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『ジハード 〜占領と希望〜』 岡 真理(現代アラブ文学専攻・京都大学教員)

 「ぼくたちは檻のなかの猿のようなものさ」。街を囲むフェンスに指をからめてジハードが呟く。ジハードはベツレヘムにあるディヘイシャ難民キャンプに暮らす25歳の青年だ。フェンスの向こうにはパレスチナ人の土地を奪って建設されたイスラエル人入植地が広がっている。
 67年以来、イスラエルが占領を続けるヨルダン川西岸。ベツレヘムの街をとり囲む丘陵部のそこらじゅうに建設されたイスラエル人入植地と、イスラエルが言うところの「安全保障フェンス」によって街は完全に包囲されている。さらに、邪悪な大蛇のように高さ9メートルもの巨大な分離壁が西岸の大地を走る。04年、国際司法裁判所はこの壁を違法と宣言したが、建設は続いている。
 ジハードが暮らすディヘイシャ難民キャンプは48年、イスラエル建国によって故郷を追われ、難民となってここベツレヘムにやって来た人々が作った(注1)。現在、1万2千人が犇めき合って暮らす。2階建て以上の住まいの建設が認められるようになったのはつい近年のことだという。難民となって60年近くたっても、劣悪な住環境のキャンプを抜け出すことができない貧しい人々。ジハードはそんな無数の難民たちの一人だ(注2)。
 数十年にわたる占領は西岸の産業基盤を徹底的に破壊し、生きるために住民たちは、占領者であるイスラエルの労働市場に依存しなければならなかった。イスラエルの産業の底辺を支える廉価な労働力として搾取されることでかろうじて糊口をしのいだのだった。だが、外国人労働者による代替労働力の確保が可能になりイスラエルは分離壁を建設、西岸の人々は壁のなかに閉じ込められ、キャンプ住民はほぼ百%、失業状態にある。
 ジハードは7年かかって今年、高校を修了した。卒業試験の成績が良かったので大学はどこでも希望するところに進学可能だが――政治経済を専攻したいという――、経済的事情で進学ができない。学費を貯めようにも仕事などない。隣街の友人を訪ねようとすれば、そこかしこに占領軍の検問所があり、同年輩のイスラエル兵からハラスメントに遭う。パレスチナ人がパレスチナを自由に行き来することもできないのだ。抵抗すれば逮捕される。ただ、屈辱に耐えるしかない。好きな人がいても、お金がなくては結婚もできない。檻のなかに閉じ込められて窒息するような生活。彼がこんな情況に置かれているのは、彼の努力が足りないからなのか?だが、何をどう努力すれば、この八方塞がりの情況を変えることができるのだろう。未来に対して何の展望も抱けない。ただただ、おのが無力さを思い知らされるだけの毎日……。
 街の案内を終えて彼は言った。
 「今日、ぼくは半日間、あなた方を案内しました。ぼくの経済事情はお話したとおりです。それに対して妥当だと思う額を支払ってくれたら嬉しいし、それは嫌だというのであれば、ぼくとしては、パレスチナ人の苦難の歴史と現状についてお話し、知ってもらえたことで満足です。」
 精一杯、誇りを守ろうとするその言葉は逆に、生きるために外国人に無心しなければならないことが彼の自尊心をいかに深く傷つけているかを痛々しいほど物語っていた。彼が自分たちを「檻の中の猿」と言ったのは――たとえ占領の実態を知るためであろうと――こうして彼らの姿を「見物」に来る私たちのような外国人の存在そのものが、彼の痛みの一部を形成してもいるということなのか。
 生きていくことそれ自体が、屈辱に耐えることでしかない。ただただ、「占領」という現実があるために。だが、国連決議、人権規約、世界人権宣言、国際法のもろもろに違反して40年近く継続するその占領を世界は放置している。ジハードがある日、その身を自ら爆殺しても、私はこれっぽちも不思議に思わないだろう。自爆は、こんな情況におかれたパレスチナ人の青年たちにとって、唯一残された、この飼い殺しのような生、生き地獄から自らを解放し、生きているかぎり否定されている彼らの人間としての尊厳を取り戻す手段なのだということが痛いほど分かった。
 これまでも、パレスチナ人青年による自爆は、占領の暴力が彼らを、絶望の窮みにまで追い詰めたがゆえなのだと認識しているつもりではいたが、それにしても、なぜ、なぜ、自爆など…という思いを拭い去ることができなかった。しかし、今回、西岸を訪れ、「壁」によって人間の尊厳を愚弄されるパレスチナ人の姿に身近に接し、とりわけジハードと出会い、その境遇を具体的に想像することで、私の問いのベクトルは百八十度反転した。このような情況にあってなお、彼はなぜ自爆しないのか、彼に自爆を思いとどまらせているものはいったい何なのかと。そう率直に訊ねると彼は言った。
 「テロリズムには反対です。ぼくだって死にたくはない……でも、分からない。ぼくの友人にもある日突然、自爆してしまった者がいます。ぼくもいつ、そうなるか……ならないとは断言できない……でも、ぼくは自爆しない、パレスチナ人がその正当な権利を回復するという希望がある限り……」
 「希望はあるの?」
 「希望は、あります。」
 「どこに? どんな希望が…?」たたみかけて問う私に、ややあって彼は言った、「どんなとは言えないけれど、あると信じています。」
 別れ際、ジハードの手を握りながら、私は「がんばって」という言葉をのみ込んだ。これ以上、何をどうがんばればよいのだろう。一日一日、生きることの恥辱を耐え忍びながら、彼がそれでもなお、自爆せずに生き続けているということそれ自体が奇跡であり、彼の闘いであり、私たちには計り知れないとてつもない努力の結果なのだから(そういえば、アラビア語の「ジハード」の原義は「努力」だということをどれだけの人が知っているだろうか)。彼が「信じている」という「希望」は、死神が見守る蝋燭の灯だ。いつ、わずかな風が吹いて掻き消してしまうかもしれない。この灯を消さないためには、私たちはどうしたらよいのか。その答えを見出すことに較べたら、「自爆テロ」に眉をひそめ、ただ非難することのなんと容易でなんと無責任なことか。
 (注1)イスラエル建国によって当時パレスチナに暮らしていた二五〇万のパレスチナ人のうち七五万から百万人が難民となった。
 (注2)現在、難民登録されているパレスチナ人の総数は4百万。
関西共同行動ニュース No42