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原発事故に学んで 「共生共貧」の未来を   【使い捨て時代を考える会】 槌田 劭





■福島で何が起こったのか
起こるはずのないとされたことが起こってしまった。絶対に起こってはならないことが起こった。「想定外」という無責任が、対処できぬ危険をばらまいた。被災された方々に心は痛む。
現代のバベルの塔が崩落・爆発したのである。バベルの塔の寓話は古代人が人類の傲慢を戒めるものであった。神に近づきたいと思うこと自体を許しがたいことだという反省である。神を人の姿に似せて想像すること自体がとんでもなく傲慢なのであろうが、その人類が文明をもったとき、自らを神と錯覚する危険な道が予定されていたのであろう。「安全神話」で武装した科学技術《教》は、その祭壇に傲慢な文明をまつり上げた。その罪が裁かれたのである。
そもそも、火の文明にも傲慢を戒める神話がある。人類の神といわれるプロメテウスの寓話である。ゼウスの神殿から火を盗み出し、人類に火を与えたことに、主神ゼウスは怒る。神の扱う火を人類が持つ時、自らを神と錯覚し、のぼせ上り、傲慢になると思ったからだという。この寓話に続くゼウスの企らみはよく知られている。パンドラの壺である。プロメテウスの弟、エピメテウスの結婚祝いに、ゼウスが贈ったお祝いであり、人類の社会的災厄がばらまかれることとなる。
ちなみに、プロメテウスは「早とちりの神」であり、エピメテウスは「後知恵の神」である。妻パンドラがあわてて閉じ込めた最後の一つが「予見力」である。人類は予見力を欠くが故に、過誤や失敗を重ねるとも知らず、「夢と希望」に暴走する文明に狂喜した。「想定外」の悲劇となった。何という皮肉であろうか。



■火の文明、その罪と罰
火は人類の暮らしに明るさと暖かさをもたらし、進歩発展の道をひらいた。と同時に災厄の火種ともなった。金属文明は火とともに登場するが石器文明に生きる人たちの素朴な暮らしを蹂躙することにもなった。石を燃やすことを知った産業革命は、中世の農民から耕地を奪い、無産の労働に刈り立てることになった。生産力の向上は資源と市場の必要性から植民地獲得の暴虐の歴史のページをひらいた。平和に生きてきたアジア、アフリカの悲劇の先に、植民地の分割支配があり、そして帝国主義戦争へと進んだ。火力の進歩は悲惨レベルを飛躍的に向上させ、理不尽の山を築いた。
文明は力であり、力を支配する強者がその力によって弱者をふみにじってきた歴史は悲しい。その歴史が火の技術の進歩とともにあった事実をどう省みればよいのだろうか。
プロメテウスの火はいのちの火であった。地上の緑の世界の用意する遺骸、薪炭の火であった。ゼウスの神殿、太陽エネルギーに由来する安定した緑のある限り、持続的である。しかし、産業革命と現代工業を支える石炭と石油は地下から来る。地獄の冥王と恐れられたプルトーの支配圏からの盗掘である。
化石燃料の有限性は今更論ずるまでもない。現生世代がその消耗を享受すれば未来世代の利用可能性は消える。私たち、現生世代の享楽は未来世代の権益を侵害する利己主義・刹那主義によるということである。目先の損得打算で、冨者が貧者を、強者が弱者をふみにじり、搾取するのも、このエネルギー文明の本質に由来している。覇権大国が第三世界を支配抑圧する理不尽も同根である。
その化石燃料をめぐって血なまぐさい争奪が絶えない。中東、パレスチナの問題もイラク、イランの問題も石油の利権によることは周知の現実である。そして、有限の石油も近年、大型油田の発見はなく、オイルピークを迎えている。石油の時代は終わろうとしており、強欲な文明には破局が待っている。乏しくなればなるほど、その獲得を巡って資源戦争は激化するだろう。熱い火が吹き、爆発的な核戦争にのめり込むことのないよう、冷静な努力が求められるのだろう。
■強欲利権に支配される核
石油文明の行き詰まりは、「石油枯渇の30年」と、くりかえし語りつづけられてきた。地下資源を独占する強欲利権集団によって、情報操作されてきたが、狼少年的に軽視してはならない。狼の森近くに生きる現実を直視しなければならないからである。
原子力の「平和利用」の語られた、50年代は核の問題にゆれていた。核の利用は広島・長崎の悲劇に始まっている。東西冷戦の激化の中で核開発は進展し、54年にはビキニ水爆実験、第2福竜丸の被爆となった。南太平洋の慎ましく生きる住民たちの頭上にも白い死の灰がふりそそいだ。そのような状況を背景に「平和利用」という虚偽表示のもとに、核兵器産業の裾野を拡げるために原発が登場した。軍事利用だけの核では、経済的にも人材的にも維持できない状況の故に、である。
ビキニ実験をきっかけに、日本発の原水禁運動は世界に拡がった。しかし、文明史的な反省を欠き、成果につながることがなかった。運動の分裂と挫折への評価はともかく、その間際をぬって、原発推進路線が定着していった。原子力研究が解禁され、開発のために研究予算のついたのは54年であったが、当時の科学者たちが軍事研究に傾斜する危険を感じて、まだ抵抗感を残していた。そして、「自主・民主・公開」の三原則を学術会議が決めたりしたものである。しかし、中曽根が言ったという伝説は「学者の頬っぺたを札びらで叩け」だが、その後、御用学者一色に原子力研究が染まった現実が「想定外」の破局を導いた一因となった。
■生命の原理に反逆する「原子破壊力」
そのような時代に聞いた講義を思い出す。「石油の枯渇は免れない。科学技術がそれを解決する」というものであり、未来の希望は原子力という。その教授は賢明な方であり、「原発もウランを資源にする限り、有限である。その先に、プルトニウム利用を前提とする増殖型原子炉がある」。そして「海水中に無限にある水素によって、核融合の道もある」という話であった。「未来は君たちの双肩にかかっている」と僕たち学生を励ましてくれたものである。しかし、夢幻であった。もんじゅは挫折した。核融合の可能性を信じる者は今やいない。そして、福島の惨事である。事故原発の立地町、双葉町商店街の看板は、今も語りかけている。「原子力 明るい未来のエネルギー」と。むなしいことである。
むなしいことだ、ではない。原子力は生命の対極にあって、本質的に生存を脅かすのだ。生命は安定した原子の生物化学的反応の上で生きる。しかし、原子力は原子の分裂・破壊の上に成立する。「原子力」は「原始破壊力」というべきであって、巨大エネルギーの牙をかくしている。虚偽表示にだまされることを警戒すべきであろう。巨大すぎるエネルギーを生命体である人間が制御できると思う傲慢さに加え、千万年後の未来世代に消すことのできぬ放射性毒物を遺産する。この利己的刹那主義は悠久の生命に対する反逆である。
■天与の恵みと「共生共貧」の未来
いずれにしても「未来のエネルギー」という幻想は安全神話の崩壊とともに消えた。エネルギー多消費の上に成立した貪欲な文明は大きな壁に激突して砕け散るのだろうか。石油は限界に、原子力は危険、この世はどうなるのか。自然エネルギーだ、代替エネルギーだ、と語る声は大きい。それが豊かな大量消費社会の持続願望によるものならば心もとない。もの豊かな便利快適の文明生活そのものが罪深く、非永続的だからである。
反原発を堅実なものにするためにも、一人一人が自分の中にある原発依存の錯倒を超えることが求められている。代替エネルギーの実現可能性にかかわらず、原発依存はやめねばならない。そのためには、横暴なエネルギー多消費の縮小を目指すことであり、そこにこそ、脱原発がある。私たちが未来を託すことのできるのは太陽である。古来、動物は共生の緑の世界に寄生して生きてきた。太陽と土と水、天与の条件の上に、生命をリレーしてきたのである。共生の自然は貪欲な資本の独占横暴を許さない。太陽は悠久であっても、その光量には限りがあり、多くの生命種で分かち合う以外にない。
天与された自然に適応した暮らしの知恵によって、未来を拓くことである。「共生共貧」の上に、福祉社会も世界平和も可能となるのだと信じたい。







関西共同行動ニュース No59