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 『沖縄戦「集団自決」裁判、結審す』 松浦 茂(大江・岩波・沖縄裁判支援連絡会)

 大江・岩波沖縄戦裁判は05年8月5日、大阪地裁への提訴以来、12回の審理を経て07年12月21日に結審した。判決日は08年3月28日と決定した。
 ここではこれまでの裁判を振り返り、この裁判の様子の一端を報告します。
 11月9日、第12回裁判は、この裁判全体の最も重要な山場となる本人尋問であった。そのため、傍聴券確保(60席程度)のために沖縄、東京など全国から七百人を超える人たちが列をつくった。地裁入り口付近では、早朝から右翼グループが横断幕を背景に、傍聴券確保のために並んでいる人たちに向かって激しく街宣を展開した。横断幕には「汚辱にまみれたノーベル賞作家・大江健三郎は人権侵害を止めろ、嘘とでっち上げの『沖縄ノート』、集団自決の真実は遺族年金のための方便だった、主権回復を目指す会」と書かれている。まさにこの表現行為こそ名誉毀損に当たろうというものである。
 裁判における注目すべき証言のいくつかを紹介する。まず梅沢氏は、「集団自決のことをいつ知ったのか?」という尋問に「昭和33年の春ごろ、週刊朝日、サンデー毎日で知った」と応えた。なんと、どこまでトボケ通そうとするのだろう。座間味島の最高指揮官が、米軍が上陸したときのこの小さな島の住民の状況を知らなかったというのだ。この証言は梅沢氏が「集団自決」とは如何に無縁であったかを印象付けようとした発言であろうが、しかし、その意図とは逆に、如何に隊長たる資質を持ち合わせていない人間であったかを証明するものである。「軍官民共生・共死」を唱え、住民を陣地壕作りやさまざまな作業に駆り立て、島全体の住民を統制していながら、いざ米軍の上陸・攻撃が始まるや住民を盾にはしても、逃げ惑う住民の死の恐怖など想像さえしてこなかった(作戦や計画の中に当初から入っていなかった)ことを類推させるのである。「日本軍は住民を守らない」ことの一端がここでも露呈されたのである。さらに、「沖縄ノートを読んだのはいつか?」の尋問に対して、「去年」と応えたのであった。この裁判の提訴は05年8月である。すると梅沢氏は"名誉毀損"だと提訴した後に『沖縄ノート』を読み、この書籍が本人を名誉毀損"をしていることに気付いたことになる。笑止千万である。さらに「『沖縄ノート』にあなたが自決命令を出したという記述はあるか?」に対して「ない」と言い切ったのである。一方、赤松氏にいたっては「沖縄ノートを読んでどう思ったか?」に対して、「難しい本ですね。兄の部分をパラパラと読んだ」という始末。まさにこの原告二人の証言は、本裁判が別の政治的意図によって仕組まれた裁判であることを語っているのである。
 12月21日の結審では、原告側弁護人(靖国応援団)は最終意見陳述で、これまた驚くことに「集団自決は米軍への恐れからくる家族愛の『無理心中』であった」と締めくくったのであった。「集団自決」概念をめぐってこれまでは「国を思う清らかな死」「殉国死」という定義づけで通してきた彼らが、この最終場面で「新たなる定義=無理心中説」を持ち出してきたのである。「集団自決」概念こそ、この裁判の中核たる論点である。にもかかわらず、その概念について最後まで混乱し続けた原告側代理人、及びその背後にいる自由主義史観、「つくる会」グループであった。一方、被告側弁護人(大江・岩波側)は一点の曇りもなく「曽野綾子の本に影響された原告の主張は成り立たない。棄却されるべきである」と、きっぱりと陳述を締めくくったのであった。
 07年3月30日の教科書検定が、深い闇の中で密かに進められてきた教科書検定の実態を明らかにしつつある。教科書検定審議官の中で「集団自決」に関しての議論はまったくなされておらず、文科省の職員である教科書調査官の意向で「軍命削除」が方向付けられ、教科書会社に押し付けられていたこと、さらに、この審議会の委員の過半が「つくる会」に連なるメンバーで構成されていたことなどが知られるところとなってきた。
 12月26日文科省は、"町村の宣言"(「関係者の知恵と工夫と努力で」発言)通り、教科書記述を玉虫色で決着させ、9.29県民大会決議を愚弄した。「大江・岩波沖縄戦裁判」支援連絡会は秋山弁護士の言葉の通り「やるべきことはすべてやりきった」。3月28日は、奇しくも63年前、渡嘉敷島「強制集団死」が発生した日でもある。勝利あるのみである。
関西共同行動ニュース No46