集会・行動案内 TOP
 
在日朝鮮人部落ウトロの闘い【ウトロを守る会副代表、日本居住福祉学会理事 】斎藤正樹

1.はじめに

京都府宇治市伊勢田町にある在日朝鮮人集落ウトロでは、3年前に代替えの公営住宅1棟40戸が完成し、旧来の住民は新しい住宅に入居した。集落全部が丸ごと「強制立ち退き」を迫られていたが、誰一人ホームレスにならず、安心安全の住居を得た。国際的な市民運動の成果である。しかし、ここに行きつくまでは大変だった。絶体絶命、強制執行と背中合わせの期間が長く続いた。これを救ったのは運動方針の転換。そのきっかけは中北龍太郎弁護士のウトロを守る会・田川明子代表へのアドバイスであった。「裁判では勝てませんよ。ウトロは運動で勝利するしかない」。20年以上前のことである。

2. ウトロ地区(京都府宇治市伊勢田町ウトロ)とは



日本各地の都市部に散在する在日朝鮮人集住地区は、すでに消滅したものも含めてそれぞれに歴史がある。ウトロ集落の形成は1943年、戦時中の京都飛行場建設労働にかかわる朝鮮人飯場を起源としている。住民の多くは朝鮮慶尚道出身の農民(多くは小作)であった。戦後は全員が失業者となり、「日雇い」「屑鉄拾い(廃品回収業)」などで生き延びた。生活は常に不安定だった。

戦後も日本行政からは全く見捨てられた地区であった。1987年に地上げ事件が起こり、土地は旧軍需会社の継承企業「日産車体」から、あるウトロ住民を経て、西日本殖産へと転売された。支援者が集まり「ウトロを守る会」を発足し、今日まで活動している。私が作成した第1号ビラ(1988年)には「85世帯、380人の生活守れ」とある。集落では、年々若年層の転出が続き、現在は50世帯140人と推測される。

西日本殖産が住民に立ち退きを迫り、ウトロ裁判が始まった。住民は土地の時効取得を主張したが、日産車体から決定的な証拠が提出され、全員が敗訴となった。敗訴確定後は強制執行が待っている。住民を救う方法はないのか・・・。私は国際人権法に希望を見つけた。国際人権法の「居住の権利」(社会権規約11条)では、「原則として強制立ち退きは違法」と解釈されている。国際人権条約を批准・発効した国家には、各々の国内で実施する義務が生じ(日本国は1979年に社会権規約を批准・発効)、国内の実施状況を定期的に国連に報告する義務もある。その際、「強制立ち退きを受けない権利」(ホームレスにされない権利)をどのように扱っているかが審査ポイントとなる。

2000年6月、大阪高裁はウトロ裁判で住民敗訴判決を下した。(後日、最高裁上告棄却により確定判決となる)。私たちは、国内法での司法的救済があり得ないなら、国際人権世論を背景に、政府の責任で行政的な解決を図るしか方法はない、それには具体的な対案が必要であると考えた。守る会は1999年のひと夏かけて、ウトロ地区内の全建物を調査し住環境改善事業の実施条件に該当するか、項目の一つ一つを検討した。その結果、日本国にその意思があれば、住環境整備事業をウトロで実施し、住民に代替え住宅を提供することは十分可能であるとの確証を得た。私は国連に報告するレポートの中にこの調査結果を書き加えた。

3.人権救済に国連が動く

京都府や宇治市はウトロ問題の解決に極めて消極的で、裁判の結果、判決が執行されれば住民はいなくなり問題は自ずと解決すると傍観していた。しかし、2001年8月に、スイスのジュネーブで行われた国連社会権規約委員会による日本政府報告書審査に対する最終見解(総括所見)の中に、「ウトロ」という具体的な地名が書き込まれ、日本国家の責任で住民救済を行うように正式に勧告が出された。画期的な成果である。

さらに、2005年7月には、国連人権委員会の人種主義・人種差別問題を担当する特別報告者ドウ・ドウ・ディエン氏が日本を公式訪問し、ウトロ地区を実地調査した。この時、解放前に朝鮮半島で生まれた在日一世の高齢者たちは、強制立ち退きによって、住みなれた住居を奪われることの恐怖を切々と訴えた。彼はウトロについて「戦争目的の建設に従事し、戦争が終わればまるで道具のように捨て置かれた。まさに差別の足跡。経済大国の日本で貧困や社会から排除された状態を見たのはショッキングだった。一方で感じたのはコミュニティの連帯感の強さである」とその印象を語った。2006年1月、国連人権理事会に提出された報告書には「、日本政府はウトロ住民がこの土地に住み続けられる権利を認めるための適切な措置をとるべきである」とあった。

守る会の田川明子代表は、日本政府の野中広務官房長官(当時)に「ウトロに力を貸してほしい」と頼んだ。彼の紹介で冬柴鐵三国土交通大臣(当時)と私たちは尼崎の地元事務所で会った。2007年8月の暑い日だった。彼は「ウトロは兵庫県伊丹市(中村地区)の住環境改善事業と同じでよいか」と発言した。私たちの答えは「勿論です」。

「住民が土地を買い取るのは難しいだろうから、歴史的なこともあるし、(土地買収は)京都府行政に任せて、公営住宅の建設をしよう。山田啓二京都府知事に電話します。京都府、宇治市に対して11 も、こういう方向でみなさん方は考えたらいいでしょう。今日は冬柴に会ったと、(行政関係者に)伝えてください」と答えた。2007年11月、京都府知事と宇治市長が東京の国土交通大臣に呼び出された。二人はそろって、ウトロ問題を地方自治体として「しっかり取り組みます」と大臣の前で決意表明し、その映像はTVニュースで報道さ
れた。

こうして、政府レベルでの救済が決まり、国土交通省が一歩乗り出すと京都府、宇治市は動かざるを得なくなった。

4.韓国からの支援広がる

ウトロにとって、2004年ごろが一番苦しい時期だった。裁判所の張り紙(強制執行)が家屋に貼られたこともあった。しかし、韓国の支援者からの働きによって、2007年以降、明るい展望を開くことができた。韓国の支援運動は爆発的だった。私たちは韓国政府や韓国の支援者に深く感謝したい。ただ、人間が生きていくのに住居だけあれば足りるわけではない。まちづくりの中で福祉や医療サービスと結合し、最後のセーフティーネットとして機能させることも必要である。さらに集団として、「チャンゴが聞こえるまち」に住み続けること、地域コミュニティを維持することも大切である。国際人権法には文化的独自性を尊重し、出身国との文化的繋がりを維持する権利も含まれている。

国際人権条約を批准・発効した国家には、国内で条約の内容を実施する義務が生じる。ウトロは国際世論に押されて日本国家がやっと救済に動いたケースであるが、国家の差別是正措置(行政による住環境整備事業)の中に、正当事由がない意図的な権利後退措置や、(民族)差別があってはならないことは、国際人権規範に照らして言うまでもない。

いまはコロナで中断しているが、韓国からのウトロ訪問者は続いている。2022年5月にはウトロ平和歴史祈念館が現地にオープンする予定である。

そう、日本の社会的市民運動の多くが「よく頑張ったが成果は残せなかった」結末が多いことを思うとき、不十分点はあるもののウトロは幸せな結果を残せた。長い間、関心を寄せていただいた皆さんに改めて、深く感謝したい。(敬称略)






関西共同行動ニュース No86