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●フクシマ原発というプロローグ 震災、原発事故から 【ロシナンテ社 代表】  しかたさとし

 3月11日、東北沖での巨大地震、その後の福島原発の事故。この瞬間、私たちの社会は風景を変えました。原発さえなければこんな恐怖が私たちを覆うことはなかったはずです。この原発を推進・建設したのは間違いなく政府であり、産業界であり、その「安全」を唱えた学者・研究者たちです。当然、かれらの責任は追及されるべきです。

 そして同時に私たち自身も敗者です。

 「原発反対!」そんな声が各地に大きく響いた時代がありました。実に粘り強い運動が取り組まれました。この列島の何箇所かは住民、市民の力で原発建設を阻止しました。でも54基があります。そして大間原発は建設中です。準備中は11基あります。

 私たちの暮す関西は電力の5割を原発に依存しています。この原発依存の社会を許したのは私たち自身です。今、各地で原発を止めようと声が響き始めています。

 震災後、私は青森での反原発集会、名古屋、大阪の集会などで福島県などから避難してきた人たちのお話や郡山の知り合いを訪ねてお話を集めてみました。

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【Aさん】―当日、私は仙台で仕事をしていました。不謹慎な言い方ですが、東北の人間は割りと地震慣れしているのです。それで石巻にある会社へもどりました。そこは津波の被害が凄いものでした。

 私には生後二ヶ月の赤ちゃんと6歳と9歳の子どもがいます。一日目は、正直平穏無事といえばおかしいですが・・・そんなに不安はありませんでした。

 精神的にかなりやられたのは二日目です。ラジオからの情報でした。

 「福島原発が爆発した、でも大丈夫」

でも大丈夫なわけじゃないだろう。実際に今考えたら、そのときは怒りよりも恐怖のほうが激しくて、原発が爆発した。チェルノブイリと思うわけですね。もう、ライフラインもない状態で携帯も通じない。

 僕たちは今までいろんな(原発の)勉強してきました。もしかしたらものすごい放射能がきているかもしれないという恐怖の中に落とされました。今考えるとそれが役に立っているのかどうだかわかりませんが、もう三重、四重に服をきました。それは2ヶ月の赤ちゃんがいたというのが僕の中ですごく大きなキーポイントでした。(現在、大阪へ避難)

【Bさん】―県内の状況は、あえて一言でいえば「最悪の事態に恐怖しつつ、日々のマスコミ報道に大きな不安と怒りを募らせている」といえましょう。農民たちは、放射能汚染と風評被害に苦しめられています。すでに須賀川市の30年に渡って有機農業で野菜作りに取り組んできた農民が自殺しました。

 第二、第三の自殺者が出てもおかしくありません。そして放射能汚染水のたれ流しで、津波被害を何とか乗り切った漁民たちは、港への陸揚げ拒否にあっています。(福島市在住)

【Cさん(福島県中通リ)】―私が住んでいるのは阿武隈山地の上ですから岩盤が割りと硬いんです。だから建物の被害は本当に少ないです。でも原発から23キロです。私は原発の問題について勉強していました。小さなこどももいます。だから大阪に疎開しました。

 最初、何か逃げ出すみたいで地元をはなれる気になれませんでした。それでも知り合いに背中を押してもらって、11日の夜に近所の子どもさんがいる人と相談して夜中に車で走りだしました。最初は千葉にいって、そのころは道は隆起していたけれど走れました。ガソリンはまだ不足するようなことはなかったです。一緒に逃げた方の旦那さんがフランス人で、彼には大使館からどんどん情報が入ります。テレビを見てもそんなことわかりません。

 今、地元にいる人の話では、政府がちゃんとした情報を出してくれない。お上やNHKが言わないとみなさん信じない。町長さんにも、直接訴えに行った仲間がいます。しかし「そんな不安をあおるようなことを言うのをやめてください」とか、言われて、避難した人を中傷するような対応だったということです。やっぱり個人レベルではどうしようもない。

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 次は名古屋での集会から。

 そこでは高校生が中心になって中部電力へ抗議行動(といっても本社前に菜の花を置いてくる)を取り組んでいました。4月10日、電力会社へ1500人のデモになったそうです。その際、いわき市から子供のことが心配で避難した30代の男性と知り合い、その方のお話を聞く集いを開催していました。

【Dさん】― 「テレビでの政府の言い方は、短期的には健康への影響はない。しかし長期的な影響については明らかにしていない。自分の子どもが20年、30年と福島で暮らしていけるのか?だから自宅にとどまれない」と。・・・Dさんの住まいは30キロ圏の外です。しかし飯館村の例にみるように放射性物質の汚染は、風向き、地形によって決して同心円にはならない。それはチェルノブイリでの教訓です。

 名古屋へたどりついてDさんは、行政に公営住宅への入居を求めます。しかし罹災証明書がないという理由で、入居を拒否されます。しかし、今、福島原発事故でまず避難するのは子供たちです。それは放射能物質の影響を受けやすいのは感受性の高い細胞を持つ乳幼児であることもチェルノブイリの教訓です。そして建物が破壊されていなくても非難しなくてはならないのが、原発難民です。

 以下にDさんのお話の要点をまとめます。

 @地元に残っている人たちは、国への不信感を持っています。何が正しくて何が間違っているのかをはっきりしてほしい。

 Aまだまだ強い余震が続いています。その不安は想像以上です。そして生活への不安が続きます。

 Bふるさとから避難した以上、住居と生活の保障が必要。

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 今、脱原発は、私たちの共通認識になりました。放射能で汚された大地。この現実からしかもう始めることはできません。今、問われているのはエネルギーを民主的に生産・消費する権利を市民自身が勝ち取ることだと思います。




関西共同行動ニュース No56