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「立憲主義」と「生前退位」

【反天皇制運動連絡会】 天野恵一


1月10日の『産経新聞』は、天皇の「生前退位」は本人の希望通りに18年までに実現し、在位30年の節目の19年1月1日(元日)皇太子の天皇即位の儀式を行うという政府の計画を、一面トップでいち早く報じている。新元号のスタートを国民生活の混乱なきようするためにそうするというのだ。

「具体的には、平成31年元旦、国事行為である『剣璽(けんじ)承継の儀』(三種の神器等引き継ぎ)と「即位後朝見の儀」(三権の長らの初拝謁)を宮中で行い、官房長官が速やかに新元号を発表する方向で検討している」。

もちろん、こうした皇室神道の儀式を「国事行為」などと憲法は認めていない。その点はともかく、この記事によると「大嘗祭」は、19年11月ぐらい、「有識者会議」の最終報告は、一代限りの譲位を可能にする方向で法整備へ向けたもので今年の3月中、政府の国会法案提出は5月連休明け、というスケジュールであるようだ。



「安倍晋三首相は6日、菅義偉官房長官、杉田和博官房副長官らと譲位に関する法整備をめぐり協議した。皇室典範に関しては、付則の一部だけを「改正」して特例法で対応するか、本則一部も「改正」するか、政府内で意見が分かれている」。退位後の住居、称号をどうするかも含めて皇室経済法や宮内庁法の「改正」も視野に入れた一括法案の準備が進められているようだ。この記事は以下のように結ばれている。

「憲法4条は『天皇は国政に関する権能を有しない』と定めており、『天皇陛下のご意向』を憲法違反にならぬ形でどのように反映させるかも焦点となる」。

天皇のストレートな意向(マスコミ・メッセージ)に突き動かされて、これだけの法改正という政治が動いているという事(すなわち違憲行為がなされ続けているということ)は公然たる事実である。それでもそう取られないような形にするためにどうするか政府は思案中だというのだ。ナンダ!これは。

内閣法制局のこの問題の憲法解釈については、こういう主張がマスコミに流されている。

「また、憲法4条にある『天皇は国政に関する権能を有しない』の解釈として、文書は『天皇の行為で国政に影響を及ぼしてはならない』。と説明。このため内閣法制局は、退位を可能とする立法では『天皇陛下の意思』を理由にするのは困難とする」。(『朝日新聞』1月6日)

事実はどうでもいい、憲法違反はなかったという外見(みせかけ)の文書がつくられればよい、というのだ。なんとこれが法制局の見解らしい。

政権も法制局も、マスコミも、立憲主義原則などどうでもよい、天皇発言をめぐる問題は、それへの批判は許されないのだから、「合憲」の外見をどううまく取り繕うかだけが問題、と公言しているのである。天皇のこうした政治行為は、憲法で縛りようもないと、政府官僚・マスコミは、こぞって自白しているのである。

天皇(王)というトップの支配者(権力者)を制限し縛る。それが立憲主義だろう。「法の支配」(rule of law)=立憲主義の公然たる破壊が、ここまでハッキリと進んでいるのに、安倍政権の九条破壊(解釈改憲)のための「戦争立法」には、あれだけ立憲主義原則を掲げて、政権の暴走に抗議の声をあげた、多くの憲法学者たちから、キチンとしたストレートな批判の声が、ほとんど出てこないのは、どうゆうわけか。戦後の憲法学が立憲主義と象徴天皇制規定という、憲法自身の内的矛盾と、キチンと向き合ってこなかったことがこの自己崩壊ともいうべき現象を引きおこさせているのだろう。



内閣法制局の「憲法解釈」についてレポートしている『朝日新聞』(1月6日)には、この問題についての野党(幹部)の発言が以下のごとく紹介されている。

「共産、自由、社民の各党幹部からも、皇室典範改正を優先すべきだとの声が上がっている。ただ、共産党幹部は『特別法に『反対』とは一言も言ってはいない』と語り、民進党の主張とは温度差もうかがえる。/民進執行部内には、『何でも反対とみられるのは得策ではない』(党幹部)との意見もある。このため、各会派代表者の会議で女性宮家創出などを含めた皇室典範改正の検討に合意を取り付けたうえで、当面は特例法による対応を容認する案も出ている」。

立憲主義破壊の「戦争法」反対運動の中で、その抗議の大衆行動を支えた日本共産党(志位委員長)は、この違憲の天皇「生前退位」メッセージに対して、「日本国憲法で、生前退位を禁じているということは一切ありません。日本国憲法の根本の精神に照らせば、一人の方が亡くなるまで仕事を続けるというあり方は検討が必要だと思います」『しんぶん赤旗』(16年8月9日)とのコメントでまず対応した。退位を憲法が禁じていないのは、その通りだが、天皇が法改正(づくり)を促すといった許されない違憲の政治行為を公然と行っている事態に何も触れない、ひたすらマスコミ世論に媚びたガッカリさせる態度(主張)であった。

この政治姿勢は、昨年1月(4日)の天皇出席の国会開会式への共産党議員の戦後初めての出席という「転向」ともいうべき態度変更によって準備されていた。

日本共産党系の代表的憲法学者であった長谷川正安は、この天皇参加の国会開会式問題について、以下のごとく論じていた。

「国会が召集され、開会式が行われると、天皇は参議院(旧貴族院)の特別席(旧玉座)につき、「お言葉」(旧勅語)をたまわることが例になっている。この天皇の行為は国事行為とされてきた。これは天皇が国会を召集する(第七条二号)という規定にもとづく国事行為ではなく、国会から招待されて出席する天皇の挨拶が『お言葉』であり、それは憲法に規定はないが、政府によって国事行為としてあつかわれてきた。/貴族院の玉座についた天皇裕仁が勅語をたまわるという明治憲法当時と、事実としてはまったく同じ行為━同一人物の、同じ場所での発言━が昭和憲法の規定の外で行われ、それを正当化する根拠もなしに、国事行為となってしまった。この『お言葉』が問題なのは、その内容もさることながら、天皇の憲法外の行為が国事行為となる先例となってきた点である。新憲法施行当時の『国体護持』派は、明治憲法・昭和憲法をつうじて、天皇が行なっている同一の行為を、同一であるがゆえに、公的な、国事行為と認めるのになんの抵抗も感じなかったであろう。しかし、明治憲法当時の天皇の行為が、そのまま同一人物によって新憲法下にもちこまれるだけでなく、憲法の規定の外で国事行為になるのは、二重に憲法に違反すると思うのだが、日本共産党の国会議員以外は何一つこのことについて文句をいわない」(傍線引用者)(『日本の憲法』〈第三版〉岩波新書・94年)。

天皇は代替わりしているが、憲法違反であることになんの変りもない。16年この天皇儀礼に、ついに共産党も文句を言わなくなった。自民党政権がすすめてきた「国事行為」の拡大解釈〈象徴「公務」論という解釈改憲のロジック〉への、共産党の屈服である。

それは、そのまま、天皇自身の「生前退位」メッセージという公然たる違憲行為への屈服へと、連動しているのだ。かくて国会の中には、天皇(王)を規制する立憲主義は消滅してしまったようだ。長谷川正安は、既にこの世の人ではない。そして、立憲主義者のはずの、殆どの憲法学者はあてにはならない。

国民(人民)主権憲法下の「主権者」である私たちは、さて、どうする。



関西共同行動ニュース No73