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敗戦70周年の「戦後」責任 ―「戦争責任と戦後責任の違い」

【社会学者】 上野千鶴子




【上野さんは「8・6ヒロシマ平和へのつどい 2015」集会において、「敗戦70周年の「戦後」責任」のタイトルで講演され、「第1、現状確認」「第2、戦争責任と戦後責任の違い1」「第3、戦争責任と戦後責任の違い2」「第4、戦勝国との関係」「第5、戦後後の始まり」 「第6、戦後後の記憶の戦争 memory war」「第7、そしてどこへ」の7項に渡って、戦争責任・戦後責任問題を全面的に明らかにされました。講演はレジメだけで4ページ、時間にして70分に及ぶ力のこもったものでした。上野さんの作成された講演の概要を転載した後、紙面の関係で、「第3 戦争責任と戦後責任の違い2」の講演部分を掲載します。―星川】


(上野千鶴子さん講演概要)

『敗戦から70周年。大きな犠牲を払った歴史から私たちは何を学んできたのだろうか?

侵略と戦争の責任はもちろん問われなければならない。だが、国民の5人に4人が戦後生まれになった今日、戦争を起こし、止められなかった責任は戦後生まれにはない。とはいえ、戦後を生きてきた私たちには「戦後」責任がある。あの戦争の戦後処理をどのようになしとげたか、その歴史からいったい何を学び、何を学ばなかったのか?歴史が改ざんされ歪曲されようとしている現在、私たちが何をし、何をしてこなかったかのツケをしたたかに支払わされている。21世紀がふたたび「戦争の世紀」になることを、私たちは食い止められるのだろうか?』

■第3 戦争責任と戦後責任の違い2

わたしは戦後生まれです。ここにいる方はほとんどそうだと思います。「生まれる前に起きたことにわたしに責任はあるか」としょっちゅう問われます。基本的には「わたしが生まれる前に起きたことには責任は無い」「NO!だ」といいたいと思います。それを「ナショナリズムとジェンダー」という本に書いたばかりに、猛バッシングを受けました。

しかしそれは「父の犯した犯罪の責任を子供が負う必要があるか」「子供が犯した犯罪の責任を父が負う必要があるか」というような、家族一体感、国民一体感の前提に基づくものですから、「わたしは謝らない」と思っていました。

応用問題を考えたいと思います。「女に戦争責任はあるか」。女にあの当時選挙権はありませんでした。参政権とは、自分の運命を自分で決めることができる、他人に譲渡することができない至高の権利ということです。自分の運命を自分で決めることができなかった者たちに責任はありません。ただ空襲の下を逃げ回ってエライ目に遭ったというのが女性たちですが、NO!といってしかしBUTが出てきます。女が無罪だったかというと、ジェンダー研究家の若桑みどりさんが素晴らしいことを言っています。「女は戦争のチアリーダーだった」と。

戦後、女は参政権を持ちました。戦後生まれのわたしたちも、成人してからの方が長い時間を過ごしています。戦後、あの戦争に対していかなる戦後責任を果たしてきたかと考えたときに、成人してから後のわたしたちは、日本の戦後のふるまいについて有権者として責任がある。これはYESというほかありません。戦後責任で、日本が果たしてこなかったツケがどれだけあるかということをこれからお話ししたいと思います。

まず第1に、戦争に負けた国は損害を与えた国に賠償を払います。日本の戦後賠償・戦後補償は、国内と国外で、また国内でも著しい非対称性があることは特筆すべきことです。日本は国内向けに何十兆円という高額なお金を払っています。それは、主として旧軍人に対する恩給です。

これに比べると国外に払った額は微々たるものです。しかもこの恩給は、職業軍人、高級将校にきわめて手厚く、高級将校の遺族たちは月額30万を超える手厚い年金をもらって安心した暮らしをしてきました。予備役はここから全く排除されています。予備役は軍人としては扱われず、徴兵の場合でも3年未満の兵士には恩給は出ません。

手厚い恩給の受取手たちが「遺族会」をつくっています。この受益者団体が保守の強い政治的な基盤となり政治家を支えてきました。その代表が橋本龍太郎です。ここがドイツとの非常に大きな違いです。目のくらむような非対称性が蓄積されてきています。

最大の被害国であった中国に対して、長きにわたって国交断絶をしていて何の賠償もしてきませんでした。72年にやっと日中国交正常化を実現しました。このとき周恩来が「あれは日本ファシズムの罪であって日本人民の罪ではない。日本人民も中国人民も日本帝国主義の被害者だ」というロジックで賠償を免責するという驚くべき寛大さを示しました。中国では2000万人以上の死者が出たのにです。この取り決めのときの相手が田中角栄でした。

このときに周恩来と田中角栄の間で、尖閣諸島の帰属問題については棚上げしましょう、後世にゆだねましょう、しかも実効支配は日本にあるままで、と日本に有利な取り決めをしたのに、それをぶちこわしたのが石原慎太郎でした。その結果、尖閣をめぐる日中間の緊張がおきました。中国が怒るに十分な理由があります。

後に、このとき田中角栄の「伴走者」だった野中広務さんが、訪中後の記者会見で「あのとき尖閣列島は棚上げするという日中合意があった」と証言しましたが、自民党とメディアが完全にスルーしました。

もう一つ大きなことは、植民地支配の清算をしなかったことです。日本の敗戦(朝鮮半島の人には「光復」)のときに朝鮮半島の人たちと台湾人を「第三国人」という日本人でも外国人でもない、訳の分からないステータスにおいた後、サンフランシスコ講和条約に際して日本国籍を剥奪して外国人化しました。一般の外国人と同じ扱いをしたわけです。

その後定住外国人という別のカテゴリーで呼ばれましたが、この扱いは、他の旧植民地宗主国とはきわだった違いがあります。国籍というのは一方では義務でありもう一方では権利です。植民地支配の時代には義務としての国籍、兵役とかBC級戦犯とか強制連行とか果ては慰安婦に至るまで義務・苦役としての国籍を強制しておきながら、戦争が終わった後には権利としての国籍は付与しませんでした。欧米の旧宗主国では、旧植民地出身者には国籍を与えています。二重国籍というものです。日本はこれを与えませんでした。

二重国籍の人たちは、ビザの付与や留学や就労の許可に関して「特権」を持っています。日本は旧植民地の人たちにそうした「特権」を与えませんでした。それどころが、外国人化することによってその後、軍人恩給、年金、保険などすべてに国籍条項を付け排除してきました。被爆者手帳でも居住地の制限をつけて排除してきました。

さらに、旧植民地の人たちに対して行った非常に困ったミストリートメントがありました。50年代から60年代にわたった北朝鮮帰還事業です。これは、日本赤十字社によって、人道事業の名の下に行われました。わたしはその背景について、ジュネーブの国際赤十字社まで行って文献を調べたテッサ・モーリス・スズキさんの『北朝鮮へのエクソダス』という本で初めて驚くべき事実を知りました。

そこでは、人道事業の名のもとで、日本政府の意図は、当時困窮化しつつあった在日朝鮮人の生活保護受給者の数を抑制することと、共産党の中にいた多くの半島出身者を日本から追い落すことだったと明かされています。

日本の左翼、社会党が北朝鮮を理想化し、この企てに手を貸しました。しかしその「天国」がどういったものだったのかについては、帰国直前に思いとどまった辛淑玉さんが『鬼哭啾々 楽園に帰還した私の家族』に書いています。その当時、帰国した人々の悲惨さについては、うすうすまたは公然と明らかになっていましたが、それに蓋をして帰還事業を進めたのは罪です。

良心的知識人といわれる人が、「差別がこんなに多い日本のような社会にいるよりも母国に帰った方がいい」と発言しました。これは、日本国内での朝鮮人差別を解決しないで、日本国土からの追い落としを図ったことと同じです。当時日本は高度成長期に入っていましたから雇用機会が増えていたはずですが、朝鮮半島出身者は就職差別を受けていて被雇用者になれず、自営業者が非常に多かったのです。これはいまでも引
き継がれている差別です。

こうした中で、勝った国と負けた国を分かつサンフランシスコ講和条約に、一番肝心な、日本が一番大きな被害を与えた中国と朝鮮は参加していません。朝鮮半島は分断国家のままで、北朝鮮は「ならず者国家」にされています。中国とは72年に国交正常化がなり78年に平和友好条約を締結しましたが、いままた日本は中国を仮想敵国として敵対を強めています。65年には日韓条約を締結したのですが北朝鮮は積み残しのままになっています。北朝鮮に対しては戦後補償を含めた一切の取り決めが行われていません。

これが、わたしたちの戦後責任の現状です。内外に課題はたくさん残っています。敗戦70年のいま、その解決の努力が求められています。


関西共同行動ニュース No69