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《若さ》を取り戻すアラブ世界・・・民衆革命の底流を探る 【一橋大学教員】鵜飼 哲

 一年ぶりに訪れたパリで、私はアラブ人の友人たちに、とうとう再会することができなかった。留守中のアパルトマンを貸してくれた詩人・映像作家のエジプト人サファー・ファティは、新作の撮影のためエジプトに出かけていた。精神分析家のチュニジア人ファトヒ・ベンスラーマは、早くも四月に、『突然、革命が!』という著書を出版していた。亡命シリア人の著作家ハリード・ルーモからは、毎夕シャトレ広場で行われている、シリア政府の民衆虐殺に対する抗議行動の案内が届いた。私自身の仕事の日程のため、残念ながら今回はその場に足を運ぶ時間が取れなかったが、二〇年を超える親交のある友人たちが、昨年末以来のアラブ世界の激動に呼応して、それぞれ全力で状況に関与していることが身に迫り、胸を熱くした。


エジプト・カイロ・タハリール広場

 サファーがそのDVDを友人に託してくれたドキュメンタリー『伸びよ、伸びよ、声よ』は、彼女自身が参加した一月〜二月のカイロのタハリール広場の集会とデモの記録である。この作品は、広場に集まった多様な階層や立場のエジプト人の行動と表情を、まさに出来事の内側からとらえている。催涙弾にそなえて配られたマスクをたがいにしっかり結びあう人々。二台の装甲車のうち一台は押さえ込み、暴走する他の一台をさらに押し止めようとする人々。記録者自身がキャメラの手前で叫ぶスローガンに唱和する人々。青年、女性、子どもたち、友人や家族など、さまざまな存在の単位が、人波のなかにくっきりと描出されている。結集しながらも一丸ではなく、みずから創出した調和に驚いている民衆。《革命》とは何か、果てのない考察に誘われそうになる。

 あらためて振り返ろう。最初の出来事はチュニジア中西部の町シディ=ブジッドで起きた。二〇一〇年十二月十七日、二六歳のモハメド・ブアジジーは、街頭での果物の行商を官憲によって不法とされ、品物と商売道具一式を押収される。そのうえ婦人警官の平手打ちを受けた彼は、その仕打ちに抗議して警察署の前で焼身自殺を図る。ブアジジーのいとこがこの事件をフェイスブックで明らかにすると憤激はたちまち南部諸都市に拡大、やがて首都チュニスに及ぶ。翌年一月四日、ブアジジーはチュニスの病院で死去。ベン・アリー大統領退陣を求める民衆運動は一挙に加速し、チュニジア労働総同盟もゼネストに突入、わずか一〇日ののち、ベン・アリーはサウジアラビアに逃亡する。

 エジプトで事態が大きく動いたのは一月二十五日だった。チュニジア情勢の展開を追うように、エジプトでも一七日から二〇日にかけて、カイロとアレクサンドリアで五人の青年が焼身自殺を図る。のちに《一月二十五日革命》という呼称が定着するように、この日、カイロのデモ参加者数は一万人を超え、運動は一気に質的飛躍を獲得した。それからムバーラク退陣までの二週間、体制と民衆の文字通りの総力戦が、タハリール広場を舞台に繰り広げられた。



 二月後半以降、民衆運動の波は、イエメン、リビア、モロッコに向かった。そして三月半ば、シリアへと波及する。エジプト以後の展開については、君主制諸国と共和制諸国、産油国と非産油国、各政権の西側諸国との歴史的関係といった要素を、初めから組み込んで考察する必要があるだろう。アラブ民衆革命が、アラブ世界全体と欧米諸国の歴史的関係にどんな政治的帰結をもたらすことになるかは、むろん深い関心を抱かずにはいられない問題である。しかし、ここでは、この革命の内在的理解に努めることを優先したい。

 「立ち去る時が来たのだ 老いぼれどもの国よ」と、二月四日、エジプトの詩人アブドッラフマーン・アブヌーディは歌った(「広場(ミーダーン)」、山本薫訳・解説、『神奈川大学評論』№69)。「老いぼれ」とは第一に八〇歳を超えてなお権力に固執するムバーラクとその一党を指すだろう。しかし、それとともに、エジプト人の多くがこれまで抱いてきた、「過去の国」としてのエジプト像そのものも暗示する。古代エジプト、イスラーム共同体の中心、そしてアラブ民族主義の栄光と、この国の偉大なものはすべて過去にあり、現在には絶望しかない。私はこの一〇年の間に二回エジプトを訪れているが、偶然二回とも、チュニジア人の友人とこの国の状況を語り合う機会があった。彼らは異口同音に、ムバーラク政権下のエジプト民衆の絶望の深さに言及した。それが突然、国が、民族が、思いがけない若返りを経験したのである。「アラブの春」という表現には、「プラハの春」や「リスボンの春」と同様の政治的自由の回復だけでなく、「回春」の意味がこめられていることが重要である。

 ベンスラーマも前記の著作で触れているが、世界の眼がアラブ世界を「イスラーム原理主義」という眼鏡を通してしか見ていなかったあいだに、多くのアラブ諸国で、人口構成と教育の点で、大きな変動が生じていた。出生率は急速に低下し、それにともなって女性の社会進出が急速に進んだ。識字率も男女ともに上昇した。そして、衛星放送アルジャジーラの登場とともに、モロッコからイラクまで、同じアラビア語放送に真剣なまなざしを注ぐ膨大な視聴者が生まれた。若い世代は、インターネットを通じ、国境を超えて、アラブ世界に共通の問題を議論することができるようになった。イスラーム復興運動の一部が固執する無益な武装闘争と、欧米の反テロリズム戦争に挟撃されて、アラブ=イスラーム世界の総体が身動きの取れない状況から脱出する方途は、この数年、サイバー空間で激しく議論されていたのである。

 それでは、いま始まりつつある事態の本質は何か。フランスのアルジェリア史研究者バンジャマン・ストラは、アラブ民族主義が果たしえなかった、そのために没落し反動化することになった、脱植民地化運動の再開とみている(『アラブの八九年』、エドヴィ・プレネルとの共著)。その正否の鍵は、アラブの政治文化にこれまで希薄だった政治的、文化的、社会的複数性の表現が、制度的に確立できるかどうかにかかっていると彼は考える。その意味で、チュニジアとエジプトでいま求められている憲法制定議会の開催は決定的に重要である。リビア、シリア情勢も、NATOや国連の関与を超えて、活力を取り戻したアラブ世界のダイナミズムに深く規定されることを通して、将来への見通しを得ることができるだろう。むろん現段階ではいかなる予断も許されない。しかし、この地域に関与するあらゆるプレーヤーにとって、これまで通りのシナリオはもはや通用しないこと、ひとつのゲームが終わり、別のゲームが始まろうとしていることだけは確かである。


アッシャアブ! ユリード! イスカーティン! ニザーム!


関西共同行動ニュース No57