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『故池田さんが指弾した歴史を共有する覚悟』 和田喜太郎(関西共同行動)

 本誌前号でもお知らせしましたが、池田正枝さん(享年八四歳)が昨年十二月四日に亡くなられました。その足跡を偲び3月17日、関西共同行動の主催で「池田さんを偲ぶ会」(約30人)をもちました。その翌日18日には、池田さんと親しかった方々の呼びかけで、奈良でも「偲ぶ会」(約70人)が行われました。
 17日の「偲ぶ会」では、川瀬俊治さんらが急遽作成された「池田さん追悼集」(33人が寄稿)も間に合い、遺影などと共に川瀬さんに持参して頂き会場に飾ることもできました。

◆池田さんの訪韓ビデオ上映と川瀬さんのお話

 開会に先立ち、在りし日の池田さんが偲ばれる録画ビデオ(富山TV制作、92年2月「映像列島92」)を上映しました。91年7月、沢田純三さん(富山在住、不二越訴訟など提起)と同行訪韓され、池田さんが朝鮮の教員時代に不二越(軍需機械工場)へ挺身隊として送り出したとされる「教え子六人」の消息(学籍簿などから)を訪ねる映像でした。池田さんは83年にワークキャンプ(FIWC)関西委員会の青年らとハンセン病定着村を訪れますが、この時が戦後最初の訪韓です。
以後「ピースボート」の訪朝を含め何回も訪韓されていますが、この九一年夏の訪韓は池田さんの長年の念願と核心に迫る訪韓だったと言えます。
ビデオ上映のあと開会挨拶で中北さんは、敗戦50年企画、共同行動20年など池田さんと関西共同行動との浅からぬ関わりと足跡について述べました。続いて毎日記者の湯谷さんの挨拶。湯谷さんは毎日新聞コラム【悼・池田正枝さん「歴史を繰り返すな」訴え】(1月21日)の筆者。韓国では「東亜日報」(1月13日)の追悼報道がありましたが、日本のマスコミ関係では唯一の訃報報道でした。
 続いてメインゲスト、川瀬俊治さんから池田さんについての話して頂きました。川瀬さんは池田さんの住居近くのミスタードーナツ店に通いつめ、丹念な聞き取りでのうえ出版されたのが、池田さんの自伝『二つのウリナラ』(99年、解放出版社)でした。私たちは池田さんとはずいぶん長いつきあいのようでしたが、自身の生い立ちとか私生活に関わることはほとんど知りませんでした。
 池田さんの「語り」に沿って、川瀬さんはその時代背景など「注釈」で補足し、池田さん像を示してくれました。これは又、池田さんの体験を通じ「日帝」の植民地支配がどのようなものであったかなど、「21世紀の子どもたちへ」の伝承のための証言ともなっています。筆まめな池田さんには、様々な団体発行物への寄稿も多くありますが、まとまった一冊といえばやはり『二つのウリナラ』を揚げることができます。
 川瀬さんの話の後、南京事件証言に関わる松岡環さん、部落解放運動から西岡さん、婦人民主クラブ関係から樽見政恵さん(元教員、池田さんも会員で同年)などから池田さんについて想い出などのほか、方清子さん(在日韓国民主女性会)からのメッセージが寄せられた。「講演会などで、一番前に座り熱心に耳を傾け、質問や意見など必ずされていた」などとありましたが、誰もが思い起こすことでした。

◆奈良「偲ぶ会」、「償いきれぬ罪なれど」など上映

 奈良の「偲ぶ会」では大阪で上映した同ビデオのほか、93年8月放映、日本テレビ制作・ドキュメント93『償いきれぬ罪なれど』などが上映されました。
 友人の姜素美さんと富山大学保存の植民地時代教科書(約100冊)閲覧シーンのほか、この時の訪韓では、かつての同僚洪先生再会や、尹貞玉先生(韓国挺身隊問題共同代表、元梨花大教授、池田さんと同時代近くの女学生だった)との出会い。修学旅行中の日本の高校生らとの会話。尼崎で夜間中学のオモニらとの対談。信貴山での第四回強制連行問題全国交流集会と戦跡海軍壕フィールドワーク、などが収録されていました。
 富山から沢田純三さん、九州から元南日本新聞記者、東京から元朝日新聞記者の方など遠くからも駆けつけ弔辞を述べられた。「全外協」(全国在日外国人教育研究協議会)など教育現場関係の方々の弔辞、また地元奈良で強制連行など資料発掘に関わる方々弔辞など、この日の発言は追悼文集を含め、池田さんが如何に広範囲な運動との関わりのなかに身をおかれていたことを示すものでした。最後に池田さんの妹の娘さん中島マリさんが親族を代表して挨拶されました。

◆教育者としての池田さん

 池田さんは戦後48年に教職に復帰されますが、「阪神教育闘争」に見られる民族教育差別、同和地区教員を勤めるなかでの「解放教育」を巡る対立など様々な苦難を体験されます。障害児教育の先駆け「近江学園」での体験を基礎に障害児訪問指導員(約十年)の期間が最も長かったようです。約三年勤務された「府同協」(大阪府同和教育研究協議会)は「人権教育」に名称が変ったそうですが、晩年の「全外協」との関わりは反差別・人権・共生の課題では共通しています。
 90年代に入り韓国・中国ほか強制連行など戦後補償裁判(約70件)が提起されるなかで、池田さんのような数少ない証言が貴重な時代を迎えます。リュックにウエストポーチ、重要な全国集会には夜行バスで駆けつけ、発言する小柄な「元気おばさん」が池田さんの晩年の姿でした。

◆池田さんと松井義子さん

 ところでそれにつけても、私たちは98年12月に亡くなられた松井義子さん(YWC平和委員会、享年70歳)を思い出します。池田さんと共通点は、松井さんも植民地「満州」の大連生まれで軍国主義のなか、少女・青春時代を過ごされたことです。池田さんも松井さんも子ども時代、朝鮮人や中国人への理不尽な仕打ちを目撃しながらも時代の波に飲み込まれてしまった。松井さんは戦後キリスト者として、焼き撃ちされた堤岩里教会再建運動を契機に、韓国被爆者救援運動に献身され、ほかの運動でもご存じの通りでした。それぞれケースは違いますが、お二人とも加害責任をしっかり受け止め、見事な晩年を送られたことを心から賞賛したい。

関西共同行動ニュース No44