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『06年、関西共同行動と反改憲運動』 古橋雅夫(関西共同行動) 

 自民党と民主党がいよいよその正体をあらわにし、共に改憲策動をまずは「国民投票法」の成立に向けて動き出した。2大政党の行き着く先はこれであったのかと改めて納得する。
 対してどういった行動と実践が求められているのか、メンバーの一人として06年の年頭に向け、問題提起を行いたい(都合後記省く)。

●憲法九条の何が問題なのか
 危機的憲法状況といわれて久しいが、いつからこの危機が始まったのかといえば、それはこの憲法が制定された瞬間からだ。
憲法九条は、一項そのものは、「正しくない」戦争のための武力行使は許されないという、公知の論を踏襲したもので、今後ともその点で再吟味される事態はないだろう。問題は二項である。戦力の不保持・交戦権の放棄は、「正しい」戦争のための武力行使も許されないという宣言である。その論は「国家には自己防衛のための武力行使が自然権として許されている」とする国家主義者にとって、日本国憲法という体をとっているにも関わらず、自己矛盾的テキストとしてあり、生まれた瞬間から危機的運命にあった。およそ九条第二項は、護憲という枠を超えてこれまでの国家観に対する挑戦であった。
 つまり、憲法九条は「護憲」だけでは守れない。「国家」「国益」「日本人」「国際化」の徹底的な批判と我一人ゆえのまだ見ぬ人との根底的な連帯が必要だ。

●天皇条項改憲をどう考えるか
 戦後60年間、ベトナム戦争では一人の派兵もなく、いまだ一人も殺していない。その背景にある「戦力の不保持」をうたった憲法九条というものがありながら、今や大義なきイラク占領に堂々と参戦する世界第四位ともいわれる軍事大国である。つまりこの条文=テキストは、政治的な力関係の結果、現実的な意味を失っているものの、九条をめぐる様々な憲法裁判は「これがあるから」ではなく「それでも筋が通らない」からであって絶えることはないだろう。
 逆にいえば、第一条「天皇は国民統合の象徴」であるならば、あってもなくても良いような象徴にしてしまえばいいのであって、およそ憲法はその実践的背景を持って意味をなし、また意味を成さない。そう考えるべきだ。このテキストを憲法条項から削除すれば「象徴天皇制」が胡散霧消するとは思えない。
 つまり、憲法は「私」と「国家」の契約条項でありその履行・不履行は憲法の各テキストにいかなる内実を作り出すかという「私」の振る舞い如何にかかっており、従って「反改憲」の立場とは、「改憲」などというという国家的権威に同席するものではなく、いかにして「憲法」というテキストの中で、その力関係において「私」への荷担を行うかという立場でなければならない。これが「市民運動の限界」だとするか。否、ここが希望だ。
●関西共同行動は何をするのか

 今号の論文どれもが、改憲への危惧を前にしての政治情勢の分析・批判・鼓舞・集会報告で満ちあふれている。先日は、17日の香港でのWTO抗議行動で不当逮捕された仲間に対する、中国領事館への抗議行動の報告を受けた。
 権力は日々そのターゲットを狭め、スキャンダルにつけいり、分断と猜疑心を拡散させる。だがこの何十年の間、先に鬼籍に入った多くの仲間を思い、何度でも繰り返し行動するんだ。

関西共同行動ニュース No39