その日、浩都くんを見送ってから、あたしは漂くんに寄り添った。
昨日から様子がおかしいのは明らかだった。今この場所にいる人間の中で、彼が一番大きなショックを受けているという風に感じられた。浩都くんがボロボロだったことに対して、本人よりも強くショックを受けているみたいだった。その反応は、ほとんど何も知らないあたしから見ても、過敏だという印象があった。
浩都くんは自分でなんとかしようとしている。あたしは素直にそれを後押ししようと思った。というよりは、浩都くんの意思を尊重したと言うべきだろうか。それは難しいことじゃないとあたしは思う。なのに、漂くんはそれができないでいるみたいだった。助けたいのに助けられないことを苦しむ姿。昨日の言動からだと、彼は人が傷つくこと、苦しむことそのものが嫌でたまらないみたいだった。
けれど、どうしてそうなのか。あたしにはわからない。あたしは漂くんが好きだけど、知り合ってまだ1ヶ月くらいしか経っていない。彼について、知らないことは多い。多分それはお互い様だと思うけど。
別に、本当は知らないままでもよかった。あたしは漂くんが好きだし、その思いをぶつけて、彼にそれを受け取ってもらえれば、それだけで十分すぎるくらい幸せだった。今までは、そのはずだった。
けれど、知らないままでいられないこともありそうだと、今は思う。彼がどうして苦しいのか、原因がどこにあるのか。それは、知っておくべきことだと思った。
自分の部屋の中に、彼はいた。今日だって学校なのに、着替えようとする仕草は一向に見られない。ベッドに上半身を寄りかからせて、ぐったりと寝そべっていた。
「……漂くん」
膝を落として、あたしは彼の体にすがりついた。抵抗はされなかった。ゆっくりと、手と首を絡みつかせる。
「……宮月」
彼は驚きもしない。それどころか、ほとんど動きもしない。ただ、名前だけを呼ばれる。完全に外との関わりを断ち切ってるわけじゃないのは、少し嬉しかった。けれど、顔色は悪いままで。
「……何を、そんなに怖れているの?」
単刀直入。あたしはそうとしか訊けなかった。彼が何を怖れているのか。浩都くんに関してのことだろうとは思うけど、今までのそれはあたしの推測でしかない。
いや、浩都くんに関してのことだと思うなら、それをもっと直接的に訊くことだってできただろう。けれど、違っているかもしれないし、肯定されたとしても、具体的な訊ね方なせいで、彼の思考がそっちに誘導されていたという可能性がある。本心だとは言い切れない。
何より、彼が自分から話してくれるかどうかの方が、今は大事だった。今日になってからあたしが彼の声を聞いたのは、あたしの方からすがりついて、彼の名前を呼んで、その返事のように名前を呼び返された時だけだった。
今は、彼の声は響かない。あたしも、何も言わない。部屋の中は静かで、外で車が走っていく音が聞こえるだけだった。
彼が何を怖れているのか。その疑問の声は、彼に届いているだろうか。繰り返し問いかける気には、なぜかならなくて。ぴったりと彼にくっついて、あたしは待っていた。彼も、あたしを引き離すことなく、動くことなく。
「……傷ついていくのが」
本当に静かな中、それは唐突な響きだった。答え、だろうか。ただの呟きだろうか。あたしの言葉が届いただろうか。動かずに、続きを待った。
「助けられるかも、しれないのに。それくらい、手が届くところに、あいつがいるのに……助けられなくて、傷ついていくのは……いや、だ」
漂くんらしくなく、何かに怯えるような響きで。そして、どこか幼ささえ感じられる声。その声で、彼はゆっくりと言葉を続ける。
「傷つくのが、いやだ。どうして、傷つかなきゃ、ならないんだ、あいつが」
彼は、本当に。心の底から、『傷つくこと』を怖れている。自分ばかりじゃなく、誰かが傷つくことすら怖れる。誰にも傷ついてほしくなくて、だから彼は誰かに手を差し伸べずに居られないのだろう。
けれど。
「……浩都くんのこと、信じてあげられないの?」
あたしは言った。静かに訊ねた。だけど、確信していた。
漂くんは今、浩都くんを信じることができないでいる。彼が傷つくかもしれないことを怖れて、助けようと手を差し伸べて、それを拒絶されて。このままだと彼がひどく傷ついてしまうんじゃないかということに、怖れを抱いてしまっている。
だけど、確かに彼は傷ついて帰ってくるかもしれないけれど。彼自身はそれを糧にして、少しでも前に進もうとしている。あたしはその意志を感じたから、彼を信じることにした。
「……信じ、る……」
うわごとのように、漂くんは呟いた。迷いがあるような、声と表情。信じたいとも思っているんだろうか。けれど自分の中で何かが引っかかって、信じきれないでいるような。
「あたしは助けないよ。彼がどれだけ傷ついたってね。……乗り切ってくれるって、信じてるから」
ただそれだけのこと。彼に告げた言葉、あたしがやっていること。彼の体が、身悶えるように動いた。
「……見捨てる、のかよ」
「違う。第一、彼が拒否したんじゃないの」
「違うもんか……っ、どうして意地を張る……」
「意地? 意地って何」
「意地になってるだけだ、あいつっ……弱いのに、1人で背負い込もうとしてるっ……」
血を吐いているような声だった。漂くんには、そうとしか思えなかったんだろうか。だけど、放たれた言葉を受け入れるわけにはいかなくて。
「漂くん」
意識を向けてほしくて、あたしは出来る限り厳しさを意識して、声を出した。
「それ、浩都くんに向かって言える?」
「言ってるっ!! なのに聞こうとしないからっ」
「聞かなかったの、なんでだろうね?」
感情的な叫びに対し、妙に冷静さを自覚しながらあたしは返した。
「確かに彼は弱いかもしれないよ。でも、だからこそ、強くなろうとしてるんだと思うよ。それなのに、そこにあたしたちが手を出しちゃったら、彼、結局強くなれないままになっちゃう」
「傷つく必要なんかないだろっ!!」
「それを決めるのはあたしたちじゃなくて浩都くんでしょう」
どうしてあたしはこんなに冷静なんだろうと心の片隅で思いながら、諭すように言葉を続ける。対する漂くんは、ただ切実な願いを吐き出し、叫んでいる。あたしの言葉は、彼に届いているのだろうか。
「……例えばの話、だけどさ」
嗚咽すら漏らし始めた漂くんに向かって、あたしはなおもゆっくりと言葉を告いだ。
「傷つけて、ってあたしが自分から言ったら。そう望んだら。あなたはどうするの?」
驚きと困惑が入り乱れているような表情が、あたしを捉えた。何を言ってるんだ、というのを言葉に出さずとも問いかけているような。
「……そんなこと言うな」
「言うかもしれないよ? あたしはどっちかって言うと、そういうの好きだもん」
言いながら、笑い声が漏れてくる。今のあたしはいったい何なのだろう。本当は漂くんのことをすごく心配しているはずなのに、どうしてこんなにも冷静で、どうして笑い声を漏らす余裕までもがあるんだろう。
「……言うな。言うな、そんなこと」
そんな声が聞こえてきて、あたしは抱きしめられた。顔を出しかけていた余裕が引っ込んで、胸が1度だけ大きく高鳴る。
けれど、それでもまだあたしは冷静だった。少し呼吸を整えてから、言葉を告げる。
「質問に答えて。あたしは傷つけてほしいってあなたに言った。取り消しはできない。もしそうなったら、あなたはどうするの?」
はっきりさせておいたほうがいいと思った。傷つくこと、傷つけることを恐れる彼が、もしもそういう状況に陥ってしまった場合に、どうするのか――ある意味卑怯な問いだとはわかっている。だけどあたしは彼が出してくる答えに対して、妥協するつもりはない。
「……できるわけ、ないだろ」
それでも彼はそう言った。傷つけろとあたしが言ったって、傷つけることはできないと。ただ、その声はとてもとても苦渋に満ちていたから、彼を責めることはできない。それでも、責めることと、言わなければならないことを言うのは、また違うこと。
「……あなたは、優しすぎるわ」
そっと告げた。言い方によっては彼の傷になりかねない言葉。でもあたしは彼を傷つけたいわけじゃない。たとえ自分が傷つけられたいと万が一にも望むことはあっても、彼を傷つけようとはそれこそ万が一にも思わないだろう。
優しすぎることは、普段ならば強さだろう。けれど、こういう場面では弱さに変わるものだと思う。だから彼は今、苦しんでいる。
「……優しいのは、いいことだけど。振りまいていい時と、そうじゃない時があると思うの」
ゆっくりと言葉を口に出していく。彼に言い聞かせ、自分にも言い聞かせる。あたしはわかっていたつもりだけど、言葉に出して再確認する。
「今、浩都くんには優しくするべきじゃない。あたしたちに出来るのは、ただ彼の行く末がどうなるか、見守ってあげることだけだから」
手は貸さない。後ろにいる、ただそれだけでいい。
「傷つけさせないんじゃないの。彼が傷ついても、帰る場所があればいい。受け止めてあげる人がいればいいと、思うの」
彼にとって、あたしたちがいる場所が、彼にとっての帰る場所であればいい。漂くんと浩都くんとあたしは、ひとりひとりがどんな形でも、3人集まってひとつの存在なのだから。
漂くんは何も答えなかった。あたしは抱かれたままだったけど、回された両腕に力はなくて。彼のほうが、あたしに体重を預けたまま、動こうとしなかった。
言葉が届いたかどうかわからないけれど、その感触は心地よくて。そのまままどろんでしまいそうで。言いたいことは言ったから、構わない。届いてないのなら、また言えばいい。届くまで言えばいい。
と、そう思いかけたところで、部屋のドアがノックされて。顔を向け、返事をしたのはあたしだけで。その後に、観沙さんが顔を覗かせた。
「……大丈夫、かしら?」
訊ねる声は、あたしたち2人を心配しているものだ。この人も、優しい人だと思う。その優しさは漂くんのものとはまた違って、あらゆる意味で助けられる。
「……ごめんなさい、あたしたち、今日は学校、行けそうにないです」
告げた内容は後ろめたいものだった。どんな理由でも、学校を休むなんて。真面目に振舞っているわけじゃないけれど、一般的には良くないことだから。そういう後ろめたさを完全に無くせはしないけれど、それでも観沙さんにはあまりためらわずにそう告げることができた。
そして観沙さんが優しいと思うのは、こんな内容に対してあっさりと頷いてみせてくれることだった。もちろんただそう言ったんじゃ許してはもらえないけれど、今は――あたしは漂くんが心配で。それを汲んでもらえたことが嬉しくて。それに、観沙さん自身も漂くんのことが心配だっただろうから。
「……すぐ落ち着きそう?」
「わかんないです。一日、漂くんお借りしてもいいでしょうか」
物扱いするような言い方でどうかと思ったけど、観沙さんはまた頷いてくれた。
「漂くんのことが心配ですけど。今日は、浩都くんを待ってあげなきゃいけないと思うから」
あたしがそう言うと、観沙さんは微笑んだ。
「優しいわね、あなたも」
そうだろうか。だけど今は否定する気にはなれない。そもそも、嘘を言う人でもないだろう。ありがとうございますとあたしは頭を小さく下げた。
「……ご迷惑、おかけします」
「いいのよ。ゆっくりしなさい」
そうやりとりを交わすと、観沙さんはそっとドアを閉めた。再び漂くんと2人きりになる。そういえば、やりとりの間、彼は一度も口を挟まなかった。
「……そばに、いるよ。今は。漂くんが望むだけ、居るから」
彼は未だ迷っている。けれど、今は時間があるから、決断を急がなくていい。迷うというより、今までの自分と現実の差に、揺らいでいるのかもしれない。
そんな漂くんにそっと声をかけて、あたしは彼の体を抱きしめ返した。彼があたしに感触を伝えてくるように、あたしも自分の感触を伝えたくて。漂くんのそばにはあたしがいるってことを、少しでも感じてほしくて。
今は、2人で。足りないかけらの受け皿として、ただ存在していましょう。足りないかけら、浩都くんが。どんな形ででも、戻ってくるまで。
あたしたちは2人で寄り添って、今日の時間が過ぎるのをじっと待っていた。