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●原発建設を拒否した和歌山・日高町を訪ねて 濱一巳さん インタビュー 【関西共同行動】 古橋雅夫


■はじめに
原発の立地点を見ればわかることですが、福井県沿岸に16基ある原子力施設に比して、大都会大阪を挟んで反対側の紀伊半島には一基の原発もありません。それは偶然でしょうか?むろんそうではなく、関電の建設計画はバランスをとるかのように5か所にわたって進められていたのです。しかし、それらはことごとく破産したのでした。どのようにして?3・11の福島原発事故以来、このことがあらためて見なおされています。安全神話に眩惑された圧倒的な推進派と関電の札束攻勢の中で、何が起きたのか。当時反対運動の中心であった濱一巳さんを現地に訪ねました。

リアス式海岸が続く紀伊半島ですが、46年にM8の南海地震が発生した際、多くの地域で土地が陥没しました。その時に阿尾の入江ができています。それ以前は豊かな農地であったそうです。当初、「木材の貯木場」ということで土地買収があり、地元としても「使い道ができた」と喜んで地権者は土地を売りました。ところがいつまでたってもそれが実行されない。「どうなっているんだ」と聞くと「もう、そんな話ではなくなっているんだ」ということで、すでに土地は転売され、その場所に関電の原発建設計画のあることが暴露されます。慌てた元の地権者は「話が違う」と土地返還を求めましたが「契約にない」とにべもない。こうした第三者を通じて密かに土地買収を進めるのが関電の常です。比井崎漁協として正式に「受入れ拒否」を宣言したのは90年ですが、国が正式に建設候補地を解除したのは05年です。その間にこの土地はその後どうなったのでしょうか。日高町は不動産会社と粘り強く買い取りを交渉。遊休地のまま不法ゴミ捨て場と化し、その扱いに困った不動産会社は、ついに無償で町に返却しました。そして今はそこは新たなビオトープにすべくバードウォッチング小屋が建てられています。それだけではありません。いつまた町が知らぬ間にこの土地を売却するとも限らないと「原発反対派」の町長の擁立を欠かしていません。以来、現在の町長も反対派です。日高における原発立地問題は、ただ拒否してそれで終わったのでなく、今なお原発反対の手を緩めてはいないのです。

このことは、次の原発候補地であり最大の闘いの焦点でもあった小浦でも同じです。濱さんの住む、いや営む民宿「波満の屋」はそこにあります。目の前はすぐに海水浴場です。小浦の山は当時小浦さん個人所有でありましたが、その海岸沿いの山を「ゴルフ場を建てるため」ということで不動産屋が買収しました。しかし工事が始まりません。ここもまた「どうなっているんだ?」言う間に原発建設予定であることが発覚します。この地もまた「勝利」ののちに同様に日高町は買い取り策を進めます。ついに維持費に音をあげた不動産屋は格安で町に売却しました。今、日高町はネットでも「クエ料理の町」として紹介されています。そしてさらには温泉を掘り当て、ここに日高町温泉ありとして名を上げています。また目の前の海は最もきれいな海ベストワンとして夏には海水浴客でにぎわうところでもあります。これらはすべて未来に向かっての日高町の再生の道筋なのです。これこそが反原発の成果というべきでしょう。私たちが真に闘いから学ぶことはここにもあるように思います。

■濱一巳さんインタビュー



▼まえがき
現地での反対運動の中心となるのは当時まだ二十代の青年漁師であった濱一巳さんですが、まずもって親父さんが反対の旗手先方でした。そこに伊方原発差し止め訴訟で原告側の証人としても論陣を張った久米三四郎さん(阪大講師)が和歌山県での原発計画に驚愕して飛んできます。そうした出会いの中で「建設が始まってから反対したのでは遅い。裁判で長期に闘うことを考えたら、今命がけで阻止すべし」という結論にまず達したのでした。

▼いかにして総会の主導権を握るか
 『原発に反対といっても世代間で考え方は違う。老人と若者、そして子供・孫と。私たちは青年団として仲間を募りました。当時比井崎漁協の理事は14名ほどでしたが、反対派は3名しかいません。組合長は理事による互選で選ばれます。推進側は、多数を決め込んで進行表を作成してその通りに進め議決を得る大勢にある中、議長(組合長)を選出で推進側が漁師でない人物を押すことを知ると、そこを衝いて反対派の議長を選出させ、総会で議決させず閉会に持ち込む作戦をとりました。

またいち早く臨時総会の日程を知ると、即座に議題の問題点を書き、夜中に小学校に偲びこんでチラシ2千枚を印刷。朝5時までに新聞に折り込むべく届けて全戸配布したこともありました。そうした事で漁には出れず、夕方になれば仲間と対策を練るという日々が続きました。

7時間に及ぶ総会がありました。何度も休憩に入るも我々はトイレにも行けません。その場を離れることはできないのです。その間に推進派の根回しがあるからです。その時、お茶・おにぎりを持った女性陣が「がんばってよー」と大挙して差し入れてくれました。会場もまたその雰囲気に圧倒されるわけです。ついに「あしたも漁に出んならんにいつまでだらだらやりよんのやー」と議長も怒りだして流会です。またある時はゴリゴリの推進派であった理事長が、県の水産課長など「来賓」6名ほどを総会に呼んで前に座らせ、それを頼みに議事進行を図ろうとしたことがありました。ところが、(濱さんの)親父が「なんでこんな関係ない人間を前に座ってするんや!お前らに用事ない。出ていけー」と来賓用の机・椅子をひったくってしまった。来賓は立ったままでいるしかなくなり、マスコミは固唾をのんでその場の成り行きを見守っています。窮した組合長は理事を降り散会です。この日の総会はたった7分で終わりました。
我々反対派が推薦した組合長が推進派に寝返るといった事態もありました。どこからか我々反対派の悪評が宣伝され、内部の議論も筒抜けとなりました。理事会でのやり取りもやりにくくなってきます。いよいよ少数派になって反対運動内部でも意見がぎくしゃくしてきました。そうした中での総会です。その時に反対派の理事も壇上に上がるかどうかで議事が始まる前に組合長と取っ組み合いとなる一幕があり、これまた散会となりました。

▼総会のクライマックス
いよいよこれでは受入れが決まらんということになって、推進派であった一松町長が漁協総会に来るという最後の勝負に出てきました。陸上部の事前調査はすでに終わっていましたが、問題は海上事前調査の受入れ問題でした。それは絶対許さないという構えでした。町長がそれを頼みに来ることは分かっていました。その時の組合長も反対派でしたが断るわけにはいかない。打つ手はなかったが「来るなら来いや」という感じで、この間の闘いの成果を得て不安はありませんでした。そして総代会が開かれ、町長の話が始まりました。「実は、次の町長選に私は出馬しない。それで何度も審議してもらっている事前環境調査だが出来ればそれを受け入れてもらって、以後のことは後進に譲りたい。よろしく頼む」と頭を下げ、そのまま帰ろうとしました。その時「これは・・・!」と思いました。これでは受入れ可否の決を我々に預けられてしまう。町長は「頼んできた」として公表するだろう。まずい・・・と。ここで一松町長の策略を悟りました。

が、その時若い漁師が叫んだ。「さっきから聞いてたら、己の花道を飾る話ばっかしでよ、後の我々はどうなってもかまへんいうんか!」「そやないんや、君らのことは君らでいいように判断してくれたらいいんや」と応える町長。外では大阪から駆け付けた仲間が太鼓たたいて大声で「原発反対」を叫んでいました。会場内には反対派の長老も多く集まっていて「そんなに金がほしかったらわしがやろか」とヤジが飛びます。それでも町長は帰ろうとするから私は立ちあがって話し始めました。「あんたが事前調査やなんやばっかし言うてきて、町の中はおかしなってしもた。漁師いうもんは助け合ってこそ漁ができるんや。仲間なんや。あんたにはその気持ちがわからんやろ。半年前に(反対派の)漁師仲間が海で行方不明になる事故が起こった。同じ組合員であれば漁を止め1週間全員で捜す決まりになっている。時化(しけ)の日もある。なんとしても見つけ出すということで6日目にきれいな姿で見つかった。その時は反対派も賛成派もなかった。周りの漁師全員が参加し、女の人は炊き出しで走り回った。その姿見て感動した。その時の一致団結する漁師の気持があんたにはわかるかー」と20分ぐらい演説しました。このまま町長から話預けられたらまたこれから審議せなあかんはめになる。そうさせないためにも町長を説得することに必死でした。その間に推進派のヤジもあったらしいが「やかましいや、ええ話やないか黙って聞け!」との一喝で沈黙。外にいる応援団も「今濱さんが話してるから静かにして!」と太鼓の音も止んだ。そしたら町長は「濱君!わかった。これ以上言わんでくれ。その気持ちは分かった。もう今日から二度とこの話は漁協には持ってこない。この話は今日で終わりや。約束する。それでええな。今日はこれで帰らしてくれ」と言って町長は退散しました。多くの推進派も含め全員が顔を合わせた場面であるからこそ、私の話が説得力を持った瞬間でした。ただ、あくまで主催は組合の執行部、組合長ですからこの日の内容をどうまとめるのかが焦点でした。

そして話し合った結果「町長が断言した以上、今後原発に関しては組合として審議しない」と表明。推進派含めた理事全員がそれを承認しました。実は町長室では先のシナリオ通りに「受入れをお願いしてきました」という予定原稿まで準備した多くのマスコミが帰りを今か今かと待ちかまえていたのですが、町長は自宅に帰ってしまって戻ってきません。それで行き場を失ったマスコミ陣が「どうなりましたか」と(濱さんの)自宅前に集まってきて大変でした。自宅に入ると親父が2階から降りてきました。「どうなった」「おやじ、終わった。これでもう原発の話はない」と経緯を説明しました。軍隊上がりの怖い頑固おやじでしたが、その時ばかりは親父の目にも涙が光っていましたね。



▼エピローグ
翌日には「漁協受入れ反対」の文字が新聞に載りました。それまでは町民の目には「漁師は保証金が出れば海を売ってしまうもの」と見られていましたが、「そうやないんや」ということが分かって、もともと原発に賛成しているわけでもなかったのですが、このことで大きく町内に反対の声が広がりました。そして町長選が始まり、そして受入れ反対派の町長がついに登場したわけです。早速関電に行って「原発はいらない」と日高町として正式に申し入れをしました。

一気に風向きが変わったわけです。それを受け「祝杯を!」という声がないわけではなかったのですが、「ちょっと待て」と。「そんなことしたら、それでなくても賛成派・反対派で割れた気持にしこりが残る。ここは静かに静かに・・・」。うれしい気持ちは一杯でしたけれどもそれは抑えました。その時から30年、確実に当時のしこりは小さくなっています。もし逆に原発ができていたら、こうしたあたりまえの人間関係も出来なかったでしょう。建設させなかったということの意味を改めて感じます。』

▼インタビューを終えて
この日のインタビューは以上で終わりました。この物語には筋書きはありません。しかし、濱一巳さんの叫びは圧倒的な説得力を持ち、関電の原発建設のもくろみは潰え去り現在の和歌山があります。そのご本人を前にして、大阪での反原発への決意を新たにしました。





関西共同行動ニュース No61