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靖国神社と聖戦史観 【弁護士】内田雅敏


■はじめに

故安倍晋三が大勲位に叙され、9月27日には国葬がなされた。閣議決定による集団的自衛権行使容認、安保法制の強行採決など、憲法、立憲主義を破壊し、他方で森友・加計、桜を見る会等数々の疑惑、さらに霊感詐欺商法の旧統一教会の広告塔疑惑、何も説明しないままに逝ってしまった人物が国葬に付された。一体この国はどうなってしまったのか。

勲章といえば、1974年、戦没者に対する叙勲の復活した1974年,特攻隊の生みの親といわれる大西瀧治郎元海軍中将、1945年8月15日夕刻、すでに「終戦」の詔勅のなされた後、司令官「親率」と称し、自らの自殺行に彗星11機、搭乗員22名を引き連れ、沖縄方面に向かって「特攻出撃」をし、部下16名(3機6名不時着)無駄死にさせた宇垣纏海軍中将らも勲一等旭日大綬章に叙せられたという。西瀧治郎元海軍は、海軍軍令部次長として「あと2000万人殺す覚悟でやれば、勝てはしないまでも、負けはしない」と、最後まで降伏に反対した人物だ。

■靖國神社・遊就館の展示

靖國神社・遊就館の見学に際して、重要なことは、靖國神社・遊就館では、何が展示され、何が展示されていないかを見極めることだ。

遊就館1階ロビーに展示されている泰緬鉄道C56型31号機関車は、泰緬鉄道の開通式に使用された蒸気機関車で、戦後もタイで稼働していたところ、昭和52(1977)年に引退することになったので、泰緬鉄道建設に関係した南方軍鉄道隊関係者が拠金してタイ国有鉄道から譲り受け、昭和54(1979)年、靖国神社参拝に奉納されたものである。

米映画『戦場にかける橋』(1957年)などで知られる泰緬鉄道は、タイ、ビルマの現地住民、英軍、豪州軍らの捕虜17万人が、十分な食事も与えられないまま、長時間の苛酷な奴隷労働に従事させられ、連合軍捕虜約1万3千人もの死者を出し、他にも多数の現地住民が亡くなった。ところがこの機関車の説明文には死者のことについては全く記載されず、ただ、ただ難工事を驚異的な短期間でなしたとい賞賛だけだ。

同館に展示されているアジアの近・現代史年表では、1910年の韓国併合についての記載はあるが、1895年の閔妃暗殺。1919年の3・1独立運動に関する記載は一切ない。ところが3・1運動に影響された中国の五・四運動についての記述はある。

中国に関しては、今日保守派も含めて、日本の対中政策の過ちの出発点となった1915年の対華21ヶ条要求、28年の張作霖爆殺に関する記述もない。



■靖國神社を巡る二つの誤解

巷間、靖國神社参拝批判に対して、〈戦死者・戦没者に対する追悼はどこの国でもしている、何故それが批判されるのか。内政干渉だ〉という素朴な反発にある。毎年8月 日、武道館で行われる政府主催の戦没者追悼式について中国、韓国らからの批判はない。靖國神社参拝批判は、戦没者に対する追悼批判ではなく、靖國神社という場でそれが行われることへの批判である。なぜ靖國神社での追悼が批判されるのか。それは靖國神社が日本の近・現代におけるすべての戦争を正しい戦争だとする聖戦史観に立脚した戦争神社であり、そもそも追悼の場として相応しくないからだ。

また、巷間、靖國問題の解決策として語られるA級戦犯分祀論に対しては、A級戦犯合祀が問題ではなく、A級戦犯合祀に象徴される靖國神社の聖戦史観にこそ問題があるのであって、A級戦犯の分祀では解決とならないし、聖戦史観に立脚する靖國神社が東京裁判否定のイデオロギーによってなされたA級戦犯合祀を取り消すはずがなく、取り消した瞬間に靖國神社ではなくなる。



■靖國神社の生命線 戦死者の「魂独占」の虚構

1872(明治 )年に伊勢神宮、官幣大社、中社、小社という神社ヒエラルヒーの下、格下の別格官幣社として設立された靖國神社が他の神社仏閣を凌駕する位置に上り詰めたのは、戦前、靖國神社は陸・海軍省の管轄にかかり、すべての戦死者の魂を独占し、そこに臣下に頭を下げることのない天皇が参拝するという仕組みとなっていたからだ。戦死者の「魂独占」の虚構と天皇参拝、これが靖國神社の生命線だ。敗戦後、靖國神社は単なる一宗教法人となったが、同神社はその位置を維持するために前記生命線、戦死者の「魂独占」の虚構と天皇参拝に腐心して来た。同神社は、明仁平成天皇らが南太平洋の激戦地ぺルリュウ島を訪れた際、「靖國神社はぺルリュウ島より遠いのか」と悔しがったという。




関西共同行動ニュース No92