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『地域にこだわりながら、雀百まで』 花崎晃平(哲学者/ピープルズ・プラン研究所)

【1】「田を作る」
 参議院選挙が終わり、政情はすこし落ち着きました。ややゆとりの時間ができたように思います。北九州の村田久さんとわたしは、二年ほど前から地域横断のネットワーク「田を作る」を編む企てを始めました。「田を作る」という思想は、故前田俊彦さんから受け継いだものです。前田さんは「百姓は米を作らず田を作る」という言葉を残しました。田を作らずに米を作ろうという考えは、商品として人造の米を製造しようと言う考えである。大地に根ざした農の営みは「田を作る」のであり、田を作れば、そこに稲が育ち米が実るのである。米は作るものではない。この考えは、社会的政治的運動にも活かすべきではないか。私たちは、ともすると眼前の成果を追い求めて田造りをおろそかにしては来なかったか。敗戦後五十年をふりかえる時、そういう反省がありました
 では、社会的活動に於いて「田を作る」とはどういうことか。私たちは、この間の状況、政治の右傾化、極端な国粋主義に抵抗しながらも、じりじりと押されてきた状況を逆転させるには、長期的な構想のもとで、五十年、百年先を見据えて「田を作る」、すなわち地域に根を張って揺るがない思想を育てることが重要ではないかと考えています。人と人とが人格的に出会い、語り合い、気脈を通じる、その業がお互いにとっての教育、相互の影響として作用するような場をつくりたいと思いました。
 「田を作る」の第一回の集まりは、2005年7月、鳥取県の米子で開きました。その後、ニュースレターを発行し、ミニシンポジウムを三里塚や東京で行い、少数でのゆるやかなつながりながら歩みを進めてきました。しかし、なかなか打てば響くというわけにはいかず、地域で闘っている人びとは、どうしても、当面の政治的・社会的課題との取り組みに追われてしまう姿が見えてきました。いまは、もういちどあちこちを歩いて気脈を通じる努力を傾けよう。そう、村田さんと話し合っています。

【2】 民衆思想の受け継ぎ
 わたしの場合、こうした考えは、田中正造を典型とする民衆の思想の伝統を継承するという意図から出ています。この民衆思想の伝統は、戦後には沖縄において顕著にみられます。阿波根昌鴻さんの反戦平和思想は、いま辺野古で基地移設に反対している人びとの思想として活きています。金武湾の石油備蓄基地建設に反対して闘った安里清信さんは、アジアの賢者に通ずるすぐれた思想家です。彼は、「生存基盤に根を張る」というサブシステンスの思想を基調とし、住民運動では、住民一人一人が主人公であって、代表者はいらないというピープル本位の立場に堅く立ち、森羅万象に神を見、田中正造と同様に、人民に神を見るスピリチュアリティを思想の根に持っていました。
 また、彫刻家の金城実さんは、この春、十年がかりの大レリーフ「戦争と人間」を完成しました。このレリーフは、日本軍兵士の住民虐殺、住民に強いられた自決、米軍の土地取り上げ、コザ暴動などなど沖縄現代史をテーマにした一連の作品です。この6月末から読谷村の役場前に展示され、私も見に行きました。レリーフのほかに、群像が並んでいました。瀬長亀次郎、屋良朝苗、阿波根昌鴻、安里清信、4人の先人の像、おじい、おばあ、子ども、農夫、漁民、羊、犬などの像が並んでいて壮観でした。このレリーフ展の実行委員長は、金武湾闘争を安里清信さんと共に闘った崎原盛秀さん。読谷村の事務局長は知花昌一さん、いずれも生涯を掛けて反戦平和、地域・環境の保全のために闘ってきている人たちです。こうした営みを続けている人たちには民衆の思想、民衆が紡いできた思想が脈々と活きています。
 民衆思想は、かならずしも書物に書かれてはいません。ご存じのように、田中正造には著書はありません。前掲の四人のリーダーたちも本の形で思想を残したのではありません。実行と肉声、あるいは友だちや記録者による聞き書きでその思うところを残したのです。ですから、その思想は、受け継ぐ者が生き方で、語りで、伝えなければならないものです。「田を作る」のネットワークでめざすのは、人と人が直接に会って、言葉を交わし、考えを伝えあう関係を自覚的につくっていきたいということです。

【3】「地域」にこだわりながら
 わたしは、1970年代から「地域」に軸足をおいて反戦や反開発の運動をしてきました。「地域」のとらえ方にも、さまざまな角度や面があります。居住地域に力点を置く考え方、社会運動を軸にした考え方、育児や食べ物、共同購入、文化事業、趣味のつながりなどから生まれる地域づくりなど、ひとくくりにはできない多様性があります。わたしは1964年から札幌に住み、1980年に、「地域をひらくシンポジウム」運動を、札幌の民衆運動グループを足場に呼びかけました。一年に一回、札幌、川崎、富山、名古屋、金沢、米子、静岡、熊本、今治、そして十年目に札幌と、十回の地域での交流と討論のシンポジウムを開催しました。
 このときの「地域」は、市民・住民の運動体中心のイメージでした。「地域シンポ」運動は、1989年に、アジア太平洋資料センターが提唱した「ピープルズ・プラン21世紀国際民衆行事」の一翼を担い、その大きなイベントを区切りとして、いったん終止符を打ち、自分たちの地域運動をどう進めるかをそれぞれに考えることにしました。
 札幌の場合は、国際民衆行事の一環として北海道で開催した「世界先住民族会議」を引き継ぐ形として、1990年に「さっぽろ自由学校『遊』」を設立しました。今日では、札幌の中心部に事務所と教室を持ち、年間プログラムを編成し、ほぼ毎日、平和、人権、政治、フェミニズム、アジア、アイヌ民族、環境、教育、文化に関する幅広い講座を開催しています。イラク戦争開始と共に、ここが反戦運動のセンター的な役割を果たしました。三人の日本人がイラクで人質にされた事件の際には、「遊」の共同代表であったNさんが大活躍で三人の家族を支えました。
 私は、いまは小樽に住み、猫好きな詩人が呼びかけた「猫の事務所の9条の会」という小さい護憲の集いに加わっています。宮沢賢治の短編「猫の事務所」にちなんだ、猫が主役のユーモラスな集まりで、詩の朗読や児童文学作家の作品鑑賞、反戦平和の歌を聴く、などの催しが行われています。これからも地域にこだわりながら「雀百まで踊り忘れず」の気持ちで、いろいろな試みを続けて行くつもりです。
関西共同行動ニュース No45