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「脱原発社会」は我々の手で 【さよなら原発一千万人アクション  呼びかけ人】鎌田 慧

 原発の危険性は、いまでも事故の原因がなんだったのか、被害がどのくらいなのか、これからからどんな被害がでるのか、まったくわからない、ということによって、人間社会にあってはならないことが証明されている。飛行機事故や化学工場の事故でさえ、恐怖そのものだが、それでも時間がたてば収まる。被害がどれほど大きかったとしても、一万年、十万年の未来の子孫にまでおよぶことはない。

 原発は修復不可能な被害をもたらす。「核は人類と共存できない」というのが、ヒロシマ、ナガサキの教訓だった。核、放射能。これは人類と地球環境にとって、否定的な危険な技術だが、わたしがそれとおなじくらいに否定的なのは、原発政策推進のやり方が汚いからだ。危険なものを売り込まなければならないから、ウソで防衛されている。

「民主、自立、公開」というのが、「原子力基本法」に定められている、原子力開発をはじめる「条件」だった。かつての侵略国だった日本が核武装にむかうのを防ぐための、学者たちのささやかな抵抗策だった。被曝国が核に関わる歯止めでもあった。

 ところが、最近、「原子力の憲法」というべき原子力基本法第二条に、「安全保障に資する」との文言を秘かに挿入した。これまでも、実際には「民主、自主、公開」などとはウラハラに、「ウソ、カネ、脅し」の三条件で、この四○数年、原発建設をやってきた。いまもまだ、「安全」「安い」「電力不足」など、だれも信じなくなったウソに依拠している。「日本経済が空洞化する」、「病院の停電で手術ができなくなる」。あい変わらず、ウソ、カネ、脅しを使っている。これまでマスコミをつかって、堂々とやってきた手法である。

 東電社長が、自分の発電所が放射能を撒き散らして、住民から苦情を受けると、放射能は「無主物」と言い逃れたり、「電気料金を上げる権利がある」などと平然と発言するのは、広大な地域を一社で独占してきた傲りと、発電から送電までを一手に支配している、独特の権力性からのことだ。「東電事故」は、「放射能放出犯罪」というべき、許されざる犯罪なのだ。その犯罪は、官僚も、政治家も学者もマスコミも、存在し得ない巨大な独占企業から上がる、膨大な超過利潤を背景に、巨額な資金にものをいわせて封じ込めてきた結果なのだ。(東京電力一社でさえ、年間二○○億円の広告費と二○億円の自治体への寄付金)。いまは国の資金をつかって、賠償金を払うことになっているが、それでもとても一社で支払える損害ではない。それが原発の真実である。

 野田内閣は、環太平洋連携協定(TPP)、米軍機「オスプレイ」の受け入れ、歯止めなき対米従属と増税、「国民総背番号制」といえる共通番号(マイナンバー)制度の導入などを図り、自民党と一体化した悪政と原発容認に「命を賭ける」「責任を取る」など、恥ずかし気もなく、エモーショナルな言辞を弄している。

 野田政権の重大な政治的犯罪は、全原発が運転停止していた期間を、二ヶ月間だけにして、世論の反対を押し切って、安全性などに気を配ることなく、大飯原発二基を再稼働させたことである。 これは、原発に頼らない、過剰な電力を拒否して、節電によってあらたな社会にむかおうとする、主権者の決意を踏みにじった行為である。原発社会からの脱却は、核支配体制の拒否であり、その体制を維持させてきた財界と政界と官僚による権力構造(「原子力帝国」)の解体をめざすものだが、抵抗は強い。

 わたしたち、「さよなら原発一千万署名市民の会」(内橋克人、大江健三郎、落合恵子、鎌田慧、澤地久枝、坂本龍一、瀬戸内寂聴、辻井喬、鶴見俊輔)は、六月十五日に首相代理の藤村官房長官に、七五○万筆の署名を手渡した。
 官邸を訪問したのは、内橋克人、大江健三郎、澤地久枝さんとわたしの五人、それぞれが、政府の核政策を批判した。七五○万筆の重さを感じて欲しい、と主張したのだ。

 署名は、すべての原発の廃炉とプルトニウムを生産する再処理工場とそれを使用する増殖炉「もんじゅ」の廃炉、そして持続可能なエネルギー政策への転換を求めるものだった。わたしたちは、その三日前にも、国会で四○人以上の議員たちと、同じ主旨の集会をひらいた。民主党、共産党、社民党、無所属の議員が集った。

 民主党の議員ふたりが、原発に反対すると、選挙は応援しない、と労組から脅かされている、と発言したのは、原発産業は労使一体で、原発利権をまもろうとしているからだ。

 いま、しだいに強まってきた「脱原発」を要求する市民中心の大運動と原発護持派との明確な対立になってきた。この命と子どもの将来への不安を基礎にして、政権の政策変更を求める運動は、日本のこれまでの社会運動とはちがう地平を拓いている。原発をなくすためには、原発に依存している、国、県・市町村などの地方自治体、財界、会社、労組を変えなければならない。

 たとえば、大組織である「連合」が、「脱原発」の長期に亘る政治ストをうてば、政府は参った、というかもしれない。 あるいは、連合が原発依存の会社方針を変えるために、原発メーカーや電力会社にたいする、ストライキなどの闘争が必要である。たとえば、東電の労組が、「原発をやめろ」と長期ストを打てば、東電は「参った、やめよう」となる。が、これは現状では夢想にすぎない。なにしろ、民主党の国会議員を、原発反対といったら、選挙で落とすぞ、と凄味を利かせているほどだから。

すると、市町村の自治体が「原発依存をやめた」というのに期待するしかない。これには、JCO事故でひどい目に遭った「東海村」の村上村長が、フクシマのあと、脱原発運動に加わるようになった例がある。人間的な良心の表現である。しかし、東海村議会が、「脱原発」を宣言するのは難しい。経済的依存がつよく、議会では原発派が多数だからだ。

原発立地の県知事で、脱原発を主張するひとはいなかった。さすがに被害地の福島県知事は、脱原発を宣言、議会でも批判派が多数である。他の自治体がこれにつづくのが、これからの「脱原発運動」の課題である。

 政府、たとえば、野田首相は「脱原発依存は中長期のエネルギー政策」と曖昧模糊たる表現で韜晦している。「原発は重要なエネルギー」などともいって、まだ原発中毒から脱却しようとしていない。二○三○年一五パーセントか、期間を決めない「脱原発」でお茶を濁そうとしている。前任者の菅直人がせっかく「脱原発」を宣言したのだが、野田内閣はいちじるしい後退である。

 しかし、福島原発は収束されようもなく、被曝の不安がますます強まっている。再稼働反対、脱原発の集会やデモがしだいに盛り上がってきたのを、しだいに無視できなくなってきた。野田内閣に、「脱原発」を覚悟させるためには、財界の「原発推進」の圧力よりも、「脱原発」の市民運動が強くならなければならない。わたしたちは、「脱原発」の八○○万署名を集め、目標の一○○○万まで、あと二○○万にせまっている。

 昨年九月、明治公園で六万人集会、今年七月、代々木公園での一七万人大集会、国会包囲デモ、毎週金曜日の首相官邸デモの盛り上がりと、市民の非暴力運動によって、政府を追い詰めている。 この大市民運動によって、政府、国会へ政策の転換を迫っている。

 デモ、集会などの市民運動とともに、その力で、市民による「脱原発基本法」の立法によって、原子力開発を促進する「原子力基本法」を否定していかなければならない。

 まして、野田内閣はどさくさにまぎれて、いつのまにか、「原子力基本法」第二条、「自主、民主、公開」による平和利用を規定した条文の精神を否定する、「安全保障に資する」という文言を挿入した。「自民党の圧力だった」と細野大臣がいった。消費税増額との取引だが、「死の取引」といっていい。
 民主党からの脱党者がつづいている。脱原発の議員の不満がたかまっている。野党の議員とともに、超党派議員によって、「脱原発基本法」をいまわたしたちは提案している。

 市民が作成した法案である。それを議員が提案し、つぎの国会で成立させたい。この法案への賛成、反対をテコに、選挙は「原発推進派」対「原発反対派」の戦いになる。対立点が明確になる。

といって、「選挙闘争に埋没させよう」などとは考えていない。あくまでも、集会、デモ、さまざまなイベントによって、政府に政策の変更をせまり、国会議員の意識を変える。院外と院内の闘争を結んだ、市民が時代を変える時代のはじまりである。

関西共同行動ニュース No60