番外編2の4.すべてはこの時のために

 始まったと感じてから何がどうなったのか、さっぱり覚えてなくて。
 気がつくと、また昨日みたいに体中が痛くて。昨日やられたけがだって、まだ治りきってなかったのに、その上にこんな状態で。

 ただ、ずきずきと痛みはするけれど、頭はずいぶんぼんやりとしていた。力を抜いて、壁にもたれて、へにょりと座り込んでいる。そのままぼーっと目の前をながめる。

 誰もいなかった。ここにおれを呼び出した天沼たちの姿が、どこにもなくて。逃げたのか、先生のところにかけ込んだのか。どっちだろう。



 そういえば、けっきょくおれは悪いことをした。ここにおれを連れてきて、またよってたかってボコろうとしてきたのは天沼たちのほうだから、おれが全部悪いってわけじゃないけれど。でも今日は、先に手を出したのはおれのほうで、しかもそれを楽しんでた感じがあって。



 放っておいても、何があったかなんて絶対ばれるから。それに、そもそも隠しておきたくなかったから。
 少し動くだけで体は痛いけど、泣いてなんかいられない。おれはどうにか立ち上がって、ふらふらと歩いていった。倉吉先生がいるはずの職員室を目指して。



 空はもう、青色の中に赤がまざり始めていた。












「くらよしせんせー、いますか……?」

 職員室にたどりついて、ドアを開けて、目の前の女の先生に声をかける。ふり向かれて、その次にはびっくりした顔に変わる。

「き、君、どうしたの!?」

 かけよりながら、あわてたように声をかけてくる。

「……あとで保健室行きます……それより、くらよしせんせー、いますか?」

 言いながら、笑顔を作ってみる。でも、実際に笑顔になってたかどうかまではわからない。

「え、ええ、倉吉先生ね……ちょっと待ってね?」

 その人はあわてながらもなんとかそう言ってくれて、職員室中にひびく声で「くらよしせんせーっ」と呼びかけた。あまりにもな感じだったので、おどろかせすぎたかなあと、ちょっと反省したい気分になった。
 そう思っているうちに、返事が返ってくる。近くにいた女の先生よりもさらにひびく声。おれがそっちを見ると、倉吉先生と目が合った。

「……桜井か? お前それ、何があった? ちょっとこっち……来れるか?」

 来いと言いかけて言い直したみたいな口調で、呼びかけられて。おれはこくんとうなずいて、女の先生にぺこりと頭を下げてから、のたのたと歩いていった。
 倉吉先生がいすを用意してくれたので、ゆっくりとすわる。本当は立っているのもつらかったから、ありがたかった。



「……ごめんなさい。けんかしてきました」



 倉吉先生と向かい合って、おれはすぐにそう言った。それから頭を下げた。そのまま上げなかった。だから、言った時に倉吉先生がどういう顔をしたか、おれにはわからない。

「……悪いと思ったのか?」

「はい」

 おれはすぐさま答えた。けれど、倉吉先生の問いかける声からは、怒られそうな感じがちっともしなかった。おそるおそる顔を上げると、微笑んだ顔が見えて、おれはどきりとした。



「……なんで、怒らないんですか?」



「悪い事したと自覚して、お前がちゃんと謝りに来たからだ」



 あっさりと返された。悪い事は悪い、怒られると思って、それを覚悟しておれはここに来たのに。ひどく拍子抜けしたようになって、おれはぼんやりと先生を見ていた。

「……大方の予想はつくんだがな。先生は、どうしてもお前が……いや、お前だけが悪いとは思えねえんだよ。まして、こうして謝りに来られちゃあ、怒りようも無え」

 あくまでも先生の声はやさしかった。だからこそ、すなおには受け入れられなくて。

「……あまやかさないでください。けんかは悪いことじゃないですか」



「むしろお前が思いつめすぎだと思うけどな?」



 またあっさりと返された。しかも、予想してもいなかった言葉で。おれが、思いつめてる?

「お前は何がしたいんだ?」

 続けて言われた言葉に、おれはすぐには答えを返すことができなかった。何が聞きたいんですかと言いかけて口をふさいで、かわりにおれは先生の顔を見つめ返した。

「言えることだけ、言ってみろ。考えがまとまらないってんなら、後回しにするってんでも構わんから」

 そう言われても、すぐには言葉が出てこなかった。何か、反発したくて。でも、何もかも見すかされてる気がして、できなくて。



「……強くなりたい、って思って。でも、そのために、けんかして。天沼とか、なぐって。傷つけあって。……ぼく、は、こんなことがやりたかったのかな、って……」



「……なるほど」

 途切れ途切れに、ただ言葉が出るのにまかせて。おれは本当にそんなことを考えていたんだろうか、よくわからない。それなのに、せんせいはあっさりとうなずいた。

「……そう思うのは悪いことじゃないが、こんなことしたって、周りに心配かけるだけだろうに」

 ため息が聞こえた。それでもまだ先生の声はやさしくて。それは受け入れづらくて、でもはねのけてしまうこともできなくて。どうしたらいいか、わからなくなってきた。

「向上心があって結構なことだよ。けど、ここは学校だ。お前や、子供たちがちゃんとした強さを学んでいくための場所なんだよ。それに頼らないで、1人でどうこうしようなんて、しなくていいんだ」

 そこまで言ってから、先生はふくざつそうに笑う。その意味がわかんなくて、おれは首をかしげた。

「もっとも、そういう学校の意義も、最近は無視されつつあるがな。……個人批判になっちまうが、天沼のようなやつは学校としても困るんだ。そういうやつこそ、俺らは全力で正しい道に行かせてやらなきゃならないんだが、な」

 おれはおとなしく聞いていることしかできない。ただ、こくこくとうなずいているしかできない。先生の言葉が、染みているのだろうか。



「焦らないでいい。今から1人で頑張ることは、ないんだよ」



 そう言われて、ぽんぽんと頭をなでられて。そのとたん、目の中が熱くなって、目の前がぐにゃりとゆがんで――がまんできなくなって。
 もう何も考えられないまま、ただおれは泣き始めた。うつむいて、声をあげないで、鼻だけすすって、静かに泣いた。












 気がついた時、おれは保健室の白天井を見上げていた。ぼーっとしたまましばらく考えてから、自分の体がベッドの上にあることに気づいて。どうしてこんなところにいるんだろうと思いながら体を起こそうとして、体中に痛みを感じて。
 そうやって、おれはやっとベッドの上から目覚めた。のろのろと体を起こす、それだけでもけっこう痛いけど。だからなのか、目覚めたてなのにものすごく目の前がはっきりと映る。

 上半身だけ起こして、それからおれは首をうつむかせて、考えた。どうしてここにいるんだろうか。今までおれは寝てたんだろうか。覚えているのはどこまでだ。それから何がどうなった。



「……大丈夫?」



 よく知ってる声がかかった。ゆるゆるとふり向いたら、宮月先生の顔が真っ正面に来た。

「……だいじょうぶ、です」

 体は痛いけれど、頭の中はみょうに静かだった。自分の声を自分で聞いて、人形がしゃべってるみたいだと思った。
 宮月先生はいすを持ってきて、おれの前にすわって、のぞきこむようにしておれを見た。



「泣き疲れたあなたを、倉吉先生が運んできたのよ。怪我のほうは手当てしておいたけど……帰れるかしら? ひとりで大丈夫?」

「だいじょうぶです」



 おれはくりかえした。あいかわらず人形みたいな声で。なにがひとりでだいじょうぶなのかと聞かれてるのか、わからないけど。その一方で、ぼんやりと思う。おれ、泣いてたのかと。そう思って、ようやく目のまわりが腫れたように痛んでることに気づく。

 体中が痛くて、目も腫れて、頭がぼんやりとして――そこまでボロボロになって、今日、おれがやったことっていうのは、いったい何だったんだろう。



 強くなりたいと思った。だから、誰かの手を借りようとはしなかった。1人で全部やろうとした。けれど、これがその結果ってやつで。何か、変わっただろうか。何を手に入れて、何がなくなったんだろうか。
 考えても、何もわからなくて。というよりも、なんていうか、あまりにも静かな気がした。宮月先生の顔を見ても、何も感じない。体中に痛みがあるとわかってはいても、痛くて苦しいなんてことも感じない。



「……今、何時ですか」

 先生にたずねる。本当は、保健室には時計があったはずだけど、目で探すのもめんどうくさくて。ちらっと窓の外を見ると、もうほとんど赤色ばかりだった。

「……5時、過ぎね。そろそろ完全下校の放送でも流れるんじゃないかしら」

 返ってきた言葉に、おれはこくんとうなずいた。帰らなきゃと思って、のそのそとベッドから降りて、置いてあったランドセルをせおって。その時も肩と背中に痛みを感じたけれど、それがどうと思うこともなくて。



「帰ります。おじゃましました」

「……本当に、大丈夫なの? 無理しちゃ駄目よ?」

「だいじょうぶです。おれ、弱くないですから」



 最後もやっぱり人形みたいな声で会話をして。だいじょうぶだって言っても心配そうな目を向けてくる宮月先生を、ほとんど無視するようにして。
 のたのたと、おれは保健室を出て行った。












「桜井、くん?」



 どうにか校門まで来たところで、声をかけられた。その声がするまで、おれは校門に誰かがいるって気づけなかった。
 のろのろと顔を向けた。かけよってくる子が1人いた。顔は見えなかったけど、声のほうに聞き覚えがあった。

「……里柚、ちゃん? 帰って、なかったの?」

 びっくりするしかなかった。なんで里柚ちゃんが今ここにいるんだろう。もう学校は閉まりかけなのに。
 目をぱちぱちさせながら、おれは里柚ちゃんを見ていて。向かい合ってる中で、里柚ちゃんが笑顔になったのが見えた。



「いっしょに帰りたいなって、思ったもん。桜井くん、ひとりだから」



 その言葉をどう受け取ればいいのか、おれはとまどった。本当は、ひとりにしてほしいけど。放っておいてほしいけれど。里柚ちゃんはこんな時間まで、おれを待っていたんだろうか。それをいらないと言うのは、ひどいことだと思って。
 言葉に対して、うなずくことも首を横にふることもできないでいるうちに、そっと手をつながれた。あくまでもそっと、ボロボロになっているおれの体が痛まないような力で。

 それをふりはらうこともできなくて、その手にゆっくりと引かれて、おれはふらふらと歩き出した。その先を、里柚ちゃんが歩いていく。
 さっきまで考えていたのがうそみたいに、頭の中はぼんやりとしていて。さっきは声だけが人形だった。けれど今は体まで人形になったみたいに、おれは里柚ちゃんに手を引かれて、帰り道をのたのたと歩いていった。












 気がつくと、おれは公園のベンチにすわりこんでいた。体がぐったりともたれた状態で、赤を通りこして暗い青色になっている空をぼんやりと見上げている。公園に来るまで、ここまで歩いてくる間の記憶が、これっぽっちもなかった。
 今日はよく記憶が飛んでいってしまってる気がすると思いながら、真上の空から体の前に顔を向ける。真っ正面には誰もいないけど、右はし、おれのとなりに誰かがすわっているのが見えた。ふり向くと、いたのは里柚ちゃんで。

「……帰るんじゃ、なかったの?」

 そのつもりで待ってたんだと思ってたのに、どうしておれは今、こんなところにいるんだろう。明かりが頼りなくて、暗さが目立つこの公園に、2人きり。



「……ずっと、見てたの」



 おれが聞いてから、しばらく2人とも動かなくて。何十秒か、何分か時間が過ぎてから、彼女が口を開いた。

「……見てた?」

「うん……今日、桜井くんのこと、ずっと」

「…………なんで?」

 心底わからなくて、まぬけな声が出た。里柚ちゃんにはよけいにそう聞こえたのか、くすくすと笑い声が聞こえてきた。だけどおれはそれに怒る気もしなくて、ただ言葉の続きを待つだけだった。

「笑っちゃってごめんね? ……でも、桜井くん、また連れて行かれたでしょ? 何されるんだろうって、怖くて……見てたの」

 そう言われて、ふと思い出した。そういえば昨日いじめられた時に、先生を呼んできてくれたのが里柚ちゃんだったことを。



「……心配したの?」

 おれがそう返すと、里柚ちゃんはこくんとうなずいた。顔がちょっと元気をなくしている。



「心配、したけど。……それで、ずっと見てて。今日の桜井くん、こわかったかも」



 そう話す里柚ちゃんの声は、でもこわがってる風じゃなくて、かといって楽しそうでもなくて。なんていうか、なかなか心の中を読めないような、そんな声だった。

「こわかったの?」

「……ふだんの桜井くんじゃないみたいだったから」

「……ごめんね」

 言いながら、おれはゆるゆると腕をのばした。動かすだけでも痛いけど、そんなこと構っていられない。今はこわくしてないよと伝えたくて、おれは里柚ちゃんの髪をそっとなでた。その腕はふりはらわれることはなくて。だからおれはなでるのをやめなかったし、里柚ちゃんはそれをいやだと言わなかった。

「……こわかった、けど」

 里柚ちゃんが言葉を続けた。それを聞いて、おれはなでる手を下ろして、耳をすませた。



「けっきょく、桜井くんはひとりだったじゃない。こわかったけど、ひとりでがんばってたでしょう。……わたしは、本当に、見てただけだもん」



 その言葉は、おれのことをこわいと感じたのがいけないことをだったと思っているみたいだった。声のほうは相変わらず何を思ってるかわからない感じだけど。
 もうしわけないような、ありがたいような。ひょっとするとまきこまれるかもしれなかったのに、こわかったのに、それでもおれを心配して、見ていてくれて。



「……里柚ちゃん、おれ、うれしいよ?」



 本当に、本気でそう思って、おれは言った。言った後で、笑顔ができていることに気づく。ああ、おれは今、本当にうれしいんだな、とすごく実感する。

「……どう、して?」

 里柚ちゃんは目をぱちぱちとさせて、聞き返してくる。



「そこまでおれのこと考えてくれる人なんて、すごくめずらしいって思ってたから」



 いなかったわけじゃない。父ちゃんがいて、宮月先生がいて、倉吉先生がいて。今だと漂にーちゃんや観沙ねーちゃん、草那おねえちゃんもいて。でも、その人たちは教室の中にはいない。クラスメイトじゃない。
 里柚ちゃんとは、今までも仲はよかったほうだと思う。けれど、これから先は、おれは本当に里柚ちゃんのことを大事にするだろう。考えてくれる人がいることはうれしいから、おれも考えるだろう。それも、クラスメイトに対しては初めてだから、なおさら。



「……言いすぎ、だよ。わたしなんて」

「もうおそいよ。そういうこと言われたって聞かないもん。里柚ちゃん、おれの友達になって?」



 言葉としゃべり方にちょっと強引さを持たせてみる。けれどもそうやって、ストレートに伝えたい。そしておれは笑う。彼女に笑ってほしいから、自分が笑う。こまったように、つられたように、それでも彼女も笑う。



「……うん。桜井くんと、わたし。おともだち、ね?」



 小さな声で、でもほほえみながら、里柚ちゃんはそう返事してくれた。それがすごくうれしくて、おれはあまえるように里柚ちゃんによりそった。里柚ちゃんはそれを受け入れてくれるように、おれの体をやさしく支えてくれた。

 見上げた空は、もうすっかり暗くなっている。帰ったら怒られるかなあ。おれはともかく、里柚ちゃんは怒られそうな気がするけど、彼女は悪くない。彼女の親にはおれが何か言わなきゃいけない。それで怒られても、彼女のせいじゃないってわかってもらえれば、それで何もかまわない。少なくともそれで何もとまどわないくらい、おれは里柚ちゃんのことを大切に思ってる。



 今日のすべては、この時のために。
 そう思って、おれは今、ものすごくすっきりとした気分になりながら、夜空を見上げていた。













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