特に何か音がしたわけじゃない。けれど、いつのまにかおれは目を覚ましていた。
漂にーちゃんちでくらすようになってから、朝にきっちりと目が覚めるような体になっていた。
起きようとしてもぞっと体を動かそうとして、でも動けないことに気づく。誰かに抱きしめられている感じがして。そういえばすぐ横に体の感触がある。
草那おねえちゃんが、おれを抱きしめたまますうすうと眠っていた。寝息はしずかで、寝顔はきれいで。起きないで、このままながめていたくなるような。抱きつかれたまま、おれはおねえちゃんの体に、しがみつくようによりそった。
助けないかわりに、おれが何をやっても許す。昨日、このおねえちゃんはおれに向かってそう言った。どうしてかわからなかったけど、その言葉は何ていうか、すごくしみた。ただ、少なくとも。今まで、助けたいって言ってくる人は何人かいたけれど、草那おねえちゃんのように「許す」って言ってくれた人はいなかった。そして、何やっても許すからこそ、何でもいいから自分でなんとかしなさいと、この人は言ったのだ。
おれはもしかすると、今抱えてる問題を解決するために、そうとうひどいことをやるかもしれない。そうしなきゃ他にどうしようもないと思ったら、やるかもしれない。たとえそれでたくさんの人からきらわれても、おれは1人にはならない。この人が受け止めてくれるから。
思っているうちに、自分の体がぎゅっとされるのを感じた。おねえちゃんの体が近くなる。そろりと自分の顔を上げると、おねえちゃんのほほえんだ顔が見えた。目がうっすらと開いて、おれを見ていた。
「……おはよ」
「おはよ」
おたがいに小さな声で、朝のあいさつをした。たったそれだけなのに、おねえちゃんはくすくすと笑う。
「あー、もう。かわいいったら……」
そして、おかしそうにそんなことを言う。とりあえずほめられているんだと思って、
「……ありがと」
おれはぼそっとそう言った。ほっぺのあたりがちょっと熱かったりしたのは、たぶん気のせいだ。きっとそうだ。はずかしいなんて思っちゃいないんだ、と思い込もうとしても、次の言葉でだめだった。
「……ほんっと、かわいいんだから。いなくなるのだけは、あたし、許さないからね?」
たよりたくないって、おれは言い続けていた。でも、やっぱり誰かにそばにいてほしいらしい。特に今は、いてくれる人がいるからこそ、よけいに強くねがうのだ。
おれが体中が熱くなるのを感じながら、いっそう力を込めて草那おねえちゃんにしがみついた。
やがて観沙ねーちゃんに起こされて、おれと草那おねえちゃんは顔を洗って。おねえちゃんが自分の髪をゴムで後ろにまとめるのを見届けてから、リビングに顔を出した。
観沙ねーちゃんは台所で朝ご飯を作ってる最中だった。で、ソファのほうを見たら、テレビの方を見てるような見てないような、ぼーっとした感じの漂にーちゃんの後ろ姿があった。
後ろ姿でさえさえない感じだから、どんな顔をしているんだろうと気になって、おれは横に回って顔をのぞきこんでみた。
昨日は最後まで顔色が青いって感じだった。そして、今もそんな色をしていた。目もどこかぼんやりとしていて、横からおれがのぞいているのにも気がついていないみたいだった。
つらかったらたよっていい、無理すんな。その言葉を、漂にーちゃんはたくさんたくさんくり返した。それをおれがいやだって言ったら、どうしてこんな風になるんだろう。
まるでこの人は、自分が人を助けることにこそよろこびを感じる、みたいな。それでもって、ただ他の人が痛いのを見ただけで苦しい、みたいな――ふと思ったけど、そういう漂にーちゃんの思いの中に、おれという人間はいるんだろうか。たしかに漂にーちゃんが今こうなっているのは、おれがボロボロになったからで、それが苦しいからなんだろうけど。ただ、だから助けたくて手を差し伸べて――おれがそれをいらないって言うことを、考えてなかったんじゃないかって思う。
いらないって言って、それで漂にーちゃんがどんなに苦しくても、やっぱりおれはたよるわけにはいかなかった。人の手を借りていい問題じゃないから。おれはそう思うから。本当なら、漂にーちゃんがここまで心配するようなことじゃない。心配、してほしくない。
それでもって。本当なら、思ったことを漂にーちゃんに伝えるべきなのかもしれない。けれど、今言うことでもない気がする。終わってからでも、おそくないと思う。結局、おれは声をかけるのをやめて、観沙ねーちゃんが作る朝ご飯を待っていた。漂にーちゃんは最後までおれに気づかなかった。
実際に朝ご飯を食べている時も、おれと草那おねえちゃんと観沙ねーちゃんはてきとうに会話なんかをしてもりあがるのに、漂にーちゃんは一切しゃべらない。おれとか草那おねえちゃんとか、観沙ねーちゃんでさえもが、声をかけてもちらっと目を向けただけで、またすぐうつむくようになって。けっきょく一言もなく、漂にーちゃんはさっさと食べてさっさと席を立ってしまった。誰も、まだご飯食べ終わってなかったから、追いかけられなくて。
その後から学校に出かけるまでの間、おれは漂にーちゃんのことを姿さえ見ることなく、観沙ねーちゃんと草那おねえちゃんに見送られて家を出た。
今日の1時間目は、授業じゃなくて学級会になった。
問題にされているのは、天沼たちだった。最初にいきなり倉吉先生にあてられて、席を立たされている。
そいつらはみんな、気まずそうにうつむいている。倉吉先生からはきびしい目が向けられて、学級委員長も他のクラスメイトも里柚ちゃんも、いやらしいものを見るような目が向けられていて――
それなのに、おれだけはなんだかみょうに冷めていた。他のクラスメイトはいやらしいとかひどいとかきたないとか、そういう感じなのに、おれはなんだかちがっていた。天沼たちに対して、むかつくでもなく、けいべつするでもなく。ただ、天沼たちがぽつんとしている。
さびしそう。さびしいのがつらそう、仲間はずれがいやそう。たぶん、なんでおれがこんな目にあうんだとか考えてんじゃないかなー、なんてことをのんきに考えながら見ていた。
たぶん、今この教室にいる人間のなかで、天沼たちのことをいやらしいとかじゃなくてみじめだと思っているのは、おれくらいなんじゃないかと思う。もしかすると倉吉先生もかもしれないけど。これはこれでなんかやだなとまた思うけれど、みじめなものはどう見てもみじめだった。
自業自得って言うんだっけ、こういうの。悪いことをしたからひどい目にあう、そういうパターン。今の天沼を見ているとそんな言葉が浮かぶ。
けれど本人はたぶん、自分のせいだって気づかない。自分が悪いと思ってない。怒られて、まわりからもいやな目で見られて、それでも自分が悪かったと思うんじゃなくて、相手にかみつく。責任をなすりつけようとする。
最後に、そういう風の目はおれのほうに向いてきた。取りまき以外がみんな見ているので声は出なかったけど、顔は明らかにお前後で覚えてろと言っていた。
「よそ見すんな、ぼんやりするな! 天沼、話聞いてんのか!」
先生の声がびりびりっと教室の中にひびいた。天沼はびくっとして先生の方に体を向けた。その様子はますますみじめに見えた。
今の天沼からは、自分より弱いやつには強くて、強い人には弱い、そんな様子をものすごくわかりやすく感じ取ることができた。強い人にはただ何も言えないでびくびくするというあたりがみじめなだけじゃなく、自分より弱いやつをいじめて、自分は強いと思い込もうとする。本当に強くなろうとする努力をしないまま。
さっきの目からして、天沼はまたおれのところに来るだろう。だけどこっちも、いつまでもだまってやられているわけにはいかない。
動くのは、今日だ。
「くっそーあームカつくームカつくムカつくー!!」
目の前で天沼がわめきちらしている。昨日と同じように、何人かの取りまきを連れて。朝一番に教室中から悪者あつかいされたせいで、ぴりぴりしている。ていうかまあ、こいつはほんとに悪者なんだけど。本人は今になってもわかってない。
あいかわらず多勢に無勢ってやつで、おれは不利だった。けれど、今日は1人で抵抗してみるつもりだった。普段だったら先生を呼んでいたけれど、今日はしない。少なくとも今日は、誰にも頼らない。
「こっちのせりふだし」
「るっせえ、だまれお前!! 桜井のぶんざいで!!」
桜井のぶんざいってなんだそりゃ、とあきれてみる。何を言われても痛くもかゆくもないけれど、あきれることってあるんだなーと思う。桜井っておれだけじゃなくて全国にけっこういるんじゃないかと思うんだけど。
「だまってなんか、いられないよ」
先生ごめんなさい、とおれは心の中であやまった。あとでちゃんと言おう。おれがこれからやることは、やっぱりよくないことだと思うから。
相手には昨日もボコボコにされたばかりだっていうのに、自分からゆっくり歩いて近づいて。
自分の顔が今、自分でもおかしく感じるくらいににやにやしているのがわかる。で、天沼の顔はと言えば、どこの部分を見ても引きつっていて。ついでにおれがてくてく近づくと、思わずっていう感じで後ずさる。取りまきにおれを止めさせようともしない。
とうとう、天沼の後ろに壁が当たって。それでもおれは近づいて、ゆっくりと顔を近づけて。そしたら、天沼はぶるぶるとふるえだした。なんだか、昨日までおれをふくろだたきにしてげらげら笑っていたのと同じやつだとは、とても思えない。
「こわい?」
その姿に、わざとおれはそう声をかける。にこにこしながら。天沼は1回だけびくっとして、それまでおびえていたのを隠すように、はじけたように怒り出して。
「てめぇこら調子乗ってんじゃねえ!! やっちま」
言い終わらないうちに、おれは天沼の顔を右手でなぐりとばしていた。近づこうとしてた取りまきたちが、びくっとして足を止める。
「痛い?」
自分で思う以上に子どもっぽい声で、おれは聞いてみた。まるでほんとうに何も知らないような感じで。天沼はほっぺたを押さえて、びっくりしたようにおれを見ていた。
「ねえ、痛い?」
答えない天沼に、もう1回聞いてみる。その時、向こうの目の色にはまた怯えの色が見え始める。何か口をぱくぱくさせているけれど、声は出ていない。
「ねえ、その口ってなんのためにあるの? なんとか言えよ、なあ」
考える前に口が動いている。それくらい自然に、おれはそんな言葉を口に出した。どこかがおかしくなり始めているのかもしれない。ブレーキかける準備しなきゃ、やばいかもしれない。
「てめ、こら、調子乗んな!!」
取りまきのひとりに足をけられた。だけどけり方が悪いのか力が入ってなかったのか、あんまり痛くなかった。ただ、ズボンがちょっとよごれただけ。けったそいつに向かって、おれはにっこりと笑ってみせる。そしたらそいつもびくっとして後ずさる。
「バッカじゃない? なんでおれひとりにお前らおびえてんの? 今までよってたかっていやがらせしてくれたくせにさあ?」
こみあげてくる面白さをがまんしきれないような言葉だった。多勢に無勢、味方はここにひとりもいないのに、今この場で一番強いのはおれなんだと、おさえつけようとしてもどうしようもないくらい、そう感じてしまう。本当は、こんな意味の強さがほしかったわけじゃないけれど。ただ立場が逆転しただけで、今のおれは昨日までの天沼たちと同類なのかもしれない。
今だって、おれひとりが集団に囲まれてるけれど。みんなおびえてしまって、手を出してこない。今までいじめっ子だったやつらが、おれを見ておびえてる。それは、笑わずにはいられないことだった。
こんな状況で笑うなんて、どうかしていると思う。だけど、今まで痛めつけられる側の気持ちしか知らなくて。そんなおれが今、反対の痛めつける側の立場に立っている。なぜか、今の自分が向こうよりものすごく強いと感じて、笑っている。言いようのない楽しさをかかえて。
こんなもの、本当は表に出すべきじゃない。だけど今は、せめて今だけは、好きなように動くことにしよう。今までやられた分のお返しをするんだって理由をつけて。
「かかってこいよ、なあ。……こんなもんじゃ、足りないよ?」
間に小さな笑い声をもらしながら、全員に聞こえるように、声を張り上げておれは言った。
「……っ、てめー……ふざけんのもいいかげんにしやがれーっ!!」
キレた声をひびかせたのは、天沼だった。ほっぺたをはらしておれに突進してくる。
それを合図にしてか、取りまきもいっせいにおれに向かってきた。
それを見ても、おれは笑ったままだった。
1対5の大乱闘が、始まった。