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関西共同行動2016年「反戦平和」連続講演会① 池田浩士さん講演報告

「ヒトラーとヴァイマール憲法」 【関西共同行動】 斉藤郁夫



 今年の連続講座の一回目は、池田浩士さん(元京都大学教授、ファシズム文化研究・現代文明論専攻)の『ヴァイマール憲法とヒトラー』と題した一月二四日の講演だった。印象に残った点を整理してみたい。

【1】最近よく「独裁は民主主義からでも生まれる、ヒトラーだって・・」という言い方がされるが、池田さんの講演を聞いて、この言い方は正しくないと思った。

 ヒトラーが首相に任命された一九三三年一月三〇日当時、国会での議席は(六万票で一議席、比例区のみ)、ナチ党一九六議席、社民党一二一議席、共産党一〇〇議席、ナチ党と連立を組んだ中央党七〇議席で、ナチ党の議席は三分の一だった。そこでヒトラーは内閣成立の二日後に国会を解散し選挙に打って出た。

 選挙までの二ヶ月間、ヒトラーが頼ったのが、ヴァイマールの末期にはよく使われた憲法四八条の大統領緊急命令だった。人命・社会の安寧秩序に危険が及ぶときは、この命令によって人権条項を停止できる。反政府的行動やゼネストの呼びかけの禁止、秩序を乱す文書の押収が行われた。さらに、この時期に起きた国会議事堂放火事件を共産党の仕業とし、共産党の禁止、左翼の逮捕、言論弾圧が行われた。

 これほどの弾圧の後でも、選挙でのナチ党の議席は三分の一のままだったという。ヴァイマール憲法下の議会制民主主義からは、単純に独裁は生まれなかったといえる。現在、自民党の得票率も三分の一だが、過半数の議席を確保できているのは小選挙区制のおかげだ。

【2】そこで、ヒトラーは「全権委任法(案)」を国会に上程した。

 これを通すには、全議員の三分の二の出席、出席議員の三分の二の賛成という憲法の規定をクリアーしなければいけない。そこでナチ党は国会議長職権で憲法の解釈を変え、総議席数から共産党議員や逮捕された社民党議員の議席を排除し、秘密会談で中央党をだまして賛成にまわし、反対は社民党の九二人だけとなって初めて成立した。

 全権委任法では、法律は国会のみが決めるという憲法の規定は適用されず、政府の決めた法律は翌日から発効した。まさに議会と憲法の死である。安倍政権の7・1閣議決定がこれに似ている。

 わずか半年でドイツの社会は様変わりした。秘密国家警察ができ、ナチ党以外の政党が禁止され、ナチの理念に反する政治・文化活動は禁止され、労働組合は暴力的に解散させられ、労働者は単一のドイツ労働戦線に再組織された。ヒトラーはやがて総統となり、ドイツは文字通り独裁政治の時代に入っていく。

【3】ナチ党の名称は「国民社会主義ドイツ労働者党」、キーワードは国民と労働者。

 当時のドイツは階級社会で、ビアホールでもブルーカラーとホワイトカラーの客席は別だった。労働者の差別撤廃がナチ党の綱領の柱だった。ナチズムは労働(労働とは肉体労働を指す)を重視、ドイツ国民(アーリア人種)だけの社会主義をめざすとした。

 ナチ党は、共産主義者や社会主義者、従ってソ連を、そしてユダヤ人を敵として攻撃した。その攻撃を効果的にしたものに、「匕首伝説」がある。

 ヒンデンブルク元帥は、第一次大戦でのドイツの敗因を『ドイツ国防軍は一度も敗北していない。ドイツ帝国は背後から匕首で刺されたために負けたのだ』と国会で証言した。戦争で疲弊した上に、ベルサイユ条約で背負った莫大な賠償金のためドイツが悲惨のどん底にあったとき、この伝説は国民に深く浸透した。一一月の裏切り者は誰か?

 一九一八年一一月のドイツ革命によりドイツ帝国は崩壊した。その裏切り者とはアカ(社会主義者・共産主義者・アナーキスト)とユダヤ人だ、という意識がつくられた。一一月革命の敗北がこのような社会状況をもたらしたといえる。

 このときに国民にすり込まれた感情は、ユダヤ人の大量虐殺によっても変わらなかった。

【4】ナチの犯罪はドイツ国民の責任ではない、国民は被害者だった、あの時代を二度と繰り返してはいけない、これが戦後西ドイツ政府の見解だった。

 ところが、一九五〇年代の西ドイツ世論調査の結果、『あの頃(ナチの時代)はよかった』と体験者の過半数が思っていることが判明。このことは、ユダヤ人虐殺やその他のナチの罪状が明らかになった一九七〇年代でも変わらなかったという。あの第三帝国の時代に国民は嬉々として生きていたということだ(もっとも、戦後ドイツから切り離された東欧の人たちはヒトラーに批判的だった)。この背景の一つにはナチの労働政策がある、と池田さんは指摘する。

 一九三三年には六〇〇万人の失業者がいた。失業者がボランティア労働にいくと政府の補助によってチップがもらえるという、ヴァイマール政府の自発的労働奉仕制度をナチ党が引き継ぎ、広げて行った。ナチ党の選挙ポスターには「この大失業状況をなくすのは誰か・・我々の最後の希望ヒトラー」とあった。

 一九三五年三月には徴兵制が復活し、ボランティア労働は義務化されていく。六〇〇万人の失業者は五〇万人に減少し、ヒトラーへの支持率は時を追って上昇した。ボランティア精神の誘発と収奪によりゼネコンはものすごく儲け、資本蓄積をした。ヒトラーが失業を「解消した」という事の真相は、このようなからくりだったのだ。

 そして、ナチスドイツは一九三八年から戦争への道を邁進し、とことん破壊されて一九四五年五月八日に敗戦を迎えたのである。

【5】暴力や脅しや虚言のせいではなく、本当に引きつけられる何か(未来への不安から脱出できる希望の芽のようなもの?)がナチズムにある、とドイツ国民の多くが思ったということなのだろう。

 不安・不満を抱えていたドイツ国民の多くに響く言葉を、社民党や共産党は持っていなかったということか。ナチズムに反対する勢力の分裂も大いなる不幸であった。

1938年ドイツ国会で演説するヒトラー




関西共同行動ニュース No71