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『安倍首相の「歴史認識」をめぐって』 天野恵一(反天皇制運動連絡会)

 首相就任が決まる直前に出した新書『美しい国へ』(文藝春秋)で、安倍晋三は、こう語っている。
 「靖国参拝をとらえて『日本は軍国主義の道を歩んでいる』という人がいる。しかし戦後日本の指導者たち、たとえば小泉首相が近隣諸国を侵略するような指示をだしたことがあるだろうか。他国を攻撃するための長距離ミサイルをもとうとしただろうか。核武装をしようとしているだろうか。人権を抑圧しただろうか。答えは、すべてノーだ。いまの日本は、どこからみても軍国主義とは無縁の民主国家である」。
 どうして、こんなことがいえるのか。自衛隊は、すでにアフガニスタンに派兵され、イラクにも派兵され続けている。国際法(国連憲章)を公然と踏みにじったアメリカの先制攻撃という侵略攻撃と、その後の侵略占領に日本の自衛隊は加担し続けているではないか。また日本には米軍のミサイルも多数あり、日本はアメリカの核攻撃システムの中に存在していることも、まちがいない事実ではないか。さらにマスコミのリンチ報道(特に犯罪報道)に眼をやれば、人権の侵害(抑圧)などは日々、あふれかえっているではないか。どうして、こんな事実認識で首相がいられるのか。
 安倍が『文藝春秋』(九月号)に書いた文章のタイトルは「この国のために命を捨てる―『闘う政治家』宣言」である。その文章の結びにはこうある。
 「そして何よりも、長い歴史を紡いできた日本という『美しい国』を守るためには、一命を投げ出すという確固たる決意が求められているのです」。
 国のため命を捨てるのは当然という美学をふりかざす人物が、新しい首相になるという時代を、私たちは生きだしているのだ。
 『美しい日本』の方では、かつての特攻隊員についてふれて、彼はこのように語っている。
 「国のため死ぬことを宿命づけられた特攻隊の若者たちは、敵艦にむかって何を思い、なんといって、散っていったのだろうか」。
 「今日の豊かな日本は、彼らがささげた尊い命のうえになり立っている。だが、戦後生まれの私たちは、彼らにどうむきあってきただろうか。国家のためにすすんで身を投じた人たちにたいし、尊崇の念をあらわしてきただろうか」。
 かつての戦死者が、戦後社会を作り出したわけではない。戦後と戦死(者)は、その意味では無関係である。逃げることもできずに「自爆」を国家によって強制された若者たちの無念を思うことは必要であるが、その死を尊崇し美化することは許されるべきではない。
 こういった「国のための死」の美化は、戦死の美化であり、戦争の美化であるにすぎないのだ。安倍は、現在の日本は軍国主義とは無縁だ、などと主張している。しかし、日本は今、米国に引きずられて「戦争のできる国」から「戦争する国」へ転換しつつある。そうした転換をスムーズに実現させるためには、「国のために死ぬのは美しい」という、かつての天皇制ファシズム・軍国主義の美学が復活される必要があるのだ。だから、こういう思想の持主である安倍が、この転換を推進させるにはふさわしい人物として首相になったのだ。安倍は確信的な天皇主義(伝統主義)右翼である。
 『朝日新聞』(十月三日)の社説「歴史認識 もう一歩踏み出しては」はこう述べている。
 「安倍首相が初めて望んだ衆議院代表質疑での答弁で、先の大戦での日本の『侵略』や『植民地支配』をようやく認めた。日本がアジアで行った戦争をどう見るか。総裁選を通じて、安倍氏は『歴史家の判断に任せるべきだ』と述べてきた。/戦後50年の95年、日本の植民地支配と侵略への反省と謝罪を表明した村山首相談話についても『精神は引き継ぐ』と言いながら、安倍内閣で踏襲するかどうかの明言は避けてきた。/『自虐史観』を批判してきた安倍氏である。進んで『侵略』を認めることには抵抗感があったのだろう。だが、国政を預かる身になれば、そんなあいまいな態度では通らないことは自明だ」。
 この「社説」は、「侵略」と「植民地支配」という歴史認識は政府(安倍政権)の認識であり、首相である個人安倍の認識は別という態度で中国や韓国との信頼関係はきずけないと論じている。
 しかし、政府(安倍政権)としては村山談話の線、首相個人としては侵略などと論ずるのは「自虐」あれは「自衛」のため、「アジア解放」のための正義の闘いであったという認識(あの戦争の死者を「英霊」とたたえる、「大東亜戦争の総括」を提出した「歴史検討委員会」の委員でもあった安倍が、そういう歴史認識の持主であることは、あまりにも明らかである)。村山談話は、「侵略」や「植民地支配」を「謝罪」して見せているけれども、その「侵略」や「植民地支配」の責任について、なんら具体的に論じていない。すこぶる抽象的な謝罪の文章であるにすぎない。
 だから、安倍の、こういったダブル・スタンダードの態度が可能になるのである。本気の、具体的にやったことに対する「謝罪」ではなく政治的ポーズとしての「謝罪」だから、「自虐史観」批判の右翼的心情と論理の持主でも、とりあえず村山談話の線でいきますといえるのだ。この姑息さこそ、安倍首相と安倍政権の政治的性格をよく示していると思う。言い換えれば安倍(政権)はソフトな仮面をかぶった天皇主義右翼政権なのである。仮面ごと素顔をはりとばすような言葉と運動がつくりだされなければなるまい。こんな態度は、アジアの民衆はもちろん、主権者(「国民」)をナメきったものであるのだから。
関西共同行動ニュース No42