●平井正治さんを悼む 【関西共同行動】 和田喜太郎
平井正治さんが2月8日に死去された。享年83歳だった。死期を悟った最後の平井さんは、人々を近づけず医療を拒否し、ただ一人「その日」に向って過ごされた。
生前、「私は本当は平井ではないんです」と語っていた。戸籍法への抵抗によるが、結局「平井」で生涯を通した。警察は身元不明者扱いとし、ようやく二カ月後に遺体は返還され、四月十日に通夜、十一日に告別式が釜ケ崎「ふるさとの家」で執り行われた。
更に5月7日には実行委主催で「平井さんを偲ぶ会」が阿倍野区民センターで行われ、在りし日の平井さんのビデオ上映や、親しかった人々の証言などがあった。会場近くには無縁墓地があるが、「私が死んだら無縁仏にしてほしい」と語っていたという。死を待つ日々、かつて平井さんが自ら手掛けた、釜ヶ崎無縁仏の調査活動の日々の思い出がよぎったであろうと思われる。
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浪速の案内人と言われた平井さんは27年「長町」と言われた底辺労働者の住む現在の日本橋辺で生まれた。長町はやがて釜ケ崎へと変貌する。生家・教材屋の倒産で小学校も四年くらいしか行っていない。釜ケ崎の平井さんの三畳アパートは現代史資料で一杯だったという。何れも自らの調査活動によるものだが、その博学さは労働の合間の図書館通いや読書によるものと思われる。
平井さんの主要な著作としては『無縁声声〜日本資本主義残酷史』 (97年・藤原書店、10年新刊には高村薫さんが特別寄稿)がある。このほか共著もあるが、世間はようやく「無縁社会」を取り上げるに至るが、平井さんの描く資本主義発達史は釜ケ崎に限らず総て裏面史である。
琵琶湖疎水工事から万国博に至るまで、およそ公のイベント工事は幾多の底辺労働者の犠牲によるものである。万博は原子力推進のイベントだったことを平井さんは見抜いていた。今回の東北地震でも釜ケ崎から運転手募集に応じたところ危険な原発作業をやらされており、このようにインチキが通用する構造となっている。残念ながら紙数も尽きた。年内には追悼集も発行されると聞く。元港湾労働者であった平井さんの生き方に学び心からの冥福を祈るものである。
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