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●悲報 和田喜太郎さん死去 生駒山麓《WADA工作室》雑兵志願見習万年初年兵よりの追憶 【緑のネットワーク・青山】 やまだあきら


 和田さんと出会ったのは69年の冬「週刊アンポ」に載っていた東大阪べ平連での読者会に出かけて行った時で、私が18才の時。それ以来、東大阪べ平連に出入りするようになって、和田さんのあとをついて回って集会やらデモに参加し、私の青春時代はいつも和田さんと一緒だった。

74年に八鹿高校事件があって和田さんについていって集合場所に着くと、貸し切りバスには「在阪共産主義者同盟・現地調査団」なる横断幕があってビックリ。その時に初めて和田さんも元日共党員だった事を知ったのですが、和田さんも「あの横断幕はチョット恥ずかしいな」と。また現地八鹿は和田さんの故郷の近くで知り合いも多く「まだ僕が日共党員だと思っている人が多いので親しく声をかけてくる」ともらしていました。

当時の東大阪べ平連は、近くの八尾自衛隊基地へのデモを共催したり関西べ平連主催のデモに参加していたのですが、東京や各地のべ平連が解散するようになった時には、「最高幹部兼最低下っ端」(HOB通信bXより)の二人だけでしたが、交友関係の広い和田さんの呼びかけで73年に「反戦市民運動懇談会」が始まり、今までの反戦運動だけでない多くの人との出会いがあり(その中のひとりの女性と今も暮らしていますが)、この時に出会った人との付き合いは今も続いています。反戦市民運動懇談会の集まりで故向井孝さんのサルートンに故寺島珠雄さんが来られ、冗談で「向井学校の生徒が集まってるな!」かのような事を言われた時に「あのう、私は和田学校の生徒です」と恥ずかしげもなく自称し、和田さんの個人誌「雑兵通信」をもじって自分自身の発行するミニコミに「生駒山麓《WADA工作室》雑兵志願見習万年初年兵」と書くほどでした。

出会った頃は何もわからず、和田さん宅に行ってはガリ切りや通信の作り方を教わったし、本棚には谷川雁の「工作者宣言」の初版本もあり、色々な本を借りて帰った。特に和田さんの手作りガリ版印刷機は片手で早刷りできるのが特徴で、刷り方も教わり自分でも印刷機を作って印刷していた私にとっては、和田さんは思想面でも技術面でも「恩師」であった。一枚の原紙を破らずに、200枚は印刷できた。

べ平連の通信とは別に和田さんが発行されていた個人誌「雑兵通信」は、いつも細かい字で埋まっていたのですが、ある時女性と並んだ普段着姿の写真のハガキが送られてきて「結婚しました」とありビックリ。私も親離れ?をせねばと思ったのですが、和田さんの新婚家庭に押しかけてはお連れ合いの方からもガリ版の指導をうけました。

反戦市民運動懇談会が解散するようになっても、その中から78年に良心的軍事費拒否の会・関西グループが生まれ、その後も市民平和訴訟など運動は脈々と続いている事に、和田さんの人望をいつも感じていました。

 三重県に移住してから創った「緑のネットワーク・青山」の事務局を担当して15年間、毎月通信の発行やイベントをし続けられたのも、和田さんから教わった事のおかげです。93年10月には「兵役拒否をした北御門二郎さんを囲む会」を青山で行った時には来られて、集会後は我が家に一泊された。また和田さんが編集された「藤本敏夫のうた」を送っていただき、読んでいると和田さんに同行して神戸や三宮に行った事が思い出されました。

その感想を伝えようと思っていましたが果たせず。メールで本のお礼と「和田さん自作の竹製旗竿は今も反原発のデモの時に使わせていただいていますけど、東大阪べ平連の黒旗は預かったままになっているからそのうち返しに行きます」と伝えたまま、私の家族には「私が死んだらこの旗は和田さんに返して」と言っていたのに、それほどたたないうちに悲報を聞き、残念でなりません。

(和田喜太郎 12年11月14日命日。享年83)
       



関西共同行動ニュース No61