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戦争は敵国だけでなく自国民をも犠牲にする ―戦時中の「防空法」をふり返る  大前 治  【弁護士/大阪空襲訴訟弁護団】



■「家を守らないと」― 逃げずに死んだ母

1945年3月13日の夜、大阪市上空に274機の米軍機が来襲した。街は猛火に包まれ、死者は五千人を超えた。
当時7歳だった谷口佳津枝さんは、空襲警報のなる中で母から言われた言葉を忘れられない。
 「親は家を守らないといけないから、お姉ちゃんと一緒に逃げなさい」
 服を着せてくれた母は、いつもより優しかった。12歳の姉と手をつないで猛火の街に飛び出した谷口さんが振り向くと、玄関先で心配そうに見送る母の姿があった。
それが最後の姿だった。数日後、自宅の床下から母の遺体が見つかった。政府の指示どおり床下を掘って防空壕を作っていた。自宅が焼け崩れたので逃げられなくなったのだ。
 これは偶然の被害ではない。「空襲は怖くない」という情報統制と「逃げずに火を消せ」という防空法によって生じた被害である。



■怖くない戦争、華々しい防空演習

1928年(昭和3年)以降、政府は大々的な防空演習を各地で実施した。日米開戦の13年前、まだ国民は戦争の怖さを知らない。華々しい模擬戦闘、市民参加の灯火管制を通じて、「戦争は遠くの出来事ではない。市民が国を守るのだ」と自覚させるイベントである。新聞には「全市ものすごい戦争気分」「軍民一体の成果」という見出しが躍った。
バケツリレーや灯火管制は、レーダー照準による猛攻撃には無力である。それでも、国民に危機感をもたせて戦争に協力させることに防空演習の意義があった。怖くない戦争、ワクワクする戦争が日常生活に浸透していった。

■「消火せず逃げた者は懲役刑」
という防空法

日中戦争が泥沼化すると、より実践的な国民指導が強まった。
1938年3月5日の内務省通達は、原則として老幼病者以外は避難させない方針を明記した。1940年12月3日の内務省通達は国民に「自衛防空の精神」を持つよう指示した。軍人に「捕虜になるな」と説いて自決や玉砕を促した戦陣訓(1941年1月7日)より早い時期に、「市民は空襲から逃げるな」という指導方針が確立したのである。
さらに、1941年11月26日に改正された防空法は、空襲時における退去禁止と消火義務を定め、違反者を懲役6ヶ月または罰金五百円(当時の教員の初任給の9ヶ月分)に処すると定めた。このとき陸軍の軍務課長であった佐藤賢了は、「空襲の実害は大したものではない。国民が混乱に陥り、戦争継続の意志が破綻するのが最も恐ろしい」と衆議院で演説した。国民に戦争協力をさせることが防空法の主眼であるというのだ。
さらに政府は、空襲時に地下鉄への避難を禁止する、空襲被害を話すことは国防保安法の処罰対象とする、空襲の報道は特高警察の検閲対象とする、と定めた。空襲被害に関する発言や疑問を封じ込めたのである。

■「命を投げ出して御国を守る」
という悲壮な空気
 
政府が1941年に全国へ配布した冊子「時局防空必携」は、全国民が国土防衛の戦士である、命を投げ出して御国を守れという「防空精神」の標語を掲げた。物資窮乏ゆえ消火設備は不足し、有り合わせのバケツ、防火用水、砂袋、火叩き(ハタキ)による防空訓練が繰り返された。町内会(隣組)は空襲時に逃げ出す者がいないよう日常的に監視した。
新聞紙は「焼夷弾は恐れず消せ」、「すぐに消せた」、「焼夷弾は手袋をはめて掴めば熱くない」といった安全神話や怪しい武勇伝を掲載した。実際に空襲が起きても被害実態は隠された。政府は、敵国のスパイに対してではなく、国民に対して真実を隠したのである。

■原子爆弾に対しても「初期消火せよ」

この方針は、空襲が激化した後も変更されなかった。
1945年3月10日の東京大空襲では10万人が死亡したが、その翌日に小磯國昭首相は「空襲はますます激化する。敢然と空襲に耐えることこそ勝利の近道」と演説した。翌月(4月20日)の閣議決定は、学童以外の疎開は認めないと決定した。
広島と長崎への原爆投下後、1945年8月11日に政府の防空総本部は「新型爆弾に対する心得」として、初期防火に注意せよ、火傷の防止には白い衣服が有効である、と呼びかけた。「原子爆弾は怖い、逃げよう」と思わせない情報操作である。
空襲被害を生み出した直接原因は、アメリカによる国際法違反の空襲である。非武装の民間人を狙った無差別大量虐殺は絶対に許されない。それと同時に、日本政府による「空襲は怖くない。逃げずに火を消せ」という国策が被害を拡大したことが忘れられてはならない。

■「戦争体験を語り継ぐ」だけでは足りない

いま生きる私たちは、戦争体験者の「記憶」を語り継ぐだけでなく、人々が「知らなかった」「疑問に思わなかった」「だから戦争が進められ、戦争に反対しなかった(できなかった)」という構造を解明して語り継ぐ必要がある。
大切なのは、爆弾が落ちてくる場面から始まる空襲体験ばかりではない。最初は「怖くない戦争」が華々しく報道され、そのうちに兵役に招集され戦死する人が身近に増えていき、それでも日本は戦争に勝つと教えられ、空襲は怖くないから逃げるなと指導され、戦争に反対したり逃げたりする者は非国民だと教えられ、空襲が頻発しても被害は僅少だと報じられ、戦争を怖いとも嫌だとも思わないままに戦争協力に邁進させられた。こうして、空襲の標的となる都市に多数の人々が住み続け、膨大な空襲被害が発生した。
この道筋を知ってこそ、「なぜ無謀な戦争が始まったのか」、「なぜ国民は疑問を持たずに戦争に協力したのか」といった全体的な理解が可能となる。そこに、私たちが戦争体験を掘り起こす意味がある。




関西共同行動ニュース No82