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尼崎共同行動の誕生  【あまがさき共生と自治21】 松上辰之

 昨年11月、政治、運動の大先輩、杉本昭典さんと菊永望さんの偲ぶ会を行いました。兵庫県内ばかりか大阪からの多くの人に集まっていただき感謝を申し上げます。





 お二人が活動を始めるきっかけは、何を言っても戦争体験だったと思われます。お二人は軍国少年でした。
 1945年8月15日、杉本さんは敗戦を受け入れない若手将校とともに少年兵として反乱のため「呉鎮守府」へ向かいました。しかし呉鎮守府の長官は逆にそれをなだめ制止します。「天皇のため死ね」と言われた教育は何であったのか?同級生A君は16歳で戦死しました。そしてこの時の反乱行進中、山の村では盆踊りが行われていました。

 菊永さんが入学した工業高校のすぐ隣が知覧飛行場でした。中学の時にすでに少年航空飛行隊を受験していました。特攻隊の見送りをするとき、その飛行兵は弟と見えるような兵隊でした。司令官はくどくどと「操縦かんを前に倒して下降しようとしたら爆発する」と説明しました。要は逃げたら機が爆発するというのです。それを聞いて菊永さんは、日本の軍隊は腐っていると思いました。

 こうしたお二人だからこそ、戦後すぐに労働運動から共産党を経験し、新しい左翼の関係で言えば杉本さんは全労活の議長、菊永さんは三里塚闘争に連帯する会の中心を担われました。そして、いつも全国の闘いの中で自分たちを捉え、位置付けされていました。尼崎の長い運動は、左翼の結集を求めてきた歴史だったと思います。実にいろいろな人、党派が参入して共に活動してきました。その中で「なにものも排除しない」という政治的、精神的風土が形成されていったのだと思います。

 この尼崎の政治的、精神的風土は、阪神労働運動活動者会議(阪労活)、阪神合同労組、医療生協運動(阪神医療生協、ひまわり医療生協)反戦平和運動(現在は尼崎共同行動)、反核運動、反差別など多くの市民運動を誕生させ、そして1993年ですが、今から30年前の尼崎市議団によるカラ出張事件が起き、市民の力でこの市議会を解散に追い込みました。そしてその出直し選挙で4人の市民派議員を誕生させて、以降30年にわたる市議・県議、5期20年にわたって市民派・女性市長を押し立ててきました。この制度圏の運動の過程で、「市民派」と呼ばれる尼崎の一つの政治勢力として市民権を確立してきたわけです。その背景には、こうした大衆運動の広がり深さが土台になっているのだと思います。



 その中心に、いつも杉本さん、菊永さんがいました。そして現在の「共生と自治21」に引き継がれていると思っています。

「新たな戦前」が言われ始めている現在、闘いをさらに進めましょう。





関西共同行動ニュース No95