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永遠平和のために(上) …軍隊の廃絶と国家の死滅 中北龍太郎

■はじめに
米国の海外における最大の戦争のベース(根拠地)の一つである沖縄の米軍基地問題が大きく軋んでいます。基地の維持・強化を図らんとする米日両国の権力者たちの戦争政策に抗する基地の撤去を求める沖縄の平和のための闘いの炎は、ますます燃えさかっています。こうした情況を念頭に、カントの著書「永遠平和のために」とレーニンなどの「国家の死滅」論を原点にして、基地も戦争もない永遠平和の道を探求します。今号は、憲法9条や国連憲章の原典になったとされているカントの著書を手がかりに平和を切り拓く法について一考します。

■カントの自律哲学と永遠平和思想
ドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724〜1804年)は、「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」の3批判書の著者、批判哲学の樹立者として余りにも有名です。カントが71歳の1795年に著した「永遠平和のために」は、当時にあって極めて刺激的なタイトルでした。3批判書を完成させた晩年のカントの関心は、宗教・政治・歴史に向けられていました。そうした思索の中から、批判哲学と平和の理念・構想を結びつけて著された刺激的な本が「永遠平和のために」でした。
カントは、次のように人間の尊厳にもとづいて永遠平和論を展開しています。カントは、自分の理性によって立てた道徳法則に自発的に従うことを、「自律」と呼んでいます。この自律の状態において、人間は初めて真に自由であるとしています。またカントは、自律の能力を持つ自由の主体を「人格」として、道徳的な自律を持てる存在である人間には尊厳があると説いています。尊厳がある以上、人間は常に「目的」として扱われるべきで、「手段」ではありえないとされています。
自律の哲学とともに、「個人の行為を決定する原理が同時に普遍的立法の原理に妥当し得るように行動せよ」という実践哲学がカントの基本的立脚点です。こうした哲学から、戦争は人間を手段として扱うものであり、目的そのものである人間の尊厳を犯し、自由を損なう悪とされます。カントにとって、戦争はしてはならないという命題は、実践理性の絶対的命令なのです。戦争のない永遠平和は、実践理性にもとづく人間の永久的課題であり、無条件の義務そのものだったのです。




■「永遠平和のために」
いかにすれば地球上から戦争をなくすることができるのか。カントはなぜこのテーマのためにペンをとったのでしょうか。カントの幼少のころからヨーロッパでは戦火を交えないときが少ないといえるほどでした。出版の年にフランスとプロイセン間で結ばれたバーゼル講和条約は、多くの秘密条項を含んでいました。晩年のカントは、くりかえされてきた戦火の歴史に対した業を煮やしていたところに、戦争を終わらせることのできない欺瞞的条約を目の当たりにして、もはや手をこまねいてはいられないといった、やむにやまれぬ思いから、平和論にとりくんだのです。
「永遠平和のために」は、薄い小冊子です。前書きの出だしは、「あるオランダの宿屋だったが、看板に『永遠の平和(やすらぎ)亭』とあって、脇に墓地の絵が描かれていた」(池内紀訳、集英社。以下の引用も同様)というものです。「永遠のやすらぎ」は墓石に彫りこまれる決まり文句であり、それが、安らぎが売り物の看板に転用されていたのです。戦争は多くの死者を生みだし墓地をにぎわす。カントの平和論は、皮肉のこもったこんな言葉遊びから始まっています。
本文は、第1章の「国と国とが、どのようにして永遠の平和を生み出すか」と第2章の「国家間の永遠平和のために、とりわけ必要なこと」から成り、第1章は「その1」から「その6」、第2章は「その1」から「その3」に区分して語られています。本文につけ加えて二つの補説と二つの付録がついています。
カントの提言のハイライトをあえて絞ると、常備軍の廃止、世界共和国の建設、世界共和国に至るまでの国際連合の構築、この3つになります。
常備軍の廃止―常備軍の廃止は、第1章その3のタイトルに出てきます。「その3 常備軍はいずれ、いっさい廃止されるべきである。」。その理由として、本文に次のように書かれています。「なぜなら、常備軍はつねに武装して出撃の準備をととのえており、それによって、たえず他国を戦争の脅威にさらしている。おのずと、どの国もかぎりなく軍事力を競って軍事費が増大の一途をたどり、ついには平和を維持するのが短期の戦争以上に重荷となり、常備軍そのものが先制攻撃をしかける原因になってしまう。また殺したり、殺されたりするための用に人をあてるのは、人間を単なる機械あるいは道具として他人(国家)の手にゆだねることであって、人格にもとづく人間性の権利と一致しない。」
このようにカントは、軍隊の持つ本質的危険性と非人間性の点から軍隊の廃絶の正当性を根拠づけています。この先駆的な提言は、世界を貫流する非武装平和思想の地下水脈を形成し、150年後の日本に憲法9条として噴出することになりました。
世界共和国―「ただ戦争しかない無法な状態から脱出するには、理性によるかぎり、つぎの方法しかないだろう。関係する国々が個々の人間と同じように、その野蛮な(無法な)自由を捨て、公的な強制に従い、そのうえで一つの(おのずと増大する)諸民族の合一国家をつくる。それがいずれは地上のすべての民族を包括する。」(第2章その2)。カントはこの世界のかたちを「一つの世界共和国」と名づけ、積極的な理念として構想しています。
国際連合―第2章「その2 国際法は自由な国家の連合にもとづくべきである」の中で、国際連合の構築が提言されています。「戦争状態、つまりいつも敵意で脅かされている自然な状態では、隣合っているだけで、すでに傷つけ合っている。そのため個々の民族は安全のため、個々の市民と同じように、自分の権利が保障されるような体制づくりをよびかけてよいし、またそれをすべきである。これは国際連合と呼び得る」、「民族間の契約がなければ平和状態は確立されず、保障されもしない。そのためにも『平和連合』とでも名づけるような特別の連合がなくてはならない。平和連合は、あらゆる戦争を永遠に終わらせることをめざしている。」。この提言が、国際連盟や国際連合の結成となって結実していったのです。

■フランス革命とカントの平和論
カントのこうした永遠平和の思想は、1789年のフランス革命と深くかかわっています。ドイツ知識人の大半が反革命に転じるなかでも、カントは革命原理への支持を崩さず、革命が切り拓いた地平を根づかせることが重要だとし、ただそれが不毛な方向に走るのだけを憂えていました。カントにとって、哲学的原理への信頼と社会的原理の信頼とは同じ価値であり、革命批判の時勢に応じて一方を捨てれば、哲学そのものが成り立たなくなるのです。
カントがいかに深くフランス革命から学んでいたかについて、次のようなエピソードが紹介されています。カントが終生暮らしていたケーニヒスベルクでは、いつも決まった道を決まった時間に散歩する規則正しいカントの生活習慣は有名で、あまりの正確さのため、カントの姿を見て時計の狂いを直したといわれるほどでした。ところがあるとき、いつもの時間にカントが散歩に出てこないので、道筋の周辺で大騒ぎになったそうです。その原因は、フランス革命に決定的な影響を与えた思想家ジャン=ジャック=ルソーの著作を読みふけってしまい、散歩を忘れてしまっていたというのです。
フランス革命を先端とする西欧近代の社会思想は、人間の権利と平等を原理として身分的諸制度を解体し、諸個人が平等に連帯する政治・社会を基礎づけるものでした。この思想は西欧に人間の解放と文明化をもたらしましたが、他方でそれは、人権と文明から排除された人びとに対する差別と抑圧を正当化する思想でもありました。カントは晩年、西欧近代思想のこの両義性に最も敏感に反応しました。それは、「永遠平和のために」の中でも明確です。
第2章「その3 世界市民法と友好の条件」で、カントは西欧諸列強による侵略を鋭く告発しています。「地球上の文明国をながめてみよう。よその土地、よその民族を訪ねるときの不正ときたら(訪問は征服とみなしている)、まことに恐るべきものである。アメリカ、アフリカ、香料諸島、喜望峰など、その発見にあたっては、誰のものでもない土地とみなされた。もとの住人をまるきり無視していたからである。東インドでは商社の支店を設けるという口実のもとに軍隊を送りこんだ。武力で原住民を弾圧し、他国を煽動して戦いや飢えや騒乱や裏切りを広げ、至るところに災厄の種をまきちらした。」
こうした帝国主義的侵略に対して当時の国際法は何の法的保護も与えていません。カントは、こうした事態を克服するために、国際法による権利侵害の実効的防止が実現するまでの間の最後の手段として、社会的弱者の立場に立って民族の権利、公的な人権の侵害を告発・防止するため、すべての民族に例外なく適用される市民が共同して共生できる世界市民法の理念を構想しています。西欧近代思想の闇を克服する系譜は、ルソーを経て、晩年のカントに至って最も具体的でラディカルな表現を見出したのです。世界市民法の理念は国連憲章や世界人権宣言に大きな影響を与えています。



フランス革命/1789年7月14日の
バスティーユ襲撃に始まる。1799年終焉




■現代に生きるカントの永遠平和論
カントの永遠平和論には、これまでに見てきたように、決して古びていないどころか、まさに21世紀の世界で実すべき理念・課題が詰めこまれています。いたるところに「現代」が顔を出しているのです。
「いかなる国も、よその国の体制や政治に、武力でもって干渉してはならない」―アメリカのアフガン・イラクへの武力攻撃は、まさにこの原則にあからさまに違反しています。
「国の軍隊を、共通の敵でもないべつの国を攻撃するため他の国に貸すことも誤りである。その際、国民は気ままに使われ、消費されるだけである」―自衛隊の米軍への一体化、米軍基地の提供は、この原則を踏みにじるものです。
「永遠平和のために」は、「永遠平和は空虚な理念ではなく、われわれに課せられた使命である。」という言葉で終わっています。権力者らの戦争政策に抗って戦争アカン、基地いらんの永遠平和のための闘いは、われわれの崇高な権利であり使命なのです。(次号に続く)






関西共同行動ニュース No59