例えば今、あなたは電車の中にいるとしよう。
 そしてその電車の中はそこそこに人が入っているとしよう。
 座席はぎっしりと埋まっていて、割り込む余地などはない。
 そして電車の中は通行するのもままならないほどに、人が立っているものとしよう。





 あなたはその電車の中で、扉のガラス窓と向き合った形で立っている。





 その電車がトンネルに入った。トンネルの中は真っ暗だ。
 すると、ガラス窓は鏡のように、電車の中の人々を映す。もちろん、あなたの姿もそこに映っている。

























 ここであなたは、変な感覚を認めたことはないだろうか?

























 私には、ある。
 その感覚は変だと私は言っている。なぜそう述べるかというと、それはあまり気分の良いものではないからだ。

























 ガラス窓の中に映る人々は、皆、思いおもいの方向を向いている。
 その人々は、まるで何もかも素知らぬ風にすら見える。












 しかしその中で、ガラス窓に映っている私だけは、片時も目を離すことなく、私自身を見つめているのだ。
 片時も目を離さない。じっと私を見つめ続けている。その視線から逃れることはできない。常に監視されているかのよう。

















































 もっとも、当たり前のことではあるのだが。
 説明の前に、ここから先、ガラス窓=鏡、と置き換えさせていただく。





 あなたは、ものを見るのに目という器官を使う。
 すなわち、目に映ったものしかあなたには見えないし、目に映らなかったものは見ることができない。


 一方、鏡は『もの』の1つである。光を反射し、目の前の光景を映す性質を持つものである。
 鏡も『もの』であるから、あなたが鏡を見ようと思えば、鏡を目に映さなければならない。


 真正面から鏡を見たならば、鏡はその視線すらも反射するだろう。


 そして、反射され、戻ってくる先は、あなたの目なのだ。





 こうして、鏡の前のあなたと鏡の中のあなたは、目が合う。
 あなた自身の目から見て、鏡の前のあなたと鏡の中のあなた、2人のあなたの目が合わないことなど、ないのだ。












 と、こんな風に、理屈で説明してしまえることではある。
 私の説明を、あなたが理解できるかどうかはわからないが。
 私には元来、説明下手なところがあるゆえ、ご容赦願いたい。












 しかし、頭の中にそういう理屈があるにもかかわらず、私は、鏡の向こうの私が常に向けてくる視線を見て、怖くなることがある。
 あの視線はずっと私を見つめている。目をそらすことなど一切なく。
 そして、視線を浴びつづけていると、だんだん自分の思索が理屈から離れていくのがわかる。
 混沌、迷走、そんな状態にも近いかもしれない。















 たとえ私が鏡から目をそらしても、あの視線はそれでもなお私を見つめつづけているのではないか。
 そんな錯覚すら覚えるほど――理屈からすれば本当に錯覚なのだが――あの視線は真っ直ぐに私を見つめ返してくる。





























 実際に目をそらしてみると、実は鏡を見ていたとき以上に、ろくでもない思索に捉われる。









 今の自分と鏡の向こうの自分は、違うことをしているのではないか。





 今の自分の姿ですら、鏡の向こうの自分は見つめ続けているのではないか。





 そして、今の自分を見て――鏡の向こうの自分は嘲笑を浮かべていたりしないか。









 ろくでもない思索。鏡の向こうの自分への、劣等感。なぜか、そんなものが沸き起こってくる。






























 劣等感。それはネガティブなものだ。
 そしてそれは、他のネガティブな感情を呼び寄せる効果でもあるのだろうか。












 次に感じたのは、恐怖。
 鏡の向こうの自分に対する、恐怖。












 鏡の向こうの自分は、常に私を見つめ続けている。
 途切れることの無い監視。





 このまま向かい合っていると、いきなり鏡の向こうから手が伸びてきて、私を鏡の向こうの世界に引きずり込もうとするのではないか。
 鏡の向こうの私は、今ここにいる私と向き合うたびにいつも、そのチャンスをじっとうかがっているのではないか。












 それは、消すことのできない恐怖。
 1度感じてしまったからには、生きている限りずっと続く恐怖。
 少なくとも私には、一生かかっても拭うことができそうにない恐怖。




















































 本当なら理屈で片付けられるような、くだらないことではある。




















 しかし、その嫌な感覚は、完全に消し去ることはできないものだ。




















 だから明日以降も、その感覚を認めてしまうことはあるだろう。










 それと向き合いながら、私はこれからも日々を過ごすのだ。
































 消えることのない、気持ち悪い感覚を持ちながら、私は今後も日々を過ごすのだ。


























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