「安部君、安部君!」

 ある日、適当にパソコンをカチャカチャやっているとき、課長から声がかかった。
 いつものアレかなー、と思った。

「はい、何でしょうか?」

 言いながら僕は席を立ち、課長のデスクの前に立った。



「君、この前提出してもらった書類、誤字脱字が多すぎるぞ。すぐに修正するように。まったく、いつまでも新人気分じゃ困るんだよ。もう少しきりっとしてもらわねば」

 ああ、やっぱりいつもの説教だった。僕はその『誤字脱字の多い書類』を突っ返されながら、

「はあ、すいません」

 だらしなくそう言った。課長は憮然とした顔つきながらも、僕を解放してくれた。
 そして、僕はまた仕事に戻る。

 ああ、こういうのの修正に加えて、新しい仕事も結構溜まってるんだけどなー。
 課長に見えないように、僕はひっそりとため息をつく。













 ちなみにもうわかってると思うけど、さっきのやりとりで阿部ってのは僕のことで。
 ごく普通に小学生をやり中学生をやり高校生をやり、そしてごく普通の成績で標準レベルの大学に入った。
 そこでごくごく普通にその大学を卒業し、不況もなんのその、ごく普通に企業就職を果たした23歳だ。


 けれど、就職して普通に働けているかと言えば、全然そうでもない。
 さっきみたいに、課長からは些細なミスが原因で注意を受けることというのが多い。


 多分、僕という人間は、企業とか何とか、そういう『法人』の目から見れば、駄目な人間なんだろうと思う。
 本来、企業は最低限、与えた仕事に関してミスのない人間というのを求めるだろう。重大だろうと些細だろうと、ミスのある人間は嫌われる。


 もっとも、それは採用して働かせてみないとわからないのだけれど。
 だから企業はおそらく、採用する際はやはり学歴とかそういうものに注目するだろう。そして学歴がよければ優秀だと思って採用する。
 学歴社会は崩れつつあると言っても、まだ完全に無くなったわけでもないのだ。僕の就職したところはとりあえずまだ学歴重視だった。


 ところで、僕が採用されたのは、たまたまその学歴が『優秀』であったからにすぎない。
 あとは当時妙に緊張していたせいか、面接での態度がよかったからというのもあるだろう。
 学歴が悪かったために弾かれた同級生も多かった中、僕は無事に生き残り、採用された。


 こうして、僕は企業に優秀な人材だと『勘違い』されたのだった。
 確かに僕は学歴は良いみたいだけれども、何かの作業をこなすのは結構、苦手だった。
 学生時代、バイトが長続きしたこともないし。全部、向こうからクビにされた。
 企業に履歴書を持っていく際、そういうことはマイナスになるからと、親はバイトの事は書くなと言ってきた。そして僕は書かなかった。
 だから企業は、僕が作業下手な人間であるということを見抜けなかったのだ。


 そんないきさつを持って企業に入社して1年。
 僕は何か些細なミスをやらかしては課長に注意されるという日々が続いている。
 とは言っても毎日注意されるとかそういうほどのものでもないため、僕の作業下手っぷりは企業にはまだ薄ぼんやりとしか見えていないだろうと思うのだけれど。
 とりあえず、まあ、こうやって仕事をしながらぼんやりとしていられる日々も残り少ないなと、僕はうっすらと考えていた。





























 5時になった。定時だ。今日は残業はない。
 僕はデスクの上を適当に片付けて席を立って自分の部署を出てから、同僚を待った。
 数秒して出てきた同僚に、声をかけた。

「なあなあ、今日暇だったら、飲み行こっぜー」

 いつもの誘い文句。

「えー、おととい行ったばっかじゃん。また行くのか?」
「いーじゃんいーじゃん。何度言ったって楽しいもん」
「とか言って。ホントはお前、女の子口説きが目的なんじゃねーの?」
「あ、やっぱバレバレ?」

「確か、麻莉ちゃんだったっけ? お前、今目ェつけてんの。今日は無理だぞ、残業だって言ってたから」
「えー、マジで? あー、じゃ今日はいーわやっぱし」
「なんだよそれ。お前から誘っといてさ。それに、俺もだけど、他に暇なやつだっていんじゃんさ」
「いーの。麻莉ちゃんいないのに飲み行っても楽しくない楽しくない」
「悪かったな、俺相手だとむさ苦しくってよ」
「えー、んなこと言ってねってばよー」
「ははは、冗談。じゃあ、お前もう帰んのか?」
「そーするわ。なんかもう今日疲れてやる気無ェって感じー」
「さっきまで飲み行く気満々だったやつが何言ってんだって」
「気にすんな。んじゃ、お疲れー」
「お疲れー」

 疲れてやる気がなくなったのは事実だ。麻莉ちゃんが来るなら元気も出たが、来ない場合は逆にどっと疲れてやる気も失せる。
 僕という人間はそういう風に現金な構造をしている。

 まあ、いいんだけど。麻莉ちゃんって、誘っても来ないことの方が多いし。
 今回は残業だって言ったけど、そうでなくても向こうは断るときがある。別に無理に誘うつもりもないけれど、なんとなく凹んでみたりする。
 喋れないのが何より残念。仕事のミスを指摘されるより残念だったりする。



 こんな僕は学生気分が抜けず、まだまだ遊んでいたいと思う心があってたるんでるように見える、と世間は言う。



 まあ、それでもいいんじゃないか、と当の僕は思う。
 たしかに僕は実は駄目人間ですって思うけど。気にしてたらきりがない。
 気にしてたら、今頃僕は胃潰瘍か何かで倒れてたりしてピーポーピーポー言う救急車の中かもしれないし。





 外では雨がしとしとと降っていた。 雲の色はわりと白い。
 ざあざあ降りの時は結構灰色入ってるけど。そういうのは激しくて冷たい雨というんだろうか。
 そして今のこれはそれとは対称で、優しい雨というんだろうか。暖かくはないけれど。
 ――そもそも雨降り空の対称は晴れ空じゃないかとすぐに思って、僕は馬鹿っぽく微笑んだ。
 思いながら、僕は折り畳み傘を差して、雨の下を歩き出した。





























 家に着く。会社出たのが早いから家に着いたのも早かった。
 靴を散らかして家の中に入り、壁時計を見たならば7時。
 適当にテレビをつけると、野球のナイターが映った。阪神対巨人、2回裏、巨人の攻撃。
 どっちのファンでもないけれど、そういえば今年は阪神のスタートダッシュがすごかったなということをぼんやり思い出し、阪神を応援したくなった。
 得点表示は『阪神0−2巨人』となっていたけれど。
 まあまだ始まったばかりだ。どう転ぶやらわからない。ここのところ巨人が勝ち続けているとは言っても、今日もそうとは限らない。

 帰ってきたばかりでちょっと晩ご飯を作って食べようという気にはなれず。
 かわりに1杯だけココアを飲もう、ナイターを見ながらそう思った。どうせインスタントだから、手間はかからない。
 でもそんなココアにマシュマロを1個放り込んで飲むのが、僕は好きだ。
 実はそういうココアを飲んでいるときが、麻莉ちゃんと話している時をしのいで一番楽しい時間かもしれないと思っていたりする。
 それを感じられれば、自分は駄目人間なんだということもさして気にはならない。



 日々に少しでも楽しいことがあるなら、その他の事なんて気にしなくてもいいや、なんて思う。



 思いながら、今日もまた1日が終わってゆくんだなー、とぼんやり思った。













 駄目な僕を気にしない。日々単調も気にしない。





 ささやかなものでも、幸せがあるから気にしない。





 その日暮らしであっても、楽しく生きれればそれでいいんだろうと僕は思うから。





 だから僕は喜んでとまではいかないけれど、繰り返そう、この日々を。








 ※企画『サンタの眉毛』参加作品

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