「雨だねぇ」
「雨だなー」
 六月二日、今日は雨。さああ、という音になんだか心が落ち着かされるような気分になる日。勢いが強すぎず弱すぎず、ちょうどいいとでも言うのだろうか。
 宮月が窓の外を眺めてぼんやりと呟いたのに、白共が乗っかるように続く。雨の音が心地いいせいか、今日はギターの音もおとなしめに響いていた。もっとも弾いているのは僕じゃなくて白共と相川の二人だけど。
 壁一枚を隔てた先にある第一音楽室からは、元気よく吹奏楽が聞こえてくる。とはいえ音楽室という性質上、第一も第二も防音をしっかりさせてあるので、聞こえはするものの外からの雨の音を掻き消すほどにはならない。ちなみに今日、湖島と斉藤の二人はその吹奏楽のほうにいるので、こっちが静かな感じがするのは単純に人数的な問題もあるだろう――吹奏楽部は数えるのが面倒なくらいたくさん人がいるけど、こっちは僕と宮月を入れても四人しかいない。六月に入ったということはもう文化祭が近いという実感がはっきりしてきそうなものなのに、それどころか薄ぼんやりというかまったりというか、今日の部室はそんな雰囲気だった。
「あー、なんかやる気出ねぇなー。雨のせいかなー」
「それって、気持ち緩みすぎて、ってこと?」
「んー、そんな感じかな。落ち着きすぎちまったっていうのかなー」
 溜息をつく白共に思わず苦笑してしまう。やる気がないのはよくないが、気持ちはわかるのだ。なんというか、今日という日は静けさを大切にしたくなるような、何もしないでいたくなるような。
「悠長なこと言ってんなよ。もうあと二週間ちょっとなんだからな」
「それ言うなよーん……今言われても焦んじゃんかよー」
 ぐったり気味の白共とは対照的に、相川だけがこの中で唯一普段どおりに黙々とギターを弾いていた――とは言っても気のせいかそうでないのか、そこからの音も今日は落ち着いているように聞こえるけれど。
「だいたい、雨降ってやる気出ねぇって困るんだよ。梅雨入ったばっかじゃねぇか」
「わーかってんよーったくー。説教は勘弁ー」
「……梅雨、かぁ」
 部員二人の言い合いに、宮月の小さな呟きが割り込んだ。窓の外を見て、何かを思い出して懐かしむような横顔――どうしたのと訊くつもりが、喉に引っかかって出てこなかった。その横顔が映った瞬間、ひどく美しいものを見たようにどきりとしてしまったのだ。
 それまで響いていた言い合いの声もギターの音も止まってしまい、部屋は沈黙に包まれた。聞こえてくるのは隣からの吹奏楽と外でさあさあと降る雨の音だけ。
「……、どしたの? みんな、どうかした?」
 その沈黙が一番気になったのは、作り出した当人らしい。どうしてそうなるのかわからないといった風で、宮月はこっちを振り向いて首を傾げてみせた。
「……い、やー。なんでもねー、よー」
 なんとかそう答えたのは白共だったが、なんだか声が泳いでいる。よく見ると目も泳いでいる。身体も泳いで――さすがにそこまではいかないけれど、わりとわかりやすく動揺しているみたいだった。
「……てか、お前こそどうしたんだ。梅雨ってーと、何かあったのか」
 これ以上突っ込まれる前にとばかり、相川がそう訊ねた。こっちは見た目にはそれほど動揺してるようには見えないが、さっき沈黙があったということはコイツもしっかり呑まれていたはずだ――たぶん。一人だけ何でもないというのはなんとなく悔しいので、そう思うことにしておく。
「んっと。漂くんとあたしが知り合ったのって、この時期だったなって、思い出しちゃって。先週、ちょうどその一年前の話の登場人物さんと一悶着あったわけだし、ね」
 そう語り、彼女は微笑みを浮かべた――今度は一瞬だけだったが、また沈黙。なんでこういちいち僕らは見とれてしまうのだろう。その後続いたのは、あー、という僕の同意のような納得のような返事。
 そういえば、第一印象の時点でもう、きれいなひとだ、と思った記憶がある。黙っていれば清らかな印象のある美人――彼女には普通にそういう言葉が当てはまるだろう。
 ただし中身ははっきり言ってかなり汚れている。誰とでも抵抗なく、むしろ好きこのんで身体を重ねてしまえる性格の持ち主。それを知ってしまったせいで今となっては彼女の見た目の綺麗さが何かの猛毒のように思えてしまうことがある。猛毒というか、誘惑というか、恥ずかしい言葉だけど欲情してしまうというか――そこまで思ってしまってるのは僕だけだろうか、あるいは啓太もそうかもしれない。付き合いが長いということは、その期間ぶんだけ猛毒に当てられて我慢し続けているということだ。
 ――猛毒だの誘惑だの何考えてんだと唐突に思って、僕は思わずがくりと俯いて大きく溜息をついてしまった。そのせいで、どうしたんだと言わんばかりの視線を一斉に向けられて、ちょっとだけ自分の行動を後悔した。
「なんだいどーした、気分悪そうじゃねーか?」
「……やー。思い出し方が、ちょっと、悪かった」
「え、ちょっと、何ソレどーゆーことよ漂くん」
「……宮月、お前、コイツに何したんだ」
「……えーと、その時は別に変なこと何もしてませんから、ええ。だから相川くん、そんな睨まないでお願いだから」
 いやに鋭い相川の視線に、宮月は明らかにたじろいでいた。本当に僕は何も変なことされなかったっけかと疑ってしまうような態度――記憶の上では一応何もないはずなんだけど、自信がなくなってきた。
 そこへ、追い討ち。
「その時はってなんだコラ引っかかる言い方しやがって。それ以外では何かやらかした覚えあんのかよ」
 お前基本的には襲うほうだよな、と宮月に向かって睨み顔のまま言ってのけた相川を――僕と宮月は揃って張り倒した。頭のてっぺんを、平手で。
「ッてェっ!?」
「いい加減にしなさいよいくらなんでもそこまでひどくないわよもー!!」
「ってか真顔で変な方向に話持ってくんじゃねーよッ!!」
 宮月、続いて僕。怒鳴ったあとはどっちも肩が上下していた。僕は全身が熱くなっていて(最近多いような)、そしてさすがの宮月も顔が赤くなっていた。
「……つーか、お前ら落ち着け、あんま声デカイと向こうに聞こえんぞー……しかもこんなヤバイ話題でよー」
 苦笑交じりで白共が仲裁に入ってきた。が、その仲裁の言葉もそこで止まっていればよかったものを――
「あー、思い出話っつうからもうちょっとしみじみしたの期待してたんだがなー。ピンクい曲弾きたくなっちまったわ」
「弾かないでいいっ……!!」
 なんだかもう出てる声が必死そのものだった。身体の中からの火照りは増して、また倒れそうな気がしてきてしまう。
「……あたしももっとしみじみした感じで話したかったんだけどー。漂くんが変な反応するからだわー」
「ちょ、僕のせい!?」
「うん、まあきっかけはそうだろうなー。とりあえず、落ち着け咲良。ほれ深呼吸、はい、いちにーさーん」

 すーはーすーはーぜーはーぜー、っ、げふごふごほっっ。

「いや、おいおいおいおい……それじゃ深呼吸じゃなくて過呼吸になるぞー?」
「……一旦パニックになると泥沼にはまるタイプか?」
「そうみたいねー。ちょっとこれは今までの付き合いじゃ知らなかったわー」
 ちくしょう言いたい放題言いやがって――思いながら僕は床に転げて激しく咳き込んでいた。あまりの惨めさ加減も手伝って、涙目で視界が歪んでいた。
 思い出話に浸るはずがなんでこうなるんだ――頭の中はそんな思いで一杯だった。