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遺骨眠る土砂を辺野古に使わせない!(講演録)
【沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガフヤー」代表】具志堅隆松 



去る8月22日、「ストップ辺野古新基地建設!大阪アクション」主催で具志堅隆松さん(沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表)の講演会が開かれた。その内容を要約して報告します。(文責 齋藤郁夫)

■一人から始めた収集作業

具志堅さんは、73年に来沖した遺骨収集団の知人の要請で、初めて遺骨収集に加わった。収集団の作業は年に一回で、毎年参加してきたが、出土する遺骨が年々劣化していることに気づき、本土の収集団の作業を待たずに、一人でやろうと決意。原野やガマ、日本軍が掘った構築壕、隆起したサンゴ岩礁のクレバスなどでも収集。その後、07年の夏から真嘉比(那覇新都心地区付近)の遺骨収集を始めた。

真嘉比は鉄の暴風が吹き荒れた激戦地。戦後は墓地となったために、開発を免れてきた。戦後数十年が過ぎ、那覇市の開発工事で激戦地が消えていくという危機感を抱いた。ちょうどその頃知人から、人骨らしきものがあるとの連絡を受け、遺骨を掘り出し、新聞社にも連絡し、遺骨収集の必要性を訴えた。近くの安里五二高地では、すでに開発工事が始まり、遺骨や武器が散乱していた。「一人ではとても収容できない。市の方で収集してもらえないか」と依頼。返事はなし。当時、国も県も、沖縄の戦後処理は終わったことにしたかったのだと思う。

安里五二高地周辺からは、遺骨を含んだ土が何台ものトラックでどこかに運び去られていた。開発が真嘉比に及んできたとき、今度こそは遺骨骨収集をやろうと決心し、ガマフヤー(ガマを掘る人)と名乗るようになった。

■雇用対策による遺骨収集

転機は08年6月、市民参加を呼びかけた真嘉比地区での日曜日の遺骨収活動。この市民参加の収集は大雨で中断し、全体作業は2回目まで。社会的弱者であるホームレスが戦争犠牲者に救いの手を差し伸べることは出来ないか。ホームレス支援のNGOとも相談して出来た構想を携え、国会議員を介して厚労省に要請した。その結果、09年、遺骨収集作業を緊急雇用創出事業として行うことになった。

16年には戦没者の遺骨収集の推進に関する法律ができた。国は17年度より沖縄・硫黄島などに広くDNA鑑定を実施。沖縄県では10地域での戦没者の遺骨に適用した。

真嘉比地区に道路が出来るというので、遺骨収集を始めることになった。ホームレスの人たちが手伝ってくれた。彼らはちゃんと働くのか。懐疑的な質問もうけたが、彼らはよく働いてくれた。高学歴の人が多く、死者に対する対応が優しかった。本土から来た人が半分以上で、沖縄を知るために来た、遺骨は遺族に返したいと言っていた。同時に自分自身も家族の元に帰りたいとも。ガマフヤーでは、遺骨が見つかると、それをうごかさないようにして、竹串や刷毛で土を取り除く。

それに対して、国の遺骨収集事業は、工事用のショベルカーで大量の土砂を削り取って広い場所に積み上げ、それをベルトコンベアーに乗せて遺骨を探す。しかも国の事業は土木業者の収益事業として行われていた。

■遺留品・遺骨が語る

戦後の沖縄では早い時期から収集が始まり、遺骨は各地域の慰霊塔に収められた。沖縄戦では住民の避難場所が戦場になり、快適な避難場所は日本軍が占領した。ガマであれ構築壕であれ、中に入るときは緊張する、内部には沖縄戦がそのまま残っているのだから。

遺骨収集時は不発弾で作業は中断。九二式赤弾(毒ガス弾)、手榴弾、弾丸の破片、五インチ艦砲弾、五一滑空弾の弾帯、米軍の一〇五ミリ榴弾(弾丸は空中で爆発)、六〇ミリ迫撃弾、小銃弾の薬莢、さらに陶器製手榴弾、弾薬を詰めた木箱(背負って戦車に体当たり)などが出てきた。特に陶器製手榴弾を見ると、こんなに物資が不足しても戦争を続けたのだなと思った。

遺骨は、いつどの場所に体のどの部位の遺骨が出たか、表に記入していく。膝より下だけの遺骨が多い。上は吹き飛ばされて、広い範囲に散らばっている。深さ1メートル位のたこ壺の中にも遺骨が。身元を特定するために刷毛を使って細かく掘る。頭頂に穴がある、一〇五ミリ榴弾によるものだ。頭骨の中には土が入っていて、砲弾の破片があった。両手を胸の上で組んでいる遺骨もあった、おそらく死んだ後埋葬されたのだろう。遺骨のそばに五銭硬貨が。これは千人針についていたもので、「死線を越える」(五銭は四銭をこえる)という験を担いだものだ。2本の金属棒。出征の時、母親が自分のかんざし(ジーファーという)を息子に持たせたものだ。

西原町幸地の壕では、二五体もの日本軍兵士の遺骨が。壕の近くで米兵が小銃を乱射し、完全武装の兵士が五〇ミリ擲弾で自爆したとき落盤が起き、五人が閉じ込められたと思われる遺骨もあった。手が皮一枚でぶらぶらになり、仲間が壕の中に移動させたと思える遺骨。骨盤に破片が食い込んでいる遺骨も。胸の前で爆弾を爆発させ、下顎を吹っ飛ばして頭の中まで破片が入っている遺骨もあった。

■遺骨の土を海に・・それは人の道に外れる

行政の壁を一つずつ乗り越え、遺骨収集が大きく前進してきた20年10月、南部糸満の魂魄の塔の近くで遺骨収集をしていたとき、付近で土砂の採掘をしている業者に、採掘した土砂は辺野古の埋め立てに使うことを知らされた。



止めてくれと業者には言えない。相手は国だ。防衛局に11月2日に要請に行った。もしかして、防衛局はここに遺骨があることを知らずに・・と思ったので、現場の視察を要請した。すると、局員は『まだ決まったわけではないので、具志堅さんと問題を共有したい』と言った。南部にあるとわかっていたのかと聞くと、『・・』と無言。知っていてやるなら、人の道に外れている。マスコミにもこのことを発信した。沖縄のマスコミはすぐ応えてくれたが、本土は何も応えず。2月末には宗教者の会とともに計画の断念を要請した。業者に遺骨収集させるのかと聞いても、応えず。3月には国と交渉し、多くの人に知ってもらおうと、県庁前でハンストをした。遺族が来てくれて、泳げなくて死んだ兵士の遺骨を海に捨てさせないでと言われた。言葉がなかった。各県議会にも計画断念の意見書提出を要請した。戦没者追悼式会場前でもハンストをやった。遺骨は家族に返すべきだ。被告席の国が裁判官席に座っている。この不条理は許せない。








関西共同行動ニュース No88