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田母神問題の真相はなにか 山口大学教員 纐纈厚

▼噴き出した自衛隊内の不満と反発
いま、自衛隊制服組の一部有力者たちの間では現行憲法を自衛隊発展の桎梏と捉え、自衛隊の後ろ盾としての日米安保にも嫌悪と不満の感情や意識を隠さない高級武官の集団が有力となっている。彼らは、憲法と日米安保の見直しを迫り、それが時として激しい言動となって表出するようになっている。
高級武官たちは、アメリカとの協調に主眼を置きつつ、その一方でアメリカからの自立を求めている。彼らは憲法の縛りを受け続け、同時に日米安保による事実上のアメリカへの従属状態に我慢が出来なくなっている。彼らは、「協調と従属」から「対等と自立」への転換を迫っているのである。
それで、田母神論文の基底に流れるものは、戦後日本がアメリカとの同盟関係という名の従属を受け入れ、同時に軍隊を無価値化した第九条を核とする日本国憲法への深い憤りと嫌悪である。その意味で、田母神論文とは戦後日本がアメリカとの同盟関係に埋没していき、アメリカへの従属性を一段と深めていったことへの異議申し立てと言える。言い換えれば、日本の自主防衛及び自主独立を果たすために、日米同盟関係の見直しを迫っているのである。
それは田母神論文中の、「諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する」の箇所にストレートな文言で示された。独立国家であり、自前の自衛隊という名の軍隊を持ちながらも、「アメリカに守ってもらう」状態に田母神氏は、異議を唱えているのである。
続けて、「自分の国を守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されていることが我が国においては国民に理解が行き留かない」と述べる。要するに、自衛隊の国防軍化への強い要求である。そこには自主防衛・自主独立の抑え難い衝動が浮き彫りにされている。その帰結は日米同盟の見直しから、読みようによっては脱アメリカの期待・願望とすら解釈可能である。取り敢えず私は、こうした勢力を「自主国防派」と命名しておく。

▼日米同盟の見直し迫る
自主国防派の基本的なスタンスは、要約すればアメリカとの同盟関係を今後とも継続していくにしても、従来の従属性を露わにした日米関係ではなく、自立した日本軍=国防軍として主体性が認知されたうえでの日米同盟関係の構築である。そこから導き出されるのは、自衛隊のアメリカからの自立を条件とする国防軍化への展望である。
そのことを憲法問題に絡ませれば、憲法のなかに国防軍創設とその位置を明確に盛り込んだ憲法の獲得が強い願望となる。田母神氏は、国防軍の創設を必要としたからこそ、憲法を変えるべきだとする考えを国会での証人喚問の折りにも口にした。言い換えれば国会の場で、彼は堂々と国防軍の創設を主張したのである。
田母神発言の背景には、自衛隊の出自の問題があるように思われてならない。すなわち、自衛隊の前身である警察予備隊の創設経緯に絡む。周知のように、警察予備隊は朝鮮戦争時に朝鮮半島に出動する在日駐留米軍(第八軍)に替わり、日本の米軍基地及び米軍家族を守護する目的で創設された。加えて、旧陸海軍を解体された昭和天皇は、これに代わる役割をも警察予備隊に求め、その創設を強くアメリカ政府に求めた経緯がある。いわゆる「天皇メッセージ」である。
旧軍の復活・再生への道筋が付けられ、保安隊を挟んで、一九五四年に自衛隊が発足した後にも、連綿と続く日米安保・日米同盟路線のなかで、地下水脈の如く、自主国防論はその浮上の機会を虎視眈々と窺っていた。その自主国防派、あるいはアメリカとの同盟関係の相対化を志向する制服組の一群が確実に育ってきたのである。そのひとつの証拠として今回の問題を捉えるべきであろう。
アジアにおけるアメリカ軍の補完部隊の創出を目的として開始された再軍備は、同時に日本軍隊のアメリカ軍への徹底した従属性を特質とした。今回、田母神氏だけでなく、航空自衛隊の幹部や隊員に懸賞論文への投稿を呼びかけるという異例の行動に出た背景には、こうした従属軍としての自衛隊の出自を踏まえ、脱従属軍化の道を確認する作業の一環としてあったのであろう。そのために戦後日本政治とアメリカへの従属を強いる日米安保への事実上の批判の言説が書き記されているのである。そのためにも、隊員教育の一環として歴史教育を積極的に取り入れ、隊員たちが侵略戦争論を否定し、旧軍の伝統を正面から肯定感を持って受け入れられる指導を行っていたと見てよい。
その意味で、今回の事件は、侵略戦争否定により旧軍との連続性を強調し、旧軍の歴史を否定する現行憲法を解体し、新憲法のなかで自衛隊を一気に国防軍に格上げすること、アメリカとの日米安保同盟関係を見直して自主国防の名のもとに脱アメリカの方向を見定めることが射程に据えられているのではないか。

▼始まった自衛隊の政治介入
日本国憲法は軍隊を認めていない。この原則に従えば、日本には軍隊に関わる組織は存在せず、従って文民統制による文民による軍の統制という事態は生じないはずだ。しかし、日本が自衛隊という約二四万名に達する軍を保有する国家であることは歴然たる事実である。それゆえ、この精強な武力集団を文民が統制・監視していくためには、ひとつの手段として文民統制の制度は不可欠である。
それで私たちは文民統制の機能強化を図りながら、改めて民主主義と自衛隊という名の軍隊との共存の可能性の是非をめぐる議論を深めていく必要に迫られている。しかし、現在の実態として、文民統制は機能不全に陥っていると言っても決して過言ではない。その最大の原因は、自衛隊制服組の文民政府への反抗という点だけではない。それ以上に実は、自衛隊制服組を統制する文民(=政治家)の側に重大な問題が潜んでいることだ。
さらに現在極めて重大な防衛省改革が進行中である。森屋武昌元防衛次官の不正事件を発端に開始された改革の目玉は、防衛大臣の補佐官に防衛省内局の官僚(文官)と自衛官(武官)の両者を政治任用する道を開いたことである。これは従来の防衛参事官(文官)による自衛官の統制を意味する文官統制を廃止して、防衛大臣の下に文官
と武官が対等・並列の関係に置かれることに結果する内容である。その狙いは、武官にこれまで以上の権限を付与して責任を自覚させるということだ。これは明らかに武官に政治介入の道を開くものである。
もっと気になることをひとつ挙げておけば、防衛省改革案のなかで、これまで文官による武官統制の本丸であった防衛省内局の運用企画局が廃止されて、武官をトップとする統合幕僚監部に一元化する方針が固められていることである。同局は部隊運用の法令作成を担う内局では極めて重要な部署である。つまり、ここにおいて自衛隊を法的側面からも強力な統制を利かすことが可能であったのである。それが廃止となれば、事実上、自衛隊は言うならば糸が切れた凧と同様である。
これは、武官の地位が防衛大臣に一挙に接近するだけでなく、文官(防衛行政担当者)と武官(作戦指揮担当者)との関係が根底から修正されることを意味する。広義に言えば、政治が軍事を統制する従来までの政軍関係が大きく崩されることになるのである。戦前日本の事例を引き合いに出すまでもなく、軍事が政治に介入していくうえで、政軍関係の対等化・平等化があった。
防衛大臣の権能が充分に担保されていたとしても、しかしながらその防衛大臣に就任する人物が武官に深いシンパシーを抱く人物で、かつ、安全保障問題に疎い場合には、一気に武官の言動が政局を左右する可能性は否定できない。そうした想定が現実化しないためにこそ、これまで日本型文民統制と呼ばれる文官統制が用意されていたのである。
従来の文民統制が充分に機能していたと思われないが、政治による軍事の統制、あるいは民主主義社会における軍事の位置確定という課題に応えようとする制度や思想が文民統制であったとすれば、その文民統制が解体されることは極めて重大な問題を孕んでいることは間違いないであろう。
自衛隊が自衛軍に、そして国防軍へと昇格していく可能性が現実化しようとしている矢先に生じた今回の田母神問題は、戦後日本において、再び“軍部”が形成されようとする、ひとつの象徴事例と評価されることになりはしないか。あらためて自衛隊の動きを監視し、軍事なき社会の構築への展望を議論すべき時であろう。

関西共同行動ニュース No49