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敵基地攻撃論の危険な罠 ~専守防衛から先制攻撃論へ~ 【明治大学特任教授 】 纐纈 厚


 山口県萩市むつみ地区と秋田市新屋に配備計画が進められていたイージス・アショア基地建設予定が、今年六月一五日に破棄されたものの、三日後の六月一八日の記者会見で安倍前首相は、「敵基地攻撃能力を含む安全保障戦略の見直し」の方針に言及した。

 イージス・アショアの配備問題に私達は日本の安全を守るものではなく、グアムとハワイの米軍基地に向けて放たれた弾道ミサイルを、萩と秋田上空で撃墜する役割を担ったものであり、アメリカの国防のために日本の領土と国民の安全を危険にするものと強く抗議する運動を進めていた。

 イージス・アショア基地は迎撃ミサイル基地として日本政府が捉えてきたのだが、大量に飛来する弾道ミサイルを確実に撃墜する確証破壊の比率は極めて小さい。日米両軍事当局や関係者の間では、迎撃システムではなく攻撃システムの構築こそ、軍事的合理性に合致している、とする議論が以前から存在していたのである。

 例えば、村野将(米ハドソン研究所所員)は、「「攻撃能力」が問う論点今こそ同盟の再定義を」(『WEDGE』二〇二〇年、August)のなかで、「日本は固定目標への攻撃能力を持つべき」とし、「長距離攻撃オプションを検討する必要がある」(四四頁)と言う。また、『軍事研究』(二〇二〇年一一月号)は、「特集専守防衛は敵基地攻撃を許さないのか?」と題する特集を組み、「今の政界は、敵基地攻撃(能力保有)の是非について云々しているが、既に現実は議論の段階を飛び越えているのである。私から見たら「何を今更ということだ」と記す。さらには、「専守防衛という防衛戦略は、現実には全く役に立たないことが分ろう」(以上、三六頁)と断言する。

 要するに日本政府及び防衛省に同調する論者たちは武力攻撃による国家安全保障論を政策とすることに躍起なのである。しかし、ここでの議論や政策構想が、憲法の平和主義を食い破り、専守防衛論を根底から否定するものであることは明らかだ。

 軍事的合理性からすれば、今日の確証破壊兵器の進展からして、先制攻撃により圧倒的な戦力投入で敵を殲滅する誘惑に駆られたとしても不思議ではない。しかし、ここに大きな罠がある。取り敢えず、三点の問題を指摘しておきたい。

 第一に、そもそも如何なる理由によって相手を「敵」とみなすのか、という根本的な問題だ。日本及び日本国民にとって未来永劫の「敵」として認定し、その殲滅を企画することが、それこそ未来永劫に日本及び日本国民の安全を担保可能なのか、という問題だ。そこには、世論を誘導するための手の込んだ罠が張られている。つまり、その「敵」は日米同盟関係が強化され、そのことによって一定の利益を獲得可能とする日米双方の思惑から創出されたものと言えるからだ。作為された「敵」、と言っても過言ではない。

 日米両政府が言う「敵」なる存在は、海洋進出や日本の固有領土を手放そうとせず、繰り返し弾道ミサイル発射訓練を行っている。しかし、そのことが日本やアメリカを一方的に攻撃するための準備であると誰が断定できるのか。予期される攻撃への対応だとしても、「敵」が先制攻撃する理由は政治的にも、軍事的にも皆無である。挑発に乗ってしまうリスクは否定できないとしても、圧倒的な軍事力格差が、その挑発への対応を躊躇うことは必至である。米韓合同軍事演習という戦争行為すれすれの挑発に、慎重な姿勢を崩していない ことは、その証明であろう。

 第二に、その「敵」なる国家と軍事的手段の行使をもって張り合うことが、逆に日本の安全を損ない、場合によっては甚大な被害を招く可能性は本当にないのか。敵基地攻撃力で得られるとする抑止力の向上が、「安全」をもたらすと本当に言い切れるのか。それは憲法前文で世界に向けて発信された日本の平和獲得の方途を放棄してまでも得られる「安全」なのか、という問題である。

 核戦力を含め、現代における高度な兵器が戦場に動員された場合、如何なる甚大な結果を招くかは、広島・長崎の惨禍の事例を持ち出すまでもなく容易に想像できるというもの。むしろ警戒すべきは不断の緊張関係により、市民社会が強度の国家権力によって統制・動員される結果となることではないか。そのことを私たちは歴史から学んでいるはずだ。

 第三に、以上の問題と深く関わっているが、「敵」と対置することで、日本の平和実現の可能性を逆に殺いでいるのではないか、と言う問題である。「敵」の存在を過大評価することで、日米同盟や日本自衛隊への依存度を深めていく先に見えてくるものは、あの悲惨な戦争ではないか、という真剣な議論がいまこそ益々必要となってきたように思われる。

 私たちの本当の敵は、「敵」を設定することで国家への従属を強いる権力の在り様に見出すべきであろう。歴史を紐解くまでもなく、戦前日本は、清国を「眠れる獅子」とし、次いでロシアを「北方の巨熊」とし、その結果軍事主義が拡がっていき、繰り返し戦争に突き進んでしまった。戦後においても、冷戦期にはソ連を「敵」とみなすソ連脅威論が巻き起こった。ソ連崩壊後は北朝鮮を敵視し、同時に海洋進出を図る中国を脅威とみなす。取り分け、中国脅威論が盛んに煽り立てられる昨今の状況から、再び負の歴史が繰り返されるのではないか、という恐れさえ感じる。

 その脅威なるものが一体何を根拠にし、どの程度に脅威なのかを冷静な視点から見直すべきだ。脅威を削減する知恵を如何にして紡ぎだすのか。その努力を怠り、ひたすら軍事主義に奔走する政府や国家の有様は、戦前日本が犯したと同じ過ちを繰り返すことになりはしないか。そのことについて、冷静で客観的な議論が強く求められていよう。

 昨今の日本学術会議会員の任命拒否や、同会議の軍事研究への厳しい批判に強い不満を抱く自民党国会議員の存在と、これを支持する勢力が確実に増えている。絶対平和主義が相対化され、平和か戦争かの二者択一の時代から、今日では戦争と平和の混在化の時代を迎えている。さらにここに来て戦争への敷居を一段と低くしようとする動きが顕在化している。それ故に私たち市民運動の力量が心底試されている時代とも言えよう。







関西共同行動ニュース No85