結局、おれが家に帰ったのはかなりおそくになってからだった。
里柚ちゃんが怒られそうで心配になったので、彼女の家までついていって。そうして里柚ちゃんの親に、この子をおそくまでつき合わせてごめんなさいって言って、今日あったことを説明して。あまりいい顔はされなかったけど、それでもなんとか里柚ちゃんを怒らないようにはしてくれた。
とはいっても、いい顔をされなかったのはぜんぜん別の理由かもしれない。里柚ちゃんのお母さんのほうに、そんなけがで帰れるのと聞かれたから。もしかしたらおれを心配していたからこその、あんな顔だったかもしれない。その心配自体はしょうがないかなと思うけれど、それでもおれはだいじょうぶですって返事した。
そうして、里柚ちゃんの家の前からいなくなる時だけ強がってみせて、そのあとは体中痛いのに泣きそうになりながらも、なんとか家のほう――漂にーちゃんちまで歩いていった。途中で変な人に会わずにマンションに着いた時は、すごくほっとした。
今、ドアの前。ふだんならそのまま開けて入っちゃうけれど、今日はなんだかそれができなくて。おれはおそるおそる、インターホンのほうを押した。そしたら向こうから音がする。
『はい?』
観沙ねーちゃんの声。ああ、もうこの人も帰って来てるんだ、ってことはもうご飯かなぁ。
「ただいまー。浩都でーす」
おれはとりあえずそう返事して、ドアが開けられるのを待った。すぐに向こうからドアが開いて、観沙ねーちゃんが顔を出す――目が合って、顔が苦そうなものになった。
「……大丈夫なの?」
「……だいじょうぶだよー。痛いけど」
それでもおれは笑いかけた。別に、心の中まで痛いわけじゃない。痛い時もあったけど、今はちがう。
観沙ねーちゃんは少し息をはいてから、ちょっとふくざつそうにほほえんだ。
「……ともかく、おかえりなさい。ご飯ならもうすぐ出来るから、ちょっと待っててね。……漂と草那ちゃんも待ってるわよ」
そう言ってから、観沙ねーちゃんはリビングのほうにもどっていった。ついていってみたけど、待ってるって言ってた漂にーちゃんと草那おねえちゃんの姿はリビングにはない。
部屋かなと思ってそっちのほうに行ってみる。そろっとドアを開けて中をのぞいてみると、ベッドのそばにもたれてる草那おねえちゃんの顔がこっちを向いた。その草那おねえちゃんによりかかるようにして、漂にーちゃんは眠っていて、おれには気づいていなかった。
「おかえり。……お疲れ様」
入ってきたおれに、草那おねえちゃんはそんな声をかけてきた。となりに漂にーちゃんがよりかかってるから、おれはランドセルをてきとうに放り出しながら、反対側によりそう。
「ただいま」
それからおれはそうつぶやく。何をやってもゆるしてくれると、そう言ってくれた人のもとに、おれはやっと帰ってきた。
「……大変だったみたいだけど。どうだったの?」
「……ん、だいじょうぶ。今日はね、負けなかったよ?」
けんか自体は、思い出してみて、あまり気持ちのいいものじゃなかった気がするけれど。それでも、何もしないでおとなしくやられてしまうよりは、ずっとましで。本当にいやなものを、自分にとって痛かったり苦しかったりするだけのものを追いはらうのに、えんりょなんかしていられない。
おれが言ったのに対して、草那おねえちゃんはふわりとほほえんでくれた。
「……がんばったね」
「……うん。おれ、がんばったよ」
頭の上が少しざわざわとする。草那おねえちゃんに頭をなでられていると気づいて、おれはそのままでいた。くすぐったいけれど、心地よかったから。
「……そういえば」
なでられたまま、ふと気になって。おれと反対側から草那おねえちゃんによりかかって眠っている漂にーちゃんのこと。この人はけっきょく、今日、どうしていたんだろう。
「……おねえちゃんと、漂にーちゃんのほうは、どうだったの?」
頭をなでられながら、おれは聞いてみた。すると草那おねえちゃんの笑顔が、ちょっと困ったようなものになった。
「……あたしたちは大丈夫よ、って言いたいところなんだけど。……漂くんって、ホントにすごく心配性なのね」
「……おれのこれ、見たら。怒るかな」
傷だらけの自分の体のことを考えて、それを見た漂にーちゃんがどう思うのか。怒られそうな気がして、気分がしずみかけた。
「……怒ることじゃないわよ。もしそうなったら、あたしは味方でいてあげるから」
「……ううん。それならそれで、しょうがないと思うから。おねえちゃんは、見てて?」
そういう話は、おれと漂にーちゃんの1対1でやらなきゃいけないと思う。それに少なくとも、漂にーちゃんは怒る時はまじめに怒る、っていうかいつもまじめだから。真剣だから。それを無視していることはできないと思って。
「……あっきれた。真面目なのは漂くんだけじゃなかったのねぇ……」
そんなことを言いながらも、草那おねえちゃんはくすくすと笑っていた。なんでそんなにおかしいのって言おうとする前に、向こうの言葉が続く。
「いいわ。好きにしなさい。言われた通り、あたしはちゃあんと見てるからね」
そう言って、おねえちゃんは笑顔を向けた。そうなると、おれは何も言えなくなってしまう。何を言っても通用しない気がしてしまうから。
と、そこで突然ドアが開いて、観沙ねーちゃんが顔を出して。ご飯できたわよと言われた。
話はそこまでにして、おれはすぐに観沙ねーちゃんについていこうとしたけど、草那おねえちゃんは困ったように笑いながら動かなかった――漂にーちゃんがまだ眠っている。
観沙ねーちゃんのほうに顔を向けると、そっちも困った笑顔を浮かべていて。2人とも、漂にーちゃんを起こすのに迷ってるみたいな感じだった。
だけどこれからご飯なのに、そんなえんりょをしてどうするんだろうと思って。だからおれは漂にーちゃんの真正面に回って、うりゃーと頭にチョップを入れた。
チョップなのにごんっと音がして、とたんに漂にーちゃんの顔はむずがゆそうなものになって。でもまだ起きてこないから、もう1発チョップをくらわした。
「……遠慮ないのねえ」
草那おねえちゃんが、今度はほんとにあきれたような声で言ってきたが、気にしない。おねえちゃんのほうも、そう言ってきながらおれを止めようとはしなかった。
けっきょく何発かチョップをくらわしたところで、やっと漂にーちゃんの目が開いたのを見ると、おれはさっさと観沙ねーちゃんについていった。そうしないと、お前それどうしたとかいろいろ言われそうで、その間にご飯が冷めちゃいそうだったから。
今日の晩ご飯を食べるのに、そんなに時間はかからなくて。てきとうに話しながら、ちゃっちゃと食べちゃって。その時におれがした特別なことと言えば、漂にーちゃんの顔をちらっと見てみたくらいで――まだ、しずんでいる感じがした。たぶん、草那おねえちゃんからかんたんに話を聞いて、そして今おれを見て、それがどうにもつらそうな感じで。だけど食べている時は向こうは何も聞いてこなかったし、俺も何か言おうとは思わなかった。食べることに集中したから、食べ終わるのは早かった。
そのあとしばらく、おれはリビングでごろごろとしていた。もうそろそろ体が痛いのもあまり気にならなくなってきて。ゆっくり休めると思ったせいなのか、ちょっと気が抜けているのかもしれない。漂にーちゃんはさっさと自分の部屋に引き上げて、観沙ねーちゃんは台所で食器をかたづけていて。そこから離れてるソファのほうに、草那おねえちゃんといっしょにすわりこんでいた。
「……漂にーちゃん、まだなっとくしてくれてないんだね」
なんとなくそう思って、口に出してみた。草那おねえちゃんは困った顔でこくんとうなずいた。
「誰かが傷つくのがすごく嫌だ、って言ってたよ。本当に、誰にも傷ついてほしくないんだって」
「傷つくのが? ……傷が、いやなの?」
草那おねえちゃんの言い方は、漂にーちゃんは傷そのものがいやなんだ、と言っているように聞こえた。誰も傷つけさせたくないから、行きすぎなくらい人を心配して、弱いと思ったものを全力で守ろうとする。だからおれに、守ってやるから無理なんかするなと言う。
漂にーちゃんはおれを守ろうとする。守ろうとして、おれにいやな思いをさせそうなものを、何もかも全部払いのけようとする。そうなると、おれはいやな思いをしない――いやな思いをすることが、できない。
それもそれでなんだかいやな感じだった。たしかにふつうならいやな思いなんてしたくはないけれど、生きていくことはそんなに甘いことじゃないはずだと思う。自分がいやなことっていうのは、むしろ自分からぶつかって、乗りこえていかなきゃいけないものなんじゃないかと思う。おれにとって、天沼たちとのいざこざはそういうものになるんじゃないだろうか。
いやなことは、だけどいやだからってさけて通っちゃいけないものだと、思う。乗りこえなきゃいけない「いやなこと」だって、生きていく中じゃ、あって当たり前なんじゃないだろうか。
そう思って、草那おねえちゃんにそれを話してみると、ちょっとだけびっくりしたような顔をされて。けれどそれからすぐにほほえまれて。
「いい考え方じゃない? ちょっと感心しちゃった、あたし」
言われて、ふっと心が軽くなったような気がした。思ったことを言って、受け入れてもらえて。うれしくなって、おれは草那おねえちゃんの体にすりよった。また頭の上がゆっくりとざわざわして、なでられているんだなと感じて、それがまた心地よくて。
草那おねえちゃんにはほめられて、うれしかった。けれど、言うべき相手はこの人じゃなくて、漂にーちゃんで。たぶん、今一番苦しいのはおれじゃなくて、にーちゃんだから。
ゆっくりと、草那おねえちゃんから体をはなして、おれは相手の顔を見上げて。
「漂にーちゃんのとこ、行ってきていい?」
そう言うと、草那おねえちゃんはゆっくりとほほえんで。
「行ってらっしゃい。言いたいこと、全部言っちゃいなさいね」
その言葉にうんとうなずいて、それからおれは漂にーちゃんの部屋に向かって歩いていった。
家に帰ってすぐの時と同じように、そろっと部屋のドアを開ける。中には、ベッドのわきによりかかってぐったりとしてるような、漂にーちゃんの姿があった。
「……にーちゃん、入るよ?」
いちおう声をかけてみたけれど、返事は返ってこなかった。だめって言わないから入っていいんだなと思うことにして、おれは部屋に入って後ろ手でドアを閉めて、漂にーちゃんのそばのゆかにすわりこんだ。そこではじめて、漂にーちゃんの体がもぞりと動いて、おれの顔に目が合った。
「……ねえ、怒ってる?」
なんでもいいから答えてほしくて、おれは最初にそう言った。また返事は返ってこなかったけど、漂にーちゃんはぐったりした状態から体を起こして、おれを見下ろしてきた。話を聞いてくれる気になっただろうか。
「おれね、今日のことは後悔してないからね?」
見下ろす顔に向かって、おれはきっぱりとそう言った。本当に後悔はしていない。むしろ、今日って日には自信すらある。
「……怪我、大丈夫か」
心配そうな声。ただ誰かが傷つくのがいやだっていう思いから来るものでも、本当に心配そうな声。
「……大丈夫じゃない、けど。でも、一方的にやられたんじゃないよ。おれ、今日は戦ったんだよ?」
思ったこと、実感したことをできるだけそのまま言う。そうだ、おれは今日、戦ったんだ。天沼たちのいじめに、正面からぶつかって、逆らった。内容はたぶんあんまりよくなかったと思うけど、むだなことじゃないはずだ。
おれは漂にーちゃんの顔をじっと見た。にーちゃんはまだ苦しそうな顔をしていたけれど、おれはその顔から目をそらさなかった。
やがて、おれがけがしてるのに気を使ってか、ゆっくりと体を抱かれ。
「……無理、すんな。本当に。……やっぱり、傷つかれるのは。君が、痛いのは。嫌だ」
それは漂にーちゃんが今までも何度も言ってきた言葉、だけど。何か、少しだけど、ちがうものを感じた。やっぱりってなんだろうと思いかけたところで、両方の肩をつかまれ、目を合わせられた。
「だから。……本当につらかったら、いつでも頼れ。そっちから言ってきてくれれば、僕は全力で君を助けるから」
本当に真剣に、漂にーちゃんはそう言ってきた。おれはそれをだまって聞いている。聞きのがさないように。
「……言わないのなら、こっちも余計なことはしないから」
自分の中では飲みこみきれなくて、でも漂にーちゃんなりに考えて、その言葉にたどりついたんだろうかと、そう思うような言い方だった。
「……言うよ。ほんとにおれひとりでだめだったら、ちゃんと言うよ。約束する、にーちゃん」
おれは漂にーちゃんの言葉を受け止めて、そう返した。そのほうが、この人のためでもあると思ったし――言い方は悪いけど、この人の力にいつもいつも頼るんじゃなくて、タイミングを見て利用していくことが大事になってくるんじゃないかと思った。それ以外は、やっぱりできるだけ自分の力でやらないとだめだとも思って。
「でも、おれだって強くなりたいから。だから、自分でできそうなことは自分でやりたいの、できるだけ」
それは、おれが本当に望むものだから。
「守られてばかりじゃ、いられないんだよ」
はっきりと、おれは漂にーちゃんにそう言った。はっきりと伝えたい、思い。言葉。
漂にーちゃんは、しばらく何も言わなかった。おれの肩をぐっとつかんで、少しうつむいて、目を閉じて。それでもおれは、そんな漂にーちゃんから目をそらさずにいて。
しばらくして、肩の手がずるりと落ちて、少しから思いっきり顔をうつむかせて。体中の力を抜いたような状態になってから、漂にーちゃんはゆっくりと顔を上げて、おれを見た。
「……負けるなよ?」
たった一言、それだけを言って、漂にーちゃんは息をはいて、それから弱々しかったけどほほえんでくれた。
「負けないよ?」
むしろ負けるわけないじゃん、とばかりにおれは一言返した。やってみないとわからないことはまだまだいっぱいあるけれど、やるからには負けたり失敗したりしないように。だからってそれをこわがることもないように。そういう自信を向けて、おれは思いっきり笑顔を作った。
もう一度腕がのばされて、おれはまたゆっくりと体を抱きしめられた。それはやっぱり、漂にーちゃんのやさしさってやつが感じられる動きで、おれは抱かれながら息を吐いた。
「……がんばれ」
耳元にそんな言葉が聞こえて、おれはこくんとうなずいた。
がんばろう。本当に、全力出してがんばろう。
本当に強くなるために。