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『上坂喜美さんを惜しむ』 和田喜太郎(関西共同行動)

 三里塚闘争に連帯する会の代表などを務め、関西共同行動の代表的メンバーでもあった、上坂喜美(うえさかきよし)さんが7月17日未明、肺ガンのため亡くなられました。享年83歳でした。
 本人の希望で葬儀は行われず、通夜のみをご家族の方だけで行われました。ご遺体はかねてからの本人の希望で近畿大学医学部に「献体」されました。二年後にお骨はかえってくるそうですが、「お墓もいらない」と言っておられたと聞きます。三里塚の地へ何らかの埋葬も考えられますが、ご親族の方のご意向に従うことになるようです。
 ご家族は奥さんと息子さんと娘さん。息子さんはスウェーデンで大学教授をされていると聞きましたが、闘病中の上坂さんの安否を気遣い度々帰省されていたようでした。
私が上坂さんのことを始めて聞いたのは、東大阪の知人Tさんからでした。その時名前は聞かなかったが、「自分の全財産投げ出して、三里塚闘争に肩入れしてはる人がいるんやて--」。ご主人のYさんは在日の活動家で運動関係の情報通でした。後に革新「伏見市政」のブレーンともなり、三里塚開港阻止闘争で懲戒免職となった東大阪市職員の復職仲介にも何かと骨折りいただきました。(残念ながら不調に終わり、Yさんはその後急逝されました。)
 思い返してみると「Tさんから聞いた話」というのは、上坂さんが印刷事業を処分し、戸村一作さんの参院選挙立候補や「襤褸の旗」自主上映運動の74年頃のことだったと思います。
上坂さんは私と同郷の兵庫県養父市八鹿町出身です。標高八百米の有名な名草神社近くの妙見集落の生まれと聞きました。全くの山の中で冬は豪雪。上坂さんが「健脚」でスキーが得意だったのは当然です。
 小学校高等科卒業後、一時小学校用務員を勤め、逓信講習所入所を経て全逓労組活動家となり共産党入党。臨時指導部当時の関西地方委員会幹部を務めました。
 かつて上級学校に進学できない貧乏人の子は、逓信講習所などに入ったと言われ、そういう環境の自覚から全逓・電通関係からは、多くの社・共活動家が輩出されました。上坂さんが印刷業を始めたのは、共産党のいわゆる「六全協」以後だったと思われます。その後「何故三里塚か」の動機は不明ですが、闘争激化のなかでの共産党脱落の義憤とか、貧しい山村故郷の思いがあったのでしょう。戦後の一時期、農民組合運動もあった小佐谷地区は、山に囲まれ僅かの田畑と養蚕、山林労働や出稼ぎをよぎなくされ、いつまでたっても貧しい村でした。
 関西共同行動がかつて「関西六月共同行動」と称した86年当時の呼びかけ人には上坂さんのほか、山本健治、山田国広さんらの名前が見られます。その年の秋には「あいば野日米共同演習」が開始され、現地集会で上坂さんは三里塚連帯する会としてアピールされています。また89年に主催の「民衆のひろば」メイン企画の<対談・花崎皋平さん/新崎盛暉さん>の司会を務められています。
 03年に死去された三里塚の石井武さんとは同年。告別式に駆けつけ追悼集にも寄稿されています。また上坂さんの死去を知り、加瀬勉さんはいち早く追悼文を寄せられています。戸村一作と三里塚闘争に連帯する会発足のころ、東京四谷仮事務所で上坂さんとの食うや食わずの当時の回想を語られています。
 晩年の上坂さんは、老人大学など地域コミユニティに参加し、地元の市民派議員の応援もしました。またフランス語など独習されたといいます。81年ラルザック国際集会の想い出もあり、息子さんと再訪への思いもあったのでしょうか。
 体調も思わしくなく、一昨年の「関西三里塚旗びらき」出席が最期となりました。反空港の闘いは上坂さんの遺志を受け継ぎ、今年11月には西成で反空港全国集会が開催されます。またこれを前後して関西での「上坂さんを偲ぶ会※」も、関西三里塚闘争に連帯する会、関西三里塚相談会、関西共同行動の三者の呼びかけで行われます。

※12月2日 PM2時〜 山西記念館(YWCA梅田) 参加費5000円 にて
関西共同行動ニュース No45