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米軍再編・日米軍事一体化が進む神奈川の基地をめぐって 神奈川反基地闘争との連帯を!【関西共同行動】  星川洋史

中北さんが連絡を取り、「原子力空母の母港化に反対し基地のない神奈川をめざす県央共闘会議」副代表の檜鼻達実さんの案内で、9月5日、神奈川県の4つの米軍基地を見学した。見学した基地は相模原総合補給廠、横須賀海軍基地、厚木基地、キャンプ座間の4基地だった。急なことでもあり、中北さん、三橋さんとわたしの3人だった。

朝10時、JR相模原駅で待ち合わせ、早速駅に連なる駐車場の屋上に上がった。相模総合補給廠が一望できる。現在は巨大な物置になっており有毒・有害物資を含めてのゴミ置き場になっている。しかし一旦事が起きると巨大な補給廠と化す。朝鮮、ベトナム、湾岸、アフガンの戦争では大きな役割を果たした。

72年には、当時の横浜飛鳥田市長が、この補給相で修理された戦車の重量制限を理由に通行禁止にした。それから百日間、労働者、学生、横浜市役所員までが村雨橋に座り込み、補給廠のゲート前でも戦車搬出阻止を闘った。横浜に向かう電車の中から、わたしたちがテントで座り込んだ正面ゲートに通じる道がちらっと見えその頃が思い出された。

現在は使用済みになった住宅区域などの返還や共同使用がすすめられているが、任務訓練センター、訓練支援センターなどが建設され訓練基地化の様相を強めている。

JR、京浜急行と乗り継ぎ横須賀中央駅から、原子力空母母港の是非を問う住民投票のために闘っている呉東正彦弁護士の事務所を訪ねたが、呉東さんに急用が出来たとのことで挨拶だけですぐに横須賀港に向かった。途中米軍横須賀基地正門前を通ったが、かってとは大違いで、米軍基地と言うよりはどこか大企業の工場の正門という感じであった。銃を持った米兵などは見えない。わたしが反戦運動を始めて経験したのは64年、原子力潜水艦寄港に反対する学生のデモだった。その時この正門前で武装警官が、スクラムで激しく抵抗する学生に警棒を振りかざして襲いかかり多数が怪我をした。怪我をした学生達を病院から連れ出し、鎌倉のわたしが住んでいた学寮にかくまうなどした。

今は、瀟洒な建物や植え込みなどで飾られていてベルニー公園と呼ばれる港の公園から遊覧船に乗った。かつてはここで原潜寄港阻止闘争など万余の集会を開いていた。檜鼻さんは「こうやっていろいろつくり、基地反対運動を邪魔している」といったがその通りだと思った。この感じは、08年、ジョージ・ワシントンの母港化反対集会に参加したときに感じたがそれがより進んでいると思った。どこも基地の周辺は美しく飾られ始めている。このことは9月7日の京丹後の集会でも沖縄の高里さんが指摘し注意を喚起していた。遊覧船では、基地を外から、しかし近くから見ることが出来た。基本的に東側が米軍、西側が自衛隊で共存していた。原子力空母ジョージ・ワシントンは出港中でいなかったが、原潜と思われる潜水艦はいた。自衛艦は見えるところに米軍艦船は隠れたところに。船の案内人の、自衛艦の説明が誇らしげなのが気に障った。



横須賀では11年の福島事故以来ますます原子力空母母港が問題になっている。それは当然だ。ジョージ・ワシントンには福島第一原発と同じような原子炉が二基積まれているのだから。この船には危険な燃料庫もあり爆弾も積まれている。こんな危険な原子炉は他にはないだろう。その上、配備前の原子炉の整備・修理は日本ではやらないという約束は破られ、港内の基地で修理が行われ、燃料の取り出し積み替えも行われている。そのときの放射能漏れも指摘されている。停泊中に事故が起これば三浦半島の半数の住民が死亡すると言われているのだ。

横須賀市民の強い原子力空母撤去の声をよそに、今年1月、米海軍と日本外務省は15年にジョージ・ワシントンをドナルド・レーガンに交代させるという。原子力空母母港の「永久化」を公言しているのだ。

横須賀を後に、京浜急行~相鉄線で再び県央の相模大塚に向かった。半世紀以上、第一次訴訟を起こしてからでも38年、「平和で静かな空を返せ」と厚木基地の爆音と闘い続けている爆音防止期成同盟の事務所を訪ねるためだった。予想したより大きな事務所に、およそ10人ぐらいの人たちが忙しく働いていた。わたしたちが着くとすぐ仕事をやめて、爆音訴訟団の団長の藤田さん、事務局長の相澤さんなどみなさんで歓待・応対してくれた。

今年5月21日の第四次訴訟判決で、横浜地裁は初めて自衛隊機の夜間(午後10時から翌朝6時まで)の飛行差し止めを命じたが、米軍機については「訴訟の対象にならない」と治外法権を認めて退けた。原告団は夜間飛行差し止め時間を午後8時から翌朝8時までにすること、米軍機にも適用することを求めて控訴した。政府の側もなんと70 億円の損害賠償が不当だと控訴した。裁判のことなので中北さんは熱心に質問し意見を言う。原告団の決意を聞いて、「頑張りましょう」と挨拶を交わして事務所を出た。

ここからは県央共闘会議の矢野さんが、厚木基地とキャンプ座間を案内してくれた。厚木基地は米空母艦載機80機、海自P3C20機のホームベースになっており、周囲に爆音と危険をまき散らしている。この日はジョージ・ワシントンが横須賀を出港していて艦載機の飛来はないようだった。それでも時折ジェット機が飛来し、ヘリコプターがホバーリングしていた。7月、8月には連続してオスプレイが飛来し、東・北富士演習場での訓練の拠点として使われた。地元では、今後東日本でのオスプレイ訓練の拠点になるのではないかと危惧している。

この広大な厚木基地でも周りの不要になった土地が返還され、サッカー場などがつくられ、若者や子どもたちが練習に興じ、大人が散歩していた。ここでも基地周辺の整備と、押しつけがましい共存のための開発が行われていた。

最後に行ったキャンプ座間は、07年以来、在日米陸軍司令部・第1軍団前方司令部の基地である。昨年陸上自衛隊中央即応集団司令部も移った。日米軍事一体化の象徴として、日米の合同司令部の機能づくりが目指されている。

指令機能中心とはいえ、厚木からの空母艦載ヘリコプターが飛来し、発着訓練を繰り返して騒音をまき散らしている。

ここでも不要施設・用地が返還され自衛隊家族宿舎や消防庁舎、病院、公園などの建設が計画されているという。しかし広大な基地本体は米軍が占有し、ゴルフ場や野球場、体育館、米軍住宅、家族住宅、グランドなどとして使っている。

たった1日の基地見学であったが、いろいろ考えさせられた。

神奈川県にはこれ以外にも、池子住宅地区(元弾薬庫)、横浜ノースドック(米軍専用埠頭)、本牧ふ頭、大黒ふ頭、神瀬谷通信基地、などがある。それらは、東京都の横田基地を含めて全て国道16号線沿線にある。それらのほとんどが、旧日本帝国陸海軍が、農民、住民から取りあげたものであり、それを占領軍・米軍が接収したのだ。その広大な土地の不要部分を返還し、自衛隊が利用し、日米軍事一体化が進められている。

わたしたち(イヤわたしだけかも)は、神奈川の基地闘争と言えば横須賀に目が行くのだが、神奈川では、県央共闘会議や厚木の爆音期成同盟と、横須賀の原子力空母母港に反対する市民の連携・連帯した闘いがある事が実感できた。それは、旧帝国軍の残したもの、自衛隊が受け継ごうとしているものとの闘いでもあると感じた。



■編集後記■―去る25日、福井市議会は米姉妹都市の「慰安婦」像設置反対決議を上げたが、その内容が振るっている。曰く「日本人への(いわれなき?)差別的行為であり(国連が採択した?)特定の国や人種差別を助長する表現は認めない」という内容だ。日本は戦中中国満州で極悪非道を働いた岸信介を首相にしたことを含め、ひたすら戦争犯罪の証拠隠滅と死人に口なしとして戦争責任を自らに問うことをしなかった。この倒錯した論を主張する福井市は、一度でも「いわれなきやありや」の検証をしたのか。今、各地のイベントで「9条の会」などの主張が政治的であるとして締め出され、労苦に支えられた戦争加害の碑の撤去される事態が頻発している。これがアベノリスクである。引き下がるわけにはいかぬ(古橋)。




関西共同行動ニュース No66