている」と聞いたことがある。姉の死後は一人暮らしで、前
      年8月頃までインターネット送信は続いたので、その後何らかの病を得たものと思われる。
      享年52歳だった。



 09/03/22  W
反戦・反基地ブログ