はじめに
「はじめに この授業に生き延びがかかっていたもの」
高桑・慶應義塾大学教養研究センター編『生き延びること 生命の教養学V』(慶應義塾大学出版会, 2009年12月, pp. 1–14.
1. 難しい生命
教養研究センターが運営する極東証券寄付講座「生命の教養学」は2003年度に公開講座として開講され, 翌2004年度からは授業科目になっている. この科目は,「生命」という包括的テーマをめぐって一般教養的発想からアプローチを試み, 履修する学生たちに考えるヒントの数々を提供しようとするものであると私は認識している. 一般教養的とはつまり, 特定の学問分野にあらかじめ義理立てすることなく思考の材料を広く求め, とはいえ各分野の厳密さによって得られた成果には充分な敬意を払い, そのようにして獲得された雑多な材料のすべてをもとに新たな知の組織を自分なりに工夫する, ということである. したがって, この講義は毎年度, おのずと博物誌的な様相を呈している. それは半ばは意図された傾向でもある. 多様な分野のすぐれた講師のかたたちへの出講依頼は, 企画を担当する委員 (3, 4名程度) の専門分野をあらかじめ違 [たが] えることによって可能になっている.
とはいえ,「生命」というこの包括的テーマはそれ自体としてはあまりに一般的な, 茫漠としたものでもあって, 結局のところ, どのような分野の専門家であっても授業を引き受けることができてしまう (生命に関わりをもたない学問分野は存在しないだろう). それはたしかに利点でもあるが, まさにその性格ゆえに, この連続講義は明確な輪郭を欠いた, 総花的な, 玉虫色のものになってしまうおそれもつねにはらんでいる. それにじつのところ, 生命というのはとりわけ, 耳あたりのよい駄弁—真摯な研究とは無縁の, 無根拠かつ無責任な託宣—を吐くのに恰好のテーマでもある. それだけに, このようなタイトルの授業を企画・運営するにはなおのこと注意が必要である.
毎年度, 委員たちがサブ・テーマ (その年度のサブタイトル) を設定するにあたってディレンマに苦しめられてきたのはそのためである. そのテーマは, 生命なるものを一般教養的視座から見はるかすことを阻むような狭量に過ぎるものであってもならないだろうし, かといってまとまりのない連続講義の寄せ集めを生んでしまうような漠然としたものであってもならない. そしてもちろん, 前年度までに扱われたテーマは (少なくともそのままでは) 使えない.「科学・感性・歴史」「ぼくらはみんな進化する?」「生命と自己」「生命を見る・観る・診る」「誕生と死」—すでに講義録として形をなしているこれまでの各年度のテーマがいずれも熟慮の結果であることは明白であって, この過去の重みが, 2008年度のテーマをひねり出す任を負った私たちをさらに責め苛 [さいな] んだ.
「誕生と死」. さらにその先は? それなら「生き延び」だ!という安直かつ軽薄な思いつきが私になかったわけではない. とはいえこれはもちろん, 重荷に堪えきれなくなった者の投げやりな解決まがいではない. いや, 仮にそうだとしても, そもそも思いつきというものはたいてい, 無意識にであれ, それまでの長時間の熟慮や気がかりを多かれ少なかれ反映しているものである.
委員が重ねた話しあいのなかで, 最終的に, 私の思いついたこのテーマが幸運にも2008年度の授業のために選ばれ, それ以降このテーマは私個人の手を離れ, 小さなチームの共同作業のなかで具体的な企画として形になっていった. それは極東証券寄付講座運営委員会委員長 (当時) の武藤浩史さんを中心とするチームであり,「コーディネーター」と呼ばれる実働部隊は吉田泰将さん, 鈴木忠さん, 高桑和巳の3名で構成された (武藤さん, 吉田さん, 鈴木さんはそれぞれ実際の講義も担当された. 高桑は実際の授業では, 最終回の総括で司会を務めただけである). 連続講義の実際は当然, 講義録の本体 (この「はじめに」より後の部分) と一致しているので, さらなる言い換えを必要としない.
だが, この「生き延び」というテーマが思いつきへと浮上するにあたって, その出発点となったのがどのような私個人の気がかりだったとおぼしいかについて, ここでわずかなりと説明しておくことも無益ではないかもしれない. この連続講義の全体がつまるところ, 私個人があらかじめ期待し希望していた理想的回答の連続によって構成されたわけではないにしてもである. 当然のことだが, これは私自身が受講したくて勝手に企画した授業, 私だけのための王様の授業のようなものではありえない. とはいえ, 結局は消え去る—とまでは言わずとも, 少なくとも相当に薄まり, 意識されることもない地の色となり, 他の色彩によってさまざまに浸蝕され塗りこめられる—ことになった原初の色彩を, なるほどそれ自体はまったく美しい色ではないにせよ, ともかく再現しておくことにも, 何ほどかの意味があるかもしれない.
(じつのところ, 私たちは何よりも自分たちが拝聴してみたいかたにこそ出講を依頼したが, それは企画の私物化を意味するわけではない. 私たちはむしろ, 自分たちの興味・関心を優先させるそのような企画の立てかたがじつは何よりも受講者にとって最良の講師陣を提供する役に立つと確信していた. また, 私自身は幸いにもすべての授業を拝聴することができ, そのつど期待をはるかに超える啓発を受けたが, それは私自身, 企画テーマを思いついたときにはおよそ考えもしていなかったアイディアが各授業にふんだんに含まれていたからである. つまり, 私のあらかじめの期待や希望など, このテーマのもつ潜在的な拡がり—その一端が各授業で示されたわけだが—に比べればものの数ではなかった. それにもちろん, 吉田さんと鈴木さんの頭にあった「生き延び」—講師のかたがたのお考えになったそれは言うにおよばず—からしてすでに, 私のイメージしていたそれとは幸いにも非常に異なっていた. これらすべてから生まれることになった複合的なヴィジョンを私はきわめて得がたいものと感じているし, だからこそ私は, そのヴィジョンの反映であるこの講義録がきちんと刊行されることに人一倍こだわってもいる. が, それでもなお, もしかするとだからこそなおさら, それらのアイディアすべてを—能力をはるかに超えて—受け容れる媒質となりえた最初の素朴な気がかりがどのようなものだったのかについて, 最低限のことは記録しておいてもよいのかもしれない.)
2. 生命教への抵抗
私の漠然とした気がかりを要約すれば, 次のようになるかもしれない. 大学においてはすべての既存の価値が研究を通じて再検討に付されうるはずなのに,「生命の教養学」というタイトルの授業においては,「生命」という言葉のもつ有無を言わさぬイメージ, 不可触の肯定的イメージが疑われぬまま称揚されるにとどまってしまうのではないか? 早い話が, 見かけはさまざまな学問の意匠に飾られ覆われているとしても, 全体としてはつまるところ生命の尊さとやらを謳 [うた] う授業—生命教とでもいうべき近現代の一宗教形態の宣伝に荷担する授業—が組織されてしまうのではないか? じつのところ, 過去の講義録を参照すれば, 少なからぬ講師のかたが—正直に言っておけば, もちろんすべてのかたではないが—同じ懸念を共有し, その懸念から出発して, あるいはその懸念をテーマに議論を展開していることに気づかされる.「生命の教養学」が反駁を許さない生命教の教義によって一色に染めあげられてしまうかもしれないという私の懸念が杞憂にすぎないことはすぐに判明する. 今日, 生命について率直に語るなら, この懸念を経由しないでいるほうがむしろ難しいのかもしれない. とはいえ, だからといって, 生命教への警戒を自明のこととして各講師のかたに無言で託し, 自分たちはテーマを定めるにあたってこの安易さに対して無防備なままでいることを許される, ということにはもちろんならない.
そもそも, ある意味で近現代の科学はそれ自体が, 自然科学にせよ人文科学にせよ社会科学にせよ, 何ものかを自らの研究にとっての対象とするにあたって, 自らの対象選択自体によってその何ものかのいわば生命が停止してしまう可能性を受け容れることを条件にする, という性格をもっているようだ. 実際に生命を停止させることがないにしても, あるいはそのような生命の停止を可能なかぎり避けようとするにしても, その何ものかを実験にかけ, 経過を観察し, 仮説を論証へと導くにあたって, その何ものかの生命を奪ってしまう可能性をあらかじめ少なくとも考慮に入れているのでなければ, その何ものかを本当の意味で対象化したとは言えない. 科学的客観化とは自分の介入によって対象の生命が失われるおそれがあろうともそれを見殺しにする覚悟のことだ, とも言えそうである.
とはいえ, 科学としての厳密さが損なわれないかぎりは, 生命は手つかずであるにこしたことはないようだ. というわけで, とくに狭義の生命自体に関しては, 科学は自らの歴史を遡行し, 目を瞠 [みは] り驚愕する段階—さながら古代ギリシアの観照 [テオーリア] の段階—にとどまることを意識的に選択するかのようである.
そのことは, 生命をもつ個別のものへの実際の介入 (生物学的, 社会学的, 倫理学的など, ありとあらゆる介入) が激化し続けているという現状と, まったく矛盾するものではない. 個別の生命体—生物学的な生命体にかぎらず, さまざまな隠喩において生命体と譬えられるあらゆるものをも含む—の数々は, いや増す脅威にさらされている. だが, それぞれの生命体が抱え, 運び, 持続させているとされる当の生命自体とでも呼ぶべきもののほうはというと, 崇敬の対象として自明視され, 驚異の対象として不問に付されてしまう. さらに言えば, 個別の生命体への介入が限界を失ったものとなっているのは, じつは逆に, 崇敬の対象としての生命自体の名において—つまりはその生命自体なるものを手つかずのものとして救いあげておくため—であると思える.
科学自体がこのような未解決の矛盾をはらんで展開されている可能性がある以上, 私たちの「生命の学」—幸いにも「教養」の楔 [くさび] を真ん中に打ちこまれている—のためにはなおのこと, その矛盾のありのままの姿があらわになるような仕掛けを考案してやらなければならない. 単に生命の尊さを謳うことに対する批判的視座を確保するのみならず, 生命の尊さを自明視したことでかえって力を得て爆走することになった諸科学に対する反省的視座をも設定することが可能になるような仕掛けを考えてやらなければならない. なるほど, 講師のかたにこの視座を強制することなどできないし, そのような強制はそもそも無意味だが—講師のかたにはこれまで, ご自分のなさっていることから出発して, 何の思想的強制もなく, 完全に自由に授業をしていただいているし, その原則は, この連続講義のスタイルが踏襲されるかぎり, 今後も厳格に守られるべきであろう—, ともかくもこのような視座を充分に受け容れるテーマ, このような視座から出発した議論を展開しやすいテーマを考え出す必要があった. しかし, このような課題を一単語ないし数単語で提示するというのはもちろん, かなりの難問である.
生命をめぐる基本的な現象や隠喩で, 生命それ自体を問いただしたり, 生命への一元的崇敬の障害になったりしてくれるものがあるとすれば, その最たるものは何だろうか? 私が最初に考えたのは「死」のことだった. 死は, 単に「生きていない」状態を指すわけではなく (たとえば石や机について, 何の補足説明もなしに「死んでいる」と表現することは困難である), 生きていたもの, 生きているべきものが (もはや) そうではないという状態を指す. ということは, 生/死は単に互いに対置される二項なのではなく, これらはともに生の領分にあるということである.
だとすると, 死は結局のところ, 生の二次的な付帯物にすぎないということになるのだろうか? 個別の生命体が持続させていた生命を失うと, その後に無限の死の時間がおとずれる. 過去の人物は過去に一度だけ死んだにすぎないが, 今にいたるまでつねに死んだ状態である (死体や遺骨が現存するかどうかには関わりなく). かつて生きていたがゆえにのみ存在する状態である以上, この死はなるほど, 単に生の付帯物ではある. だが, 死とはまた, 当然のことながら生を蝕 [むしば] む側のものでもある. 生とは死の強迫観念のもとで営まれるわずかな猶予期間にすぎない, とまでは言わずとも—そのような強弁は, 生命のもつ圧倒的な力を死のうえに重ねあわせて単に両者を逆転してみせたものでしかない—, 死の力 (というより, 正確には無力) が生命の力をいともたやすく無化するものだということは周知の事実である. それゆえ, 死のおそれは生前からあり, 生きているものは死をおのずと忌避する. というより, その忌避の力こそが生命の力である (その力は, そこから転じて生命教が組織されるにあたって主要な動力源として流用されることにもなる).
ともあれ, 死は生の領分のただなかにありながら, あらかじめ生を脅 [おびや] かし続けてもいる. そうなると, 死は生の単なる付帯物ではなく, 生命というものをあらかじめ二重化する原理—より正確に言えば, 二重化された原理のなかではじめて生命なるものを実体として成立させる負の原理—だということになる. 生があって死がある, のではなく, むしろ, 生/死という二重の原理が生命の力をあらかじめ措定している, ということになる.
死をテーマとすれば, 生命の原理をこのようにあらかじめ二重化することが可能になる. そうすれば端的な生命教は避けられ (死のテーマを前にするとかえって生への拘泥を深めてしまう人たちもいる, ということを考慮に入れる必要はあるにしても), より正確な留保をともなった議論が展開できるようになるだろう.
3. さまざまな生き延び
だが, このテーマは残念ながら採用できなかった. それはただ, この単語が前年度のテーマ「誕生と死」の後半部分としてすでに採用されてしまっていたからに他ならない.
死というテーマを放棄せざるをえなかった私は, 生命を二重化するこのようなテーマが他にないか, あるいは死のような契機があらかじめ折りこまれているテーマが他にないか, さらに考えをめぐらすことになった. ほどなく思いついたのが, つまりは「生き延び」である.
「生き延び」というのは生死の先にある何かである. ふつうはもちろん, 生の後に死があり, それですべて終わりである. だが稀に, 死んだはずなのに何ほどかの生命が依然として残るということが起こる. もちろん実際には, 生命は完全にいったん死に絶えた後でゼロから復活するわけではなく, 破局 (死んでしまってもおかしくないほどの出来事) を超えて何か生命のともしびのようなものがかろうじて奇蹟的に保たれ, その後, あたかもよみがえるかのように見えるということであるが, ともあれ, そこに見られる「生き延びる」というありようは, 単に「生きる」というありようとは相当に異なったものである. それは, ありえない苦境をくぐり抜け, 死に瀕するまでの困難を超えて生きる, ということであったり, 通常想定される生死を超え, 例外的にその後に生命が延長される, ということであったりする. この表現には, 意図的にせよそうでないにせよ幽霊めいたものになってしまった何ものかが関わっているように思える. ここで問題になっているのはオカルティズムに属する事柄ではもちろんないが, 生き延びにはそのような, 生命において当然視されている秩序を乱す不穏さ, 不気味さ, 不自然さがたしかにある—そして, それは必ずしも否定的にとらえられるべき事柄でもなく, むしろ肯定的なまなざしで注意深く観察すべき事柄である.
では, 誰が, 何が「生き延び」るのか? どのように? 私はじつのところ, ヨーロッパの思想研究を生業としているがゆえに, この表現をヨーロッパ諸語からの翻訳としてほぼつねに意識することになってしまっている. そのそれぞれの単語を取りあげれば, 私の想定しているものをお伝えしやすいかもしれない.
まず, 英語の「サヴァイヴァル (survival)」がある. これはとりあえず, 多数者が屈してしまう運命 (死を含む) に対して少数者が打ち勝って生きながらえること, とでも定義できるだろう. 私たちがまず想起するのは, 荒野や密林で路頭に迷ったときのために兵士たちが習得すべき技術のことかもしれない. あるいはまた, 弱肉強食の社会における熾烈 [しれつ] な勝ち抜き競争のことかもしれない. さらには, そのような競争に心ならずも誤った譬喩を提供しているチャールズ・ダーウィンの進化論—とくにその自然選択の発想—のことを想起する人も少なくないかもしれない. これらはたいてい, 生き延びる当人の強い意志をともかくも前提にする (ただし, 自然選択を被る生物種にあらかじめの意志などはありえない). このような「サヴァイヴァル」は多かれ少なかれ, みずからすすんで経験されるものである (重ねて言うが, 自然選択のばあいはそれぞれの生物種に意志はなく, 種は単に結果としておのずと生き残ったり絶滅したりしているにすぎない).
だが, この「サヴァイヴァル」を, 自分で望んだわけでもなくたまたま経験する人, さらには強いられて経験する人もいる (人は強い意志をもたずとも, 死なないためにはともかくも生きざるをえないのだから). これもまたよく知られているとおり, 戦争のさまざまな局面 (戦場, 内戦, 収容所, 難民生活) を超えて生き延びる人や, 市民生活における破滅的な局面 (強姦をはじめとする犯罪や家庭内暴力や災害といった堪えがたい経験, まともな継続的・安定的生活を不可能にする貧困, 治癒が絶望的とされる重病—器質的疾患にせよ心的疾患にせよ—, あるいは個人の性向に帰されることも多い「生きづらさ」) を超えて—あるいはもしかすると今もなおそのただなかに—生き延びる人, このような人たちもまた「サヴァイヴァー」と呼ばれる. その少なからぬ人が「PTSD (外傷後ストレス障害)」に罹患していると見なされていることからも示唆されるとおり—ちなみに, それが本当に病気なのかどうかについては本人が自分の有利になるように判断すればよいだけである—, 外傷に相当する出来事 (瞬間的なものも断続的なものも長期にわたるものもある) は象徴的な死であり, それを超えて (sur-) 生きる (vival) ことはすべて, 意志の有無や強弱には関係なく, 生き延びと呼ばれるにふさわしい.
フランス語の「シュルヴィ (survie)」は, 語の成り立ちも意味もほぼ英語の「サヴァイヴァル」と同じである. ただし, そこには延命や余命といったニュアンスも強く読み取れる. つまり, この単語のばあいは, ある局面を超えて (sur-) その先に死の瞬間まで続いている生命 (vie) のほうにも力点が置かれていると言ってみてもいいかもしれない. 死刑や致命的疾病の宣告を受けた後, それでもなお続く生. あるいは逆に, 本来であればとっくに死を迎えていてもおかしくなかったのに, 医療技術の発達によって死の日付が遠ざけられ, その不確実な日まで営まれる生. これらの生においては, 死は通常どおり最後にあり, 外傷といった象徴的な死が生に先行して到来しているわけではない (もちろん, 一概にそのように言いきることもできず, 宣告はおのずと多かれ少なかれ外傷的経験を構成するだろうが). とはいえやはり, これらのばあいにも, 何らかの出来事を通じて, それ以降の生が完全に変質してしまっている. これらにおいては, 問題となっているのは「死後の生」であるというより,「死への覚悟によって単なる終末期へとまるごと変質してしまった生」である.
その生は, いずれ訪れる死のしるしだけを帯びている.「誰か (医者か, 裁判官か) が, 私の死が近いことを, あるいは私の死が今よりは後に遠ざかったことを, 私に告げた. その人はそれを宣告するにふさわしいだけの知識と制度によって, そのような宣告を真理として口にする立場を保証されているとおぼしい. ということは, 私の死の瞬間は, 彼らがどれほど確かなものとして想定しえているのかはわからないにしても, ともかくもあらかじめ多かれ少なかれ定まっているらしい (それは, 誰もがいつか死ぬというような漠然とした話ではない). 私の死の瞬間は, ある程度確かな推定や決定をそのように人が私に提示できるほど近い将来に訪れるものなのだろう. しかし, 私自身にはそれがいつのことなのか, はっきりとはわからない. だとすれば, 今後生きられる生は各瞬間がすべて, 今日や明日に訪れてもおかしくないはずの私の死の瞬間を不安のなかで予期するためのもの, 当の瞬間を今はとりあえずやりすごすことができたらしいという極小の安堵をかろうじて覚えるためのもの, これ以外ではありえないということになる」.「シュルヴィ」を経験する存在の独白を想定するなら, おおかたこのようなものになるだろう (だが, じつを言えば, この「生き延び」にあっては, 独白する能力や意識すら失ったとおぼしい存在—極端な典型例が脳死の人—も登場する). 死が今より前にあるか後にあるかの違いはあるが, ともあれこれもまた, 死の君臨のただなかで単に生き延びられる生命である.
ドイツ語にも, これらに相当する「ユーバーレーベン (Überleben)」という単語がある. 超えて (über-) 生きられる生 (Leben), である. だがここでは, 類語「ナハレーベン (Nachleben)」のほうを取りあげてみよう. これは文字どおりには, 後に (nach-) 延びている生 (Leben) であり, 何かに「倣って生きること」というニュアンスもある単語だが, それ以外に興味深い含意がある. しかじかの地域で, 支配的宗教をはじめとする制度が大幅な変更や完全な交替を被ることがある. そうなるともちろん, 絵画や文学といった文化的生産物もその様相をがらりと変える. かつて用いられていた形象や文様は姿を消す. ところが稀に, 生産者が意図的かどうかはともかく, そのようなかつての意匠が新たな文化的布置のなかに (たいていのばあい, かつてとは別の価値を帯び, かつての文脈と記憶を失って) 登場するということが起こる. それが「ナハレーベン」と呼ばれる. 日本語で言えば「名残 [なご] り」「残存 (物)」といったところである. ちなみに, 英語の「サヴァイヴァル」にもイタリア語の「ソプラッヴィヴェンツァ (sopravvivenza)」にも同様の含意がある. いわゆる, (人間を含む) 生物における「生き延び」ではないが, 文化的形象にも生命を見て取るなら,「名残り」も充分に「生き延び」であると見なせる.
4. 一般化の可能性
以上が,「生き延び」るものとして私個人が想定していたものたちからなる拡がりの全体である.
「生き延びる」もののそれぞれは, なるほど一般化を拒むものではある.「生きる」という経験からしてすでに, 多くのばあい, 個々の生きるものの特殊性・特異性を際立たせる. 個々の生きるものにとって, 生きるということはしばしば, 他の生きるものとは違うものとして生きるということである (それに対して, 死は誰にとっても, 何にとっても同じであると見なされる).
「生き延びる」という経験はそれにもまして, 個々のものたちをさらに特異なもの, 単独なもの, 例外的なものにする. 生き延びに一般性はなじまない. ビジネスにおける例外的成功者の行動, 失われた文明の名残りであるらしいしかじかの特異な図像, 死刑囚の日常—これらはそれぞれに特異なものであって, これらのあいだに共通点を見いだすのは難しい. それだけでなく, たとえば同じ大地震に見舞われた被災者のそれぞれにとっても, その「生き延び」のそれぞれを「生き延び」たらしめているのはむしろ, 個々の特異な出来事との, それぞれに特異な遭遇である. 彼らを「被災者」として一般化すると, 個々の「生き延び」の成立要件はすべて失われてしまう, とまでは言わずとも, 少なからず薄められてしまうように思われる. たとえば, サヴァイヴァーの手記を読んだときに私たちが感じ取る特異な価値はおそらくそこにある. その感覚は, ここには実際にこの人だけが被った例外的な経験がある, これこそが生き延びの現実だ, というものである.
しかしまた, やはりサヴァイヴァーの同じ手記を読むときに, 私たちはそれと同時に, 生き延びということの実態を個々の経験を超えて伝えたいという作者の意志や祈願をも強く感じ取るのが常である. アウシュヴィッツとは何だったのか, 人を収容するというのはどのようなことなのか, 第二次世界大戦とは何だったのか, 戦争とは何なのか, さらには人間とは何なのか—特異な「生き延び」を通じて読者へと暗黙のうちに投げかけられているこのような問いの数々は, 程度の差はあれ一般的な思考へと読者を導く. さもなければ, 私たちは「生き延び」に関しては, 個々の例外的事例に「どうしてこんなことが!」と驚嘆する (そして稀に, 自分自身がそのような孤立した例外的事例となってしまう) 以外には何もできないということになってしまう.
では, そのような一般化は—というより,「生き延び」の特異性の数々を互いに橋渡しする思考をしつらえる試みは—どこまで可能なのか? 一般化はどの程度までなら「生き延び」にとって有効性を失わないのか? 個々の「生き延び」に相対するにあたって, どのような一般化ならむしろ意味があるのか? この実践的な問いにあらかじめ回答を与えるのは困難である. 私が想定していた回答は次のような, あくまでも暫定的なものである.「それはわからない. だがともかく, あらゆる「生き延び」は通常の「生命」に対して等しく特異ではある. その特異性は, 私たちが「生き延び」を感じ取ったり理解したり実際に経験したりするにあたって等しく導入しているとおぼしい共通のメカニズム—おそらくは心理的なもの—に由来しているのだろう.「生き延び」について, 各分野の専門家が個別の考察を加えれば, そのメカニズムの特異性が一般的なものとして浮き彫りになってくるかもしれない. ひいては,「生命」が単に一枚岩のメカニズムとして純朴に称揚されるべきものではないということ,「生命」がそのような特異なメカニズムをあらかじめ一般的に折りこんだものとして真摯に把握されるべきものだということも, そこからおのずと明らかになってくるにちがいない」.
「生き延び」というテーマがこの授業においてもちうる意味について私個人が漠然と考えていた内容は, 以上に尽きている.
すでに述べたとおり, このテーマが「生き延びること—生死の後へ」として選ばれてから後は, 3名の「コーディネーター」(吉田さん, 鈴木さん, 高桑) による完全に民主的な企画運営が進められ, また授業の実際は, 企画趣旨を簡潔にご説明申しあげた講師のかたがたへと完全に委ねられた. 後は, ページを繰って本文にあたっていただければ幸いである. この連続授業において, 私のひそかな目論見はどの程度まで成就したのか? あるいは反対にどのような幸運な裏切りを受け取ることができただろうか? 私の当初の漠然とした考えは, この授業では結局, どの程度まで生き延びているだろうか?
個人的な考えをここまで細かく書き連ねたうえで次のように言うのはおかしいかもしれないが, やはり授業のそれぞれには, (実際の授業を受ける学生たちがそうであったように) 虚心に向きあっていただくのが一番ではあろう. とはいえ, 読み進めるうえで何らかの道しるべがあったほうがよいとお考えのかたが万が一にもいらっしゃるかもしれない. そのばあいは, 相当に朽ち果てた, 原型をとどめていないボロボロの道しるべでもよいのなら, 以上の問いをとりあえずそのようなものとして念頭に置いてお読みいただくこともできるかもしれない.
5. 謝辞
ご多忙のなかご講義くださった講師のかたがたに深くお礼申しあげます.
この授業の成立に関わってくださったすべてのかたに感謝します. とくに, 若輩者の意見にいつもこだわりなく耳を傾けてくださった武藤さん, 吉田さん, 鈴木さんには大感謝です (この「はじめに」を書く機会もいただけて, 本当にありがたく思っています). 本書の編集にご尽力くださった慶應義塾大学出版会の奥田詠二さん, 実際の授業運営を適切にフォローしてくださった教養研究センターのスタッフの皆さんにもあつくお礼申しあげます.
最後に, 本講座をはじめさまざまな形で教養研究センターの活動にご支援をくださっている極東証券株式会社に深い感謝を捧げます.
ありがとうございました.
なお, 本書の編集作業が本講座運営委員会の現委員長である鈴木晃仁さんのイニシアティヴのもとでなされたことを付記します.
(以下は2009年度春学期 (4–7月) に, 慶應義塾大学日吉キャンパスでおこなわれた連続講義の録音をもとに, 講師のかたがそれぞれ授業内容を再構成したものである. 授業は実際のご登壇順に並べられている. ただし, 北中淳子氏の授業部分は,「うつと過労自殺の医療人類学」のタイトルでなされた授業の内容をさらに深く掘り下げた論文となっている.)