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● −出されなかった年賀状−  池田正枝さん逝く(85 歳)  【関西共同行動】和田喜太郎


 老人になっても買い物は嬉しいもの、先日も店に入りましたら、しわだらけの老人が、杖をつき背中を丸くして立っています。お喋りをしようと近づきましたら、それは店の鏡に映った私の姿でした。
 85歳です。
 昨年の秋のはじめから体調悪く、お便りを頂いても失礼重ねました事、お詫びします。この10月から少しですが体調に希望がでてきました。朝鮮民主主義人民共和国の開城で、朝鮮の子どもの学校に勤めました。そうして朝鮮の方の家でお世話になりました。自分の食べ物を割いて私のお膳を作ってくださいましたし、自炊の時は、私が眠っている間に、部屋の前に魚やお米をおいて下さいました。学校では休み時間になると、担任している子どもを中心にして、5年生6年生の女生徒と話し合うのが楽しみでした。
 戦争になって、日時はばらばらですが、その少女たちが消えました。満州に憧れて家出した、と。日本政府は言うだけで、少女達をさがしにいく事も許しませんでした。日本兵士の性奴隷用として拉致し、拒否されたので、日本兵によって虐殺されたのです。「日本中の人が反対しても、ひとりでも信じる道を歩いていきますね。」岩波書店の社長をしてらした時の故安江良助さんがくださった遺言です。見守って下さい。
200 年 月  日
ありがとうございました。
ご大切に

池田正枝


 ―今年のこの年賀状はついに出されなかった―生駒市在住、植民地朝鮮の元教員・池田正枝さんが12月4日亡くなられました。享年85歳でした。
 亡くなられたことが分かったのは4日後、いわゆる「孤独死」でした。韓国「東亜日報」1月13日号は、東京特派員レポートで池田さんの半生を伝えるなど、異例のことだったようです。
 池田さんは植民地朝鮮に生まれ育ち、国民学校教員になられてから、教え子たちを内地「女子挺身隊」に送り出すよう命令をうけ6人を送りました。(それも自分で志願したように見せかけよ、との命令でした。)日本に引き揚げてから、小学教員や高校通信教育教員をしながら、そのことの責任を考え続け、6人の安否を調べ続け、一人だけが長らく分からなかった。韓国でやっと再会されたのですが、その娘さんからは「もう来ないで」と言われたそうです。「女子挺身隊」の名目は工場労働でしたが、なかには「従軍慰安婦」にされたケースもあり、「挺身隊」と聞けば韓国ではそのように受け取られがちでした。
 池田さんは50歳で退職してからも、同和・障害児教育、野宿者支援、アムネスティ、韓国民主化支援、反戦・平和の運動、各地講演やミニコミなどへの投稿、など様々な運動に関わりつづけ、長文の年賀状は毎回千〜二千枚も出されたそうです。
 何度となく韓国に赴き、オモニたちとも対談されましたが、「針のむしろ」の思いだったでしょう。出征前に結婚した男性に、無事に復員して離婚を言い渡されるなど、私生活面ではあまり恵まれず、以後独身でアパート暮らしでした。その自伝的な内容は『二つのウリナラ(わが祖国)‐21世紀の子どもたちへ』(解放出版社)に書かれています。近々、大阪で追悼の集まりを持ちましょう。

●編集後記―池田正枝さんの訃報

人は、避けられず死を迎えるが、「その死に様がどうであれ、そこには意味は無い。生き様が全てだ。何のために君は死に方を意味付けするのか」と作家・辺見庸との会話である。だが、断固として池田さんの最後は見事であったと思い、僕は体の芯まで鼓舞されたいのだ。再び池田さんの笑顔を見ることはなく、時と共に忘れるしかなくとも。孤独な死こそ僕のものだ。(古橋)
関西共同行動ニュース No43