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プレゼンテ! 全日建運輸連帯労組近畿地方本部・副執行委員長川村賢市さんを偲んで 【関西共同行動】 星川洋史

 4月29日朝、洋子さんからの電話があった。「川村がスポーツジムで倒れた。警察病院に運ばれた。医者はもう助からないといっている。脳幹破裂とかだ。すぐきてほしい。電話は川村のところにあるので、みんなの電話番号がわからない。報せるべきところには報せてほしい。」等々だった。あわてているので要領を得ないところが多かったが、大体はわかった。駅に向けて急ぎながら電話をかけた。全日建の垣沼さん、山元さんや石田さんなど全港湾や全労協の幹部や活動家、関西共同行動など市民運動の仲間、川村さんが所属していた革命21の東京の知り合いなどだ。電車の中でも、周囲の乗客に急なことだと断って電話を続けた。垣沼さんなどは、北朝鮮に向けての出発のために関空にいた。みな突然のことなので「何で」とうろたえるばかりだった。
 病院に着くと、担当の医者が、レントゲンやCTスキャンの画像で説明した。脳幹が破裂したら現在の医学ではどうしようもないとのことだ。夜遅く、覚悟して、着替えなどのために家に帰った。朝5時前だったろうか、洋子さんから「亡くなった」と電話が入った。
 それからがまた大変だった。川村さん夫婦は献体の登録をしているということで、自宅のベッドに帰ったところに角膜を取りに医者がきたり。それでなくてもなれない葬式が神式というのでとまどったり。武健一委員長を始め全日建の仲間たちの手早い対応がなかったら大変だった。何が何かわからないうちに通夜、告別式とすすみ、本人の「網走番外地」が葬送曲というきわめて特異な出棺だった。これが川村さん本人の歌だとわかっていた私が思わず拍手をして周りからにらみつけられた。
 労働組合の活動家の川村さんと知り合ったのはいつの頃かはっきり覚えていない。ただ03年の衆議院大阪17区での中北さんの選挙のときには、私が関西共同行動のメンバーとして事務所に泊まり込みで活動し、川村さんは事務局長として動員や資金集めに奔走していた。このころには、もう親しく口をきく仲になっていた。いつも一緒みたいになったのは、しないさせない戦争協力関西ネットワークの共同代表に川村さんが、事務局長に私がなってからだろうか。
 川村さんは、労組の活動家の中でも政治的課題→市民運動的課題に熱心な方の活動家だった。いろいろなデモに参加するだけでなく、いやがらずにデモの総指揮役を引き受けてくれた。デモ申請係とも言うべき私には本当にありがたいことだった。伊丹やあいば野など自衛隊基地での闘争では、マイクを持って自衛官への訴えを、元自衛官としての自分の任務として積極的に買って出た。あまり大きくない、労組の動員をかけているわけでもない集会やデモにも川村さんは洋子さんと一緒に参加していた。
 こんな川村さんを見て、私たち関西共同行動はじめ市民運動に優しい仲間だと思っている人も多いだろうがどっこいそうはいかなかった。労組の側が重要な闘争だと判断し、組合動員に力を入れた集会で、自発的なはずの市民運動の参加が少なかったときなどは、その「いいかげんさ」に怒った。また、市民運動の側が、国政など選挙活動に乗り気が無いと怒りもした。関西共同行動などが、内ゲバに激しく反対し、内ゲバ党派が運動に入ってこようとすることに厳しいことに対しても、理解はしても違和感を持っていた。私も理解はしても反論もした。「川村さんが言う小異を捨てて大同につくためにも内ゲバはだめだ」など。ときには険悪な二人だけの「交流会」になることもあった。ある時ある党派の幹部的活動家が、話の流れで私に殴りかかろうとしたことがあった。そのとき止めに入った川村さんが「ワシの兄
弟に手を出すようなところはウチは絶対に許さんぞ」と怒った。私は「『兄弟』はイカンよ」といい、笑いあった。そのころまだ、川村さんの姿はいささか労組活動家的ではなかった。
 川村さんのやり残したことの一つに、自衛隊員自身の憲法九条を守り海外派兵をやめさせる運動を造り労働者市民の運動との連帯を造ることがあった。われわれ自身の課題でもある。


関西共同行動ニュース No51