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●【巻頭言】ロシアの侵略を弾劾する! 中北龍太郎


(左写真3月15日ロシア領事館前抗議行動にて。撮影/細川義人)


 ロシアのウクライナ侵略は徹底的に弾劾されなければなりません。もちろん米国などの蛮行を弾劾することも重要です。今号は集中的にプーチン政権批判を展開します。

■戦争違法化と侵略

 国連憲章は、戦争違法化原則を発展させ、再び戦争が起きることを防ぎ国際社会の平和を維持するために、国際紛争の平和的解決を義務づけ、武力による威嚇、武力の行使を禁止しました。国家による他の国家の主権・領土保全・政治的独立に対する武力の行使である侵略は絶対に許されません。特別軍事作戦は明白な侵略であり、国連憲章違反です。まさに戦後の国際的な平和秩序を根底から破壊する歴史的暴挙です。

 プーチンは、国連憲章の例外である個別的・集団的自衛権の行使にあたると弁解していますが全くでたらめです。ウクライナがロシアを武力攻撃していない以上、ロシアは個別的自衛権を行使できません。プーチンは、「ドネツク人民共和国」「ルハンスク人民共和国」がウクライナから攻撃を受け「両国」の要請があったから集団的自衛権の行使にあたるとも主張しています。しかしながら、「両国」が集団的自衛権行使の必須の前提となる国とは到底いえず、満州国のような傀儡政権に過ぎませんから、ロシアは集団的自衛権を行使できません。

 プーチンは核兵器を使用すると核の威嚇を繰り返しています。核戦争の危険を現実化する許しがたい発言です。この発言は国連憲章が禁じる「武力による威嚇」に外なりません。

 ロシア軍の都市全体に対する無差別砲撃、文民の大量虐殺、住民の強制移住はすべてジュネーブ条約などの国際人道法違反です。

■プーチンの侵略思想

 21年発表のプーチン論文「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性」は、ウクライナ人はロシア民族の一つ、ウクライナの真の主権はロシアとのパートナーシップによってのみ可能と主張しています。しかし、この論文はウクライナの独立性を全く無視しています。

 最初の東スラブ民族の国家キーウ・ルーシ公国によって、ロシア・ウクライナ・ベラルーシの基礎ができました。同公国はモンゴル帝国に滅ばされましたが、複数に分岐した公国の一つであるハーリチ・ヴォルイニ公国は国家として存属し、ウクライナの最初の国家とされています。コサック時代にはウクライナ国家であるヘトマン国家が作られました。ところが、ロシア帝国軍によりヘトマン国家は滅ぼされました。19世紀半ばにはロシア帝国は膨大な植民地を擁する巨大帝国となり、ウクライナを支配しました。ソ連時代にはロシア民族の優越性が強調される中でも、独立運動は粘り強く続けられてきました。独立への大きな転機になったのがゴルバジョフのペレストロイカでした。ウクライナは91年独立宣言を出し独立を果たしました。ウクライナの歴史を辿っていくと、ウクライナは決してロシアの1民族ではなく、独自の言語・文化を持つ別民族であり、ロシア帝国とソ連の下での同化政策に抗して民族独立運動を持続してきました。ロシアのウクライナ侵略は、大ロシア・勢力圏の復活という帝国主義的・植民地主義的性格を有し、ウクライナを歴史から抹殺せんとするものです。



■チェチェン戦争

 カスピ海と黒海に挟まれた地域の東西に横たわるコーカサス山脈の北側に位置するチェチェンは、岩手県ほどの大きさで人口は約100万、宗教はイスラム教です。チェチェンはロシアの侵略と支配に対する抵抗の400年にわたる歴史があります。ロシア帝国からチェチェンの領土を引き継いだソ連―ロシアは、地政学上の重要性、天然資源の存在から植民地を手放そうとはしませんでした。チェチェンは90年代独立闘争を展開しますが、長い抵抗の歴史が独立闘争につながっています。

 91年独立派のドゥダーエフが大統領選挙で勝利し独立を宣言します。エリツィン大統領は94年派兵し、第1次チェチェン戦争になりました。チェチェン側に10万人の犠牲者(8割が民間人)をもたらしました。96年ロシアにとって屈辱的なハサヴユルト和平合意が成立し、一旦停戦となりました。

 ところがプーチンは、立て続けに起きていたアパート爆破事件を直ちにチェチェン武装勢力の犯行と決めつけ、99年ハサヴユルト合意を破棄し第2次チェチェン戦争を開始します。翌年3月のロシア大統領選挙でプーチンが圧勝できたのは、「戦果」を挙げたからでした。政府の爆破事件関与疑惑は、FSB(=旧KGB)リトビネンコ元中佐が「爆破事件はロシア政府の自作自演」との告発でも明るみになっています。第1次チェチェン戦争で停戦合意に至ったのは、ロシアにまだ自由があったからです。この教訓を肝に銘じたプーチンはメディアと反対勢力の抹殺・暗殺に血道をあげていきます。自由の圧殺がプーチンの独裁をつくり、戦争「勝利」の基盤になったのです。この戦争の実態は民族抹殺で、犠牲者は20万人を数えました。

 プーチンは、チェチェンの親ロ派=非独立派勢力を支援し、独立派との軍事衝突を後押しして独立派を排除し、親ロ派政権を樹立させて独立させないという戦略を取ってきました。独立派をほぼ軍事制圧した03年には新憲法制定の住民投票を実施し、新憲法にもとづいて大統領選挙を実施しカディロフが就任しました。この選挙はあらゆる面で歪なものでした。07年カディロフの息子が大統領に就任し、ロシア政府の経済支援によって復興しました。カディロフ政権はプーチンへの忠誠―服従関係によって支えられており、強権・恐怖政治を行い、獰猛な数万の武装部隊は暗殺・侵略部隊として暗躍しています。

 第2次チェチェン戦争はプーチンの戦争で、ウクライナ侵略の起点としてプーチンの原点になっています。

■NATOの東方拡大

 米英仏カナダなど12か国で発足した北大西洋条約機構(NATO)は軍事同盟で、ソ連の封じ込めを任務としていました。ソ連解体によりNATOは無用の存在となりましたが、NATOは存続しそれどころか東方に拡大し、加盟は全30か国となりました。プーチンは、東方不拡大の約束を破ったと繰り返し主張しています。その約束というのは、ベーカー米国務長官が90年にゴルバチョフに「1インチも東方拡大しない」と述べたというものです。しかし、ブッシュ大統領は政府見解ではないと回答しており、約束であれば文書化されるはずですが文書はありません。しかも97年の米ロ首脳会談で約束はなかったことが確認されています。

 ウクライナでは歴代政権がNATO加盟の動きを示していました。しかし、NATO加盟には全加盟国の賛成が必要とされ、独仏などは加盟に反対してきました。加盟には実現性がなく、加盟が脅威となるといった理由で侵略を正当化することはできません。

 82年パルメ委員会は国連事務総長に「共通の安全
保障―核軍縮への道標」を提出し、自国のみの安全ではなく相手国も含めて共通の安全保障を追求すべきだとしました。ゴルバチョフは共通の安全保障を基礎にして新思考外交を推し進めました。その結果、米ソと東西間の信頼関係を基礎に冷戦の終結を切り拓きました。

 75年欧州で全欧安全保障協力会議(CSCE)が開かれ、主権の尊重、武力不行使、紛争の平和的解決、内政不干渉、信頼醸成措置の促進などを掲げたヘルシンキ合意が調印されました。94年には会議は常設の紛争予防・解決を図る全欧安全保障協力機構(OSCE)に改組されました(04年55か国加盟)。米国・NATOとロシアが共通の安全保障の方針を誠実に実施し、OSCEをもっと活用していれば、ロシアの侵略は起こらなかったはずです。そうした信頼関係が醸成されなかったことが侵略をもたらしました。



■ウクライナの政治の動向

 ウクライナは独立後非核3原則を確立し、核を管理する技術も財政もないことから、大量の核兵器をロシアに返還しました。核返還の代わりに安全保障を求め、95年ロシアとの間で武力行使禁止、核兵器不使用を含むブダペスト覚書を交わしました。

 04年大統領選をめぐってオレンジ革命が起き、ユーシェンコ政権が成立しました。10年の大統領選では親ロシアのヤヌコーヴィチが当選し、EUとの自由貿易圏交渉を中止しました。この選択が多くの人びとの怒りを招き、14年マイダン革命が起こります。ヤヌコーヴィチはロシアに逃亡し、大統領選でポロシェンコが当選しました。

 マイダン革命直後ロシア軍がクリミアの主な施設を占拠し、併合を問う住民投票をでっちあげ、ロシアはクリミアを併合しました。国連総会は住民投票を無効と決議しています。この併合は他国の領土への武力行使によって奪い取ったものです。

14年ドンバス地域で「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」を自称する親ロ派武装勢力が現地の行政・治安機関を襲撃し占拠しました。「両国」は国家連合・ノヴォロシア(ロシア帝国がオスマン帝国との戦争で獲得した南東部地域全般を指す)をめざすと宣言しました。15年2月、外国部隊の撤退、ドンバス2州に自治権を認めることなどを内容とするミンスク合意が交わされました。しかしながら、ウクライナ側では自治権の承認はロシアによる実効支配につながるとの批判、「両国」側も独立を果たせないとの不満があり、履行されませんでした。そして遂にロシアの本格的侵略になりました。




関西共同行動ニュース No91