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砂川事件から安保を告発する  中北龍太郎

最近、50年代に起きた砂川事件が改めて注目されています。安倍政権が集団的自衛権の行使容認の理由づけの一つとして最高裁砂川事件判決をもち出したこと、米公文書館の公開文書で裁判干渉と司法権独立の動きが明るみになったことがそのきっかけです。7/1閣議決定によって安保が憲法を凌駕するようになった現在、安保と憲法が激しくせめぎ合った砂川事件を問い直すことが求められています。

■砂川事件とは

日本政府(以下政府)当局は、55年初めて砂川町(東京都の中部、63年に立川市に編入された)に対し、米軍立川基地の滑走路延長のための新たな土地の接収(強制収用)の意向を伝えました。砂川の農民たちは直ちに、これ以上の土地取上げを許せないと砂川基地拡張反対同盟を結成しました。砂川町議会も全員一致で基地拡張反対決議をあげ、また労組や学生などの支援の輪も広がっていきました。

米政府は53年から、立川をはじめ木更津・新潟・小牧・横田・伊丹の米軍基地の滑走路延長のための計画を立て、日本政府にその実施を迫っていました。この計画は、53年に誕生したアイゼンハワー共和党政権が立てた核兵器と空軍の大増強を柱とする対中ソ封じ込めのニュールック軍事戦略(核による大量報復)にもとづくものでした。

これに対して、反対同盟は、「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」を合言葉に、強制測量阻止の非暴力の闘いを展開しました。これに業を煮やしたダレス国務長官は政府に、「現在のデモに対して対抗措置を取ることが望ましいし、アメリカはそれを喜んでそれを助けたい。」と圧力をかけていました。56年10月半ばの闘いでは、警官隊の襲撃で最後の2日間だけで千数百人が負傷しました。こうした闘いの結果、政府の横暴に対する怒りと砂川闘争への共感が全国的に広がり、56年10月政府は測量中止を発表せざるを得なくなりました。



その後、立川基地内で米軍が敗戦後直後から一方的に使ってきた土地について、農民たちが土地を取り返す訴訟を始めました。これに対抗して政府側は、行政協定(52年の旧安保条約にもとづいて在日米軍に関して定めた日米両政府間の協定)実施にともなう土地使用特別法にもとづいてそれらの土地の取り上げを一方的に決定しました。そして57年7月、強制測量の暴挙に対して、デモ隊の一部が柵を壊して基地内に数メートル立ち入りました。多数逮捕され、うち7名が日米安保条約にもとづく刑事特別法違反で起訴されました。

これが戦後史上著名ないわゆる砂川事件の発端です。

■伊達判決と最高裁判決

1審東京地裁伊達裁判長は59年3月30日、被告人7名全員に無罪を言い渡しました(伊達判決)。伊達判決の要点は―

「①日米安保条約では、日本に駐留する米軍は、日本防衛のためだけでなく、極東における平和と安全の維持のため、戦略上必要と判断したら日本国外にも出動できるとしている。その場合、日本が提供した基地は米軍の軍事行動のために使用される。その結果、日本が直接関係のない武力紛争にまきこまれ、戦争の被害が日本におよぶおそれもある。したがって、安保条約によりこのような危険をもたらす可能性をもつ米軍駐留を許した日本政府の行為は、『政府の行為によってふたたび戦争の惨禍が起きないようにすることを決意』した日本国憲法の精神に反するのではないか。②そうした危険性をもつ米軍の駐留は、日本政府が要請し、それをアメリカ政府が承諾した結果であり、つまり日本政府の行為によるものだといえる。この点を考えると、米軍の駐留を許していることは、憲法第9条第2項で禁止されている戦力の保持に該当する。駐留米軍は憲法上その存在を許すべきではない。③米軍の日本駐留が憲法第9条第2項に違反している以上、国民に対し軽犯罪法の規定よりもとくに重い刑罰をあたえる刑事特別法の規定は無効。」

これに対し検察側は、高裁を飛ばしていきなり最高裁に跳躍上告を行いました。最高裁は59年12月全員一致で、伊達判決を破棄し東京地裁に差し戻しました。その理由の要点は―

「憲法9条は固有の自衛権を否定しておらず、日本の安全のために必要な自衛措置をとることができる。9条は他国に安全保障を求めることを禁じていない。9条が禁止した戦力とは日本が主体となって指揮権・管理権を行使し得る戦力を意味しているから、駐留米軍は9条が禁じる戦力にあたらない。安保条約は高度の政治性を有するから、その内容が違憲か合憲かの法的判断は原則として司法審査になじまず、一見きわめて明白に違憲無効であると認められないかぎりは、司法審査の範囲外である。米軍の駐留は憲法9条、前文に適合こそすれ、これらの条項に反して違憲無効であることが一見きわめて明白とは認められない。」というものでした。

(安倍政権はこの最高裁判決を集団的自衛権の
行使容認に利用しようとしましたが、判決をどう
読んでも、この判決が個別的自衛権の行使に関す
る判断であることは明らかで、余りにも乱暴な議
論です。行使容認論の憲法解釈のでたらめさがこ
こでも証明されました。)

■アメリカの干渉、司法権独立の放棄

研究者・ジャーナリストらが2008年から13年にかけて米公文書館の米政府解禁秘密文書を入手し、最高裁で米軍駐留は違憲ではないという逆転判決を得るために、米政府が内政干渉と政治工作の手をのばしていた事実を明るみに出しました。

マッカーサー駐日大使(マッカーサー占領軍最高司令官の甥)の3月31日付ダレス国務長官宛ての極秘公電(電報による公文書)によれば、「藤山外務大臣に会い、速やかに伊達判決をただすことが重要だと表明し、最高裁に跳躍上告することが重要だと提案した。これに対し、藤山は、全面的に同意する、閣議で上告を促したいと語った」と記されています。こうした政治工作の結果、異例の跳躍上告が決定されました。上告後米大使による内政干渉は、最高裁長官にまでおよびました。大使は田中耕太郎最高裁長官と秘密裏に連絡をとりあい、密談を重ね、逆転判決を得るためにさまざまな工作を行いました。そして驚くべきことに、長官は大使に裁判の進め方、争点や判決内容の見通しを報告しながら裁判を進めていったのです。大使が米政府に報告していた解禁秘密文書における長官の発言の要旨を紹介します。

4月23日付公電―「①本事件は、他の事件に優先して審理される予定です。」

8月23日付書簡―「①砂川事件の判決は、おそらく12月であると思われます。②弁護団は、裁判所の結審を遅らせるべくあらゆる可能な法的手段を試みています。③私は、争点を事実問題ではなく法的問題に閉じ込める決心を固めています。④口頭弁論はおよそ3週間で終えることができると確信しています。⑤結審後の評議では実質的な全員一致を生み出したいと思っています。⑥世論を〈揺さぶる〉素になる少数意見を回避するようなやり方で運ばれることを願っています。」

11月5日付書簡―「①裁判官全員が一致して適切で現実的な基盤に立って事件にとりくむことが重要です。②1審の判決に賛成する裁判官は一人もいないと思われます。③重要なことは、最高裁がこの事件で憲法に関して判断をすることです。」

こうした米政府による裁判干渉と、司法権の独立を放棄し公正な裁判の原則を踏みにじった長官の対米従属が、最高裁砂川事件判決を生みだしたのです。

■安保優先と憲法の空洞化

51年9月、独立を回復するための講和条約とセットで日米安保条約(旧安保)が結ばれました。この条約により米国は、ますます激しさを増していた東西冷戦下日本を西側陣営に組みこみ、占領時代と同じように「望む数の兵力を望む場所に望むだけ期間だけ駐留させる権利を確保」(ダレス国務長官の発言)しました。しかしながら、米軍機墜落事故、基地被害、米兵の事件事故が増大し、次第に米軍に対する怒りが広がっていきました。また、基地拡張工事、内灘などでの射撃場の新設計画や北富士などでの演習場拡張に対する抗議活動が全国各地で高まり、安保体制に対する批判も噴出していました。

こうした状況下、伊達判決が確定したら、米軍の存立基盤がすべて崩れ去ってしまいます。しかも、水面下で協議が進められていた安保条約改定の時期が刻々と迫っていました。伊達判決をくつがえすための裁判干渉は、何としても米軍の基地と特権を固めんがために、切迫した危機感から行われた汚い政治工作だったのです。

砂川事件は、憲法と安保が激しくぶつかり合った事件です。米軍基地拡張や基地内への立ち入りを処罰するための安保と行政協定にともなう特別法などの安保法体系と、徹底した平和主義と主権在民を根本原理とする憲法体系は、全面的に相容れません。日本にはこうした根本的矛盾をかかえた二つの法体系が併存しているのです。この根本的対立が基地の現場から裁判の場に持ち込まれ、二つの根本的矛盾をどちらの立場で克服するのかが深刻に問われたのです。憲法擁護の立場に立つ伊達判決と、安保を最優先しその前に憲法を棚上げにした最高裁判決とは、丸っきり正反対の立場に立っています。

最高裁判決は、日米両政府の思惑どおり拘束力と「権威」のある判決となり、今日に至るまで安保体制を正当化し、米軍を治外法権におき、憲法の空洞化をもたらしました。日本をこんないびつなかたちにした最高裁判決は、米国の裁判干渉・政治工作と最高裁長官の司法権の独立を放棄した法治国家破壊の蛮行によってつくられたのです。この事実は永久に消えませんし、またこの事実から最高裁判決の本質がはっきりと浮かび上がっています。

差戻し後の東京地裁判決は、被告人全員に罰金2千円の有罪判決を言い渡しました。しかし、解禁秘密文書で不公正な裁判が行われたことが明るみになったことから、被告人らが現在、裁判のやり直しを求めて再審を請求しています。

立川基地は、地権者23人が最後まで土地収用を拒否したため、69年に横田基地へ移転し、77年全面返還されました。基地の現場では、砂川闘争は勝利したのです。




関西共同行動ニュース No66