状況構築マニュアル
「状況構築マニュアル 哲学的レッスン」
『現代思想』vol. 28, no 6, 青土社, 2000年5月, pp. 217–230.
このマニュアルの使い方
このマニュアルに, 最近の新しい思考や珍しいテクストの紹介を期待しないでほしい. ここに引用されるのは既に読まれる機会のあった文章がほとんどだし, 多くは古典的な文献でさえある. しかし, 解放にあたって必要なのは, 必ずしも新しい道具を探すことではない. 道具の使い方を変え, 道具の組み合わせを変えることも有効だ. ナイフも握り方ひとつで切れ味が変わる. それも, ほんの少しの握り換えが問題だ.
このマニュアルは, 1つのレッスンと, その2つの使用例からなっている. 第1の使用例はぼくが自分で書いたが, 第2のものは既に書かれていたものを借用した (それは, ぼくが敢えて何か新しいものを書く必要がないほど簡潔かつ明晰に書かれていた). いずれにしても使用例はいずれも単なる応用にすぎない.
ここに集めた文章がどれも純朴に過ぎる外見をもっていることに驚いたり呆れたりする読者がいるかもしれないが, 実のところ, 解放の思考の合い言葉は無用に複雑である必要はない.
あとは, 使用者がそれぞれに状況を構築するだけだ. それに, レッスン自体もこれにとどまるべき理由はない. 参考にとどまらないマニュアルほど有害なものはないということは誰でも知っている. そもそも, このマニュアルは誰にでも書けた.
レッスン 性格を性格それ自体から解放する
ヴァルター・ベンヤミンは1921年, 「運命と性格」という短いテクストを発表した. そこで目指されていることを敢えて一言でまとめるなら, ぼくたちの性格を運命的な不幸から解放すること, と言うことができる.
なぜ性格が解放されなければならないのか? それは, 因習的な理解における性格は, 個人の変更できない運命をなし, 人々を不運ないし不幸にのみ方向づけるものだからだ. 人は, 性格をもつことによって幸福への到達を妨げられるとされる. そして幸福は逆に, そうした阻害をもたらす性格から解放されることと見なされている.
その, 幸福への到達が妨げられる次元とは, 法の次元, あるいは罪の次元のことだ. つまり, 人間を罪あるもの (罪を犯しうるもの) と規定することがこの阻害を基礎づける. 人はこの次元において, 罪を犯すことによって法の前に立たされるのではない. 人はあらかじめ法を犯しうるものとして, 罪の連関のうちに前もって組み込まれている. 因習的な性格概念はこの次元に奉仕するように用いられている.
[...] 運命には幸福との関連があるのか? 不幸は間違いなく運命の構成的範疇の1つだが, 幸福はそうなのか? むしろ幸福は, 運命の数々のなす歯車や運命の網の目から幸福な者を解き放つものだ. [...] 不幸と罪だけを構成的概念とし, その中では解放の道は1つも構想することができない秩序 (というのも, 何ものかが運命づけられている以上, それは不幸と罪だからだが) —そのような秩序は宗教的なものではありえない. 誤解されている罪概念がちょうどその反対を示唆するものに見えるとしてもだ. 問題なのは, 不幸と罪だけが重みをもつ領域, 至福と無垢が軽すぎて持ち上がってしまう天秤, これを探すことだ. この天秤とは法権利の天秤のことだ. 運命の法は, つまり不幸と罪は, 法権利によって人格の判断基準として位置づけられる. というのも, 法権利の枠内に罪しか見出だされないと想定するのは偽だろうからだ. あらゆる法的な罪は不幸に他ならない, ということは論証可能だ. [...] 法権利は, 罰へと断罪するのではない. 罪へと断罪するのだ. 運命とは, 生きもののもつ罪の連関のことだ. [...] 判事は, 望むところに運命を見て取ることができる. 彼はいかなる判決によっても, 闇雲に運命を課す. 人間が罪あるものとされるのではなく, 人間の内にある剥き出しの生が罪あるものとされる. これは, 見かけのせいで, 自然的な罪や不運に取り込まれている01
.
ぼくたちは一人ひとりが, 必然的に何らかの性格をもっている. それでもなお幸福を獲得したければ, 自らを, そして自らの性格を, つまりは「人間の内にある剥き出しの生」を, この罪の連関の呪縛から解放しなければならない.
その解放は, 自らが罪を犯しえないものであるということを主張することからはじまるのではない. それでは依然, 否定的な形での法的秩序への包含を意味するだけだ. 事実, 罪はこれまでも無数にあったし, 今もいたるところにあるし, ぼくたちもまた罪を犯すことから単純に逃れることはない. しかしその一般的状況は, 必ずしも, 性格を法的秩序に根ざすものとすることから帰結するのではない. したがって, しなければならないのは, 罪の連関がどのようにして与えられ, それがどのようにして性格概念を巻き込むのかを注視することだ.
性格と罪との結びつきは, 個人において, 時として病理的な帰結を生む. ジーグムント・フロイトが1916年に発表した「精神分析的研究から見た2, 3の性格類型」で描き出されている性格類型の1つ「罪の意識による犯罪者」がその範例を提示している. 病的に犯罪を繰り返すある種の人々について, フロイトは次のような分析を行っている.
[...] そうした行為 [犯罪行為] が犯されたのは, なによりもまず, それが禁じられており, 犯罪遂行が張本人にとって心理的な重さの軽減に結びついているからである. 彼は, 起源の知れない罪の意識に苦しんでおり, 犯罪遂行の後に圧迫が減少した. [...]
逆説的ではあるが, 私はこう主張しなければならない. つまり, 罪の意識が犯罪の前にそこにあったのであり, 罪の意識は犯罪の結果として生じたのではなく, 反対に, 犯罪のほうが罪の意識の結果として生じたのである. この人々を, 罪の意識による犯罪者であるとして指し示すのは, 我々にとってまったく正当なことだった02.
この時間の逆転は, ルイス・キャロルの『鏡を通り抜けて そこにアリスが見つけたもの』 (1872年) で言及されている囚人を思わせもする. その囚人は「今, 投獄され, 罰せられている. 裁判は来週の水曜にならないと始まらない. もちろん罪はすべての最後に来る」. 女王のこの説明を聞いたアリスは, 「彼がその罪を犯すことがなかったら?」と正当な問いを発する. 女王の応えは, 「それならずっとましではないかね?」だ.
アリスは, それはそのとおりだと思った. 「もちろん, ずっとましでしょうね. でも彼が罰せられるというのはずっとましなことではないでしょう.」
「いずれにせよそこが間違いだ」と女王は言った. 「おまえは罰せられたことがあるか?」
「過ちを犯したときだけは」とアリスは言った.
「それでずっとましになったわけだ, な!」と女王は勝ち誇って言った.
「はい, でもそれは罰されるようなことをその前にしているからで」とアリスは言った. 「それで全部が違ってきます.」
「しかし, そういうことをその前にしていないのなら [...] そのほうがさらにずっとましだっただろう03
.」
これは時間の逆転した鏡の向こうでの一挿話だが, おそらく罪の連関は, あるいは法的秩序は, この鏡を通過してはじめて成立する. 人は, あらかじめ罪を犯しえたものとして断罪される (ベンヤミンのいう, 因習的な性格概念はこれだ). その断罪をまってはじめて人は良心ある (もしくは良心に欠けるところのある) それぞれの人として認められる. そうでなければ, 人を法的秩序のうちで把握することはできない. 罪はあらかじめ各人によって犯されえたのであり, そのことが各人を (責任あるものとして) 単位化する. 最終的にその各人において罪が犯されるかどうかは問題ではない. 犯されなければ「そのほうがずっとまし」というだけなのだから.
ベンヤミンも法的秩序における時間のこの倒錯性を簡潔に指摘している.
これ [運命へと断罪されている時間] は自律的ではない. それは, より上位の, より自然的でない生の時間に寄生的に依存している. この時間には現在はない. というのも, 運命的な瞬間などは駄目な小説にしか存在しないからだ. また, この時間が過去と未来を知るのも, 奇妙な屈折においてだけである04
.
性格を罪の連関から解放するとは, この倒錯的な時間構造から脱するために, 性格概念を創造しなおすことを意味する. それは, 幸福へと向けられうる性格のことだ. 全人類に共通ではあっても, その共同性が人類を一挙に法的秩序に置くということのない, そのような性格概念が求められなければならない.
だが, フロイトは, 倒錯した時間構造を説明するために, 自分もまた, 法的秩序のそれに類比しうる倒錯した時間構造を発明してしまった. まず犯される罪とは, 父を殺し母と性交するという欲望であって, その抑圧があらゆる文明の基礎をなすとされる. 実際に, 父を殺し母と性交するかどうかは問題ではない. そのようなことが起こらなければ, 「そのほうがずっとまし」というだけのことだからだ. そこにおいては「現在はない」. なぜなら, それは偽でありうる起源を遡行的に創設することによってなされる時間の規定でしかないからだ.
第1の問い [犯罪行為に先行する罪悪感の起源に関する問い] にちなんで, 人間の罪悪感一般の源泉に関する情報が得られるという期待を我々はもった. 精神分析の作業の終わるごとにいつも明らかになったのは, この曖昧な罪悪感はオイディプス複合に由来するものであり, 自分の父を殺し母と性的関係をもつという2大犯罪意図に対する反動である, ということだった. この2つの意図に比べれば, 罪悪感の固着を得るべく犯される犯罪は, 苦悩する人間にとっては明らかに重さの軽減であった. ここで憶い出さなければならないのは, 父殺しと母との近親相姦とは人間の2大犯罪であり, 原始的社会においてもそれとして訴追され嫌忌されたただ2つの犯罪だった, ということである. 道徳の意識は, 今では遺伝的な心理的力のように見えているが, これを人類が獲得したのはオイディプス複合による [...]05
.
これでは, 性格の問題を法的秩序へと引き戻すことになってしまう. フロイトのいわゆる局所論が法的語彙によって特徴づけられているのは偶然ではない. ここでの無意識は, 既に抑圧された対象でしかない. これを, 上述の因習的性格と同一視することができるだろう.
法的基礎を問うことなしに共通な知性を口にすることは本当に不可能なのか? 因習的な法的秩序によって基礎づけられなければ, 社会は全般的な災厄を必然的に帰結するのか? しかし, 主権 (例外状態における決定権, あるいは構成権力) によって基礎づけられている社会が, 思考—共通であることの身振り—の純粋な可能性を排除する社会であるとすれば, そのような社会は, 日常的に受け容れられるほどに薄まり拡がったものであるとはいえ, それ自体が全般的な災厄ではないのか? そのような秩序の創設以外に倫理の可能性を求めることはできないのか?
この視点からすると, ヴィルヘルム・ライヒが1933年にまとめた『性格分析』において提示している回答は, 文脈の外見上の遠さにもかかわらず, また, 一見した用語上の類似を超えて, 性格を性格それ自体から解放させるというベンヤミンの「運命と性格」の要請に対する1つの可能な応えを構成するものだと言える06
.
ライヒは, 治療に際して, 自由連想という精神分析の基本規則の遵守そのものに対する様々な抵抗に直面していた. この問題を解決するにあたって彼は, 神経症患者が分析家との関係のうちに症状を反復するということ—これは転移と呼ばれ, これを通じてはじめて除反応 (神経症に基礎を与えている固着の解消) が行われる—を強調し, 精神分析において正統的でさえあるこの着想をある意味で絶対化する.
フロイトにとっては, 転移におけるこの反復は過去の反復だった. つまり, フロイトは神経症を, 既に罪ある者たちの疾病 (起源神経症という, 固着の原因となった過去の出来事から発しての神経症) によって代表させる. つまり, フロイトの長椅子では過去の罪が上演される. だがライヒにおいては, 分析家との間に転移を通じて患者が反復し, それによって患者が自分から解除するのは, 性格という外見 (防衛) を伴なって既に反復されている現在の不幸そのものである. ライヒは, 自分の技法が起源神経症への適用を除外するものではなく, むしろその分析の前段階 (分析のための抵抗の解除) をなすものであることを再三強調してはいるが07
, 実のところ彼の問題にしているのは, 患者が起源神経症を病んでいるかどうかを問わず, 常に現在にあって患者の固着として反復されているもの—現実神経症—である.
性格分析の視点からすると, 慢性の神経症—起源が幼年期に遡行される神経症—と現実神経症, すなわちより最近に起源をもつ神経症とを区別することは無用である. というのは, 問題は, 症状が早発か遅発かということではなく, 症状神経症の反動的基礎である神経症的性格がオイディプス期のうちに既に形成されているかどうかということだからだ08
.
現実神経症の契機はある特定の過去の出来事に発するものでもありうるが, 「性格分析」が扱うのは, 身振りや態度の固着によって防衛されている, 現在における誤った対象への欲動備給の固着に由来する神経症, あるいはその防衛であり, それを彼は「性格抵抗」「性格の鎧09
」「神経症的性格10
」などと名づけている. この性格が構成するのがたとえば「潜伏性抵抗」である.
「潜在性抵抗」とは何か? それは, 疑い, 不信, 遅刻, 沈黙, 不充分な連想などによってただちに直接に明らかになるのではなく, 分析の提供するものの本性によって明らかになる抵抗のことである. というわけで, 疑わしい従順さや, あらゆる抵抗の外見上の欠如がある場合は常に, おおっぴらに明らかになっていないだけに危険な潜伏性抵抗が疑われるべきである11
.
ライヒが, そのように疑われる性格をもつとしている患者とは, 「どんな試練にも無制限の信頼をもって優しく従順に従う患者」「ゆるぎない礼儀正しさをもち, 距離を置いた端正さをもつ患者」「情感の貧しい患者」「自分には真正の感情や表現が欠けていると訴える患者12
」などである. これらの患者の性格は, 性格自体の可能性から追放され, 抵抗を構成するものとされてしまっている. これを新たな性格へと解放することが問題なのだ.
言い換えれば, ライヒは2つの仕方で性格を罪の連関 (過去への固着) から解放しようとしている (つまるところその2つは同じことではあるが). まず, 現実神経症の分析に焦点を合わせて, 神経症を罪のありうべき起源に遡行させることを必然ではないとすることによって. また, 性格それ自体を, 誤った対象への欲動備給の固着 (現在の神経症的な性欲障害という不幸) の舞台という役割から解放することによって. 不幸へと断罪されていた「神経症的性格」は, 性格自体から解放された「性器期的性格」へと変容する13
. 過去へと向けられることを通じてのみ現在に回帰していた性格は, 今や, 現在として現在そのものへと回帰することになる. 患者は今において今を演じ, そのことを通じて今へと解放される.
したがって, そこにおいて想定されている無意識の審級は, 成立にあたって原抑圧を必然的契機としない. あえて言えば, ライヒにとっての無意識とは, 心的装置が現在において常に自らを更新する可能性のことであり, 性格を性格自体から解放させることによって, 意識あるものの苦しみをありうべき過去の罪へと遡行させずに救出する力のことである.
抑圧を存在の必然的契機としない無意識は, ゲニウス (天分, 守護霊) と関連づけることもできる. それは, 個人における個人的でない潜勢力 (共通な潜勢力) のことである. 個人はそれを通じて, 特定の個性なしに, あるいはしかじかの社会への統合なしに, 共同な知性へと向かうことができる.
そうした捨象 [性格に対してなされる道徳的な評価 (法的秩序から発した評価) を捨象すること] は, あらゆる事例において可能であるのみならず, この概念 [性格概念] を把握するために必要なことでもある. そしてこれは, 評価それ自体が完全にそのままに保たれ, そこから道徳的強勢のみが除去されている, という意味で構想されるのでなければならない. それによって, 肯定的であれ否定的であれ道徳とは無関係になされる知性の質の描写 (「賢い」「愚かだ」など) によって表現されるような条件的評価へと道が開かれなければならない. [...] 運命が, 罪ある人の膨大な複雑さを, 彼の罪の錯綜や束縛とを明らかにするとすれば, 性格は, 人の罪の連関への神秘的隷属化に対して, ゲニウスという答えを与える. 複雑さは単純さになり, 運命は自由になる. [...] 人間の生には本性上罪があるという原罪の教義, その基礎的な解決不可能性が [キリスト教の] 教義を構成し, 場当たり的な解決が異教の信仰を構成している, あの原罪の教義に対して, ゲニウスは, 人間の自然な無垢という見方を対置する. この見方も依然として自然の君臨の中に身を置いてはいるが, その本質は道徳的洞察にさらに近い. また同様に, これに対立する理念も, 悲劇という形式—それだけが形式ではないが—をとって, 依然として自然の君臨の中に身を置いている. 他方, 性格という見方は, いかなる形式においても, 人を解放する. それは, ここでは示すことができないが, 論理との親和性によって自由へと結びついている14
.
この, 既にそこにある無意識の解放こそ, ぼくたちの目指す, 性格の解放に他ならない. このようにして, 性格は, 性格そのものから解放されなければならない. それによって性格は, 罪の連関を離れてはじめて許される. その「許し」は, 法的秩序によって与えられる許可や認可や裁可ではない. 性格は, 単にそれ自体が解放の場, 交流の場, 撤回と更新の場になることによって自ずと許される.
レッスンの使用例1 漂流:「警察権力の骸骨」
性格 (あるいは人格) を法的秩序に位置づけることについては, ルイ・アルチュセールが既に「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」(1970年) で述べていた. 彼は, ぼくたちがここで法的秩序と呼んでいるものを「イデオロギー」と呼んでいる (「イデオロギーとは個人が現実の実存条件に対してもつ想像的関係の一「表象」である15
」). 同じことだが, それは事象を「ああ, それだ, まさしくそのとおりだ」と認める認知の機構であるとも説明されている). 彼の用語法によれば, 「主体」とはこの「イデオロギー」を具体的に担うものであり, 個人が「主体」となるのは, 権力が個人を呼び止めることによる, という.
まずは次の定式で言ってみよう. あらゆるイデオロギーは具体的な個人を具体的な主体において呼び止める. これは, 主体範疇が機能しているということを通じてなされる. [...]
そこで我々が示唆するのは, イデオロギーは, 個人のうちから主体を「徴募」し (それはあらゆる個人を徴募する), もしくは個体を主体へと「変容」させる (それはあらゆる個体を変容させる) ように, 「行動」し「機能」するということである. このことは, 我々が「呼び止め」と呼ぶ, この非常に明確な操作によってなされる. この操作を思い浮かべるには, 日々警察によって (あるいは警察でないものによって) なされる「はい, そこのあなた!」という平凡きわまる呼び止めの類型そのもののことを考えればよい.
ここで想像した理論的光景が街路で起こると想定しよう. 呼び止められた個人が振り返る. この単なる180度の身体の転向によって, 彼は主体になる. なぜか? それは彼が, 呼び止めが「まさに」自分に向けられたものであり, 「呼び止められたのはまさに自分」(であって他の誰でもない) ということを認識するからである. 経験の示すところによれば, 呼び止めという実践的遠隔交流はこのとおりであり, 呼び止めが呼び止められた人を外すことは, まずない. 言葉での呼びかけにせよ, ホイッスルにせよ, 呼び止められた者は, 呼び止められたのはまさに自分だ, ということを常に認識する. これは何にせよ奇妙な現象であり, 「うしろぐらい」者がいかに多くいるとしても, 「罪悪感」だけでは説明がつかない16
.
「呼び止め」の形式を取るこの「主体化」の特権的なまでに典型的な事例を紹介し, そこから解放される道について考えてみよう.
この事例は, 5年ほど前に, 横浜市金沢区朝比奈 (横浜横須賀道路のインターチェンジのあることで知られる) から鎌倉に抜ける丘越えの道でぼくが発見したものだ. ここは, 昼間は観光客の乗用車が渋滞し, 夜は暴走族でにぎわうという, 謎めいた人気をもつ道である. なお, 周囲は墓地である.
当時ぼくは近くに住んでいたので, 時々この道を使った. ある日の午後, 乗用車でそこを通りかかったぼくは, 奇妙な物体が置かれているのに気がついた. 黄色がかった反射板が水平に2本, 斜めに1本, そして垂直に赤い棒が1本. それらを, 標識などに通常用いられる棒が支えている. 大きさはちょうど人間くらいである.
その存在に気づいた瞬間は, ぼくはそれが何なのかまったくわからなかった. しっかりと作られているようなので, おそらくは単なる個人のいたずらではない. しかも, いたずらにしてはあまりに意味ありげな形象をとっている.
その場を走り過ぎて数秒後に, ぼくはそれが何であるのかを理解した. また, ぼくは夜に来るべきだったということも.
数日後の午後, ぼくはカメラをもってその場を再び訪れた. 週日だったので車はまばらだった. これがその時に撮った写真である.
(高桑和巳撮影)
これは警官である. あるいは, より正確に言えば, 夜そこを通過する者にとって警官に見えるものである. そこには, 夜に警官がそこにいるにあたっての必要充分なものがあった. 夜そこを通過する車両の前照灯が照らし出すのは, 事故を防ぐために必要充分なものでしかない. ところで, 夜間に作業をする者たちはこのことを理解しており, 多くの場合, 事故を避けるために自分から反射板を帯び, 車から目につくように配慮する. 警邏中の警官も例外ではない. ところで, 警官に要求されるのは, 自分が警官としてそこにいるということである. 警官がいさえすれば, 車両の運転者は道交法を遵守するだろう.
その物体は, 前照灯によって照らし出される警官の要素をすべて (そしてそれだけを) 抽出して製作されたものだった. この物体は錯覚を利用し, 警官がそこにいると思わせ, そこを通行する車両の運転者に法への参照を思い起こさせる. だが, それは本当に錯覚だろうか? それはむしろ, 警官の必要充分条件を提示しているのではないか?
ぼくはこれを「警察権力の骸骨」と呼ぶことにした. なぜなら, それが警察権力自体によって製作された, 自らの機能の最小限の表象だからだ (警察権力自体によって警察権力が自らの機能のために自らを表象したものは警察権力の本質に他ならない). ここには, 街の派出所に張られた笑顔の警官のポスターや, 警察署の入口の掲示板にある「この顔を見たら110番!」の幾分の愉しさを装ったデザインがもっている二次的な機能—日常生活の中に警察権力を統合し, 安心を促し, 理解を要求する機能—は一切ない. 存在しているということ自体によって脅かし, 暴力の顕示によって法の存在へと意識を向けるという純粋な機能がそこには露出している.
これは決して芸術でもなければ「超芸術」でもない17
. あるいは, まさしく不幸な形でのそれでしかない. その理由を次のように説明してみよう.
ロマーン・ヤーコブソンは, 交流に関する機能論 (今では歴史的となった「6機能図式」) を提示している「言語学と詩学」(1960年) において, 芸術的機能 (そこでは言語活動が検討されているので「詩的機能」と呼ばれているが) を, 交流されるメッセージそのものに焦点を合わせてメッセージ自体を意識化する機能として提示している18
. たしかに, 交流それ自体が成立し, その存在が既に問題にされない場にあってはこの指摘は有効かもしれない. だが, 交流の成立自体が問題になると, この定義づけでは不充分であることが明らかになる. たとえば, この定義では, スローガンにおける芸術的機能と, 芸術的なものにおける芸術的機能を区別することができない19
. しかし, ぼくたちはその2つを日常においてはたやすく区別する (少なくとも前者を後者のうちに見抜く) ことができる. その判断基準は何によって与えられるのか?
たしかに, メッセージそれ自体への焦点合わせがメッセージの交流に対して常に余剰であることは明らかであり, その観点からして芸術を交流に対する余剰として解釈することは既に伝統をなしている. 芸術を社会的な生に対する潤いとして捉える通俗的な理解もまた, この伝統を参照していると言えるだろう. だが, この解釈によっては, たとえば警察権力の製作物がメッセージの交流に対してもつ余剰を, 芸術の範疇から排除することができない. 事実, この視点から見る限り, 「警察権力の骸骨」やスローガン「赤信号 注意1秒 怪我一生」が芸術的なものとして受け取られる可能性を排除することはできない (「これは幾分は芸術的オブジェである」「これは幾分は俳句である」云々). もちろん, 芸術は社会に対する潤いであることもできる. だが, あらかじめ法的秩序によって裁可された潤いであるとすれば, それは, 「ふれ愛広場」などと命名された郊外の駅前広場に設置され, 「祈り」「希望」「無題」などという曖昧な題を付されたあれらの「見る人それぞれに自由に感じとってもらいたい」と自称芸術家たちの言う疑似彫刻に期待されている「ゆとり」に還元され, あるいは国家規模・惑星規模の商品陳列会や運動会のマスコット (「コスモ星丸」「スノーレッツ」「東京大使」...) に期待されている味気ない優しさに変容してしまうだろう. それは, 不幸を運命づけられた性格の, 絶望の中での限定された喜劇的振る舞い, 可能性を失った拘束 [ギャグ], 心安らぐ欲求不満という形をとる欲動備給, 休み時間のドッジボールである. それはゆとりではあるにしても, 権力の望む時に望むままに除去されうる余剰であるにすぎない.
(1998年に長野で行われた冬期オリンピックのマスコット「スノーレッツ」. 「名称には, 「雪」(snow), 「さあ, 一緒に!」(lets), 「フクロウの子供たち」(owlets) の意味が込められています.」 この説明は, ヤーコブソンによる詩的機能のまた別の定義—等価原理を選択軸から結合軸に投射すること20
—の条件を, 愚かにも完全に満たしている. ヤーコブソンの立論に従う限りでは, あらゆるかばん語は詩的機能を前景化するものと考えられるだろうからだ.)
芸術的機能は, メッセージの交流を軸とした機能論からではなく, 交流そのものの成立のあり方の違いから, つまりは交流可能性の観点から, 説明されなければならない.
もちろん, 従来の機能論の擁護者は, ヤーコブソンの問題にしているのは詩的機能であって詩作品そのものではない, と口にする権利を常に主張しうるのだろう. つまり, 6機能はいずれもあらゆるメッセージの交流において前提されるものであり, 詩的機能は, 詩的と見なされるものにおいては前景化しているにすぎない, というわけだ. しかし, ここで本当の意味で問題なのは「機能」という用語による相対化ではない. その「機能」がスローガンにおいても前景化していることを指摘するだけで, 反論にはとりあえず充分だ. 今必要なのは, スローガンを詩的なものから区別する判断基準を既に法的秩序によって規定されている形象に由来しない形で取り出すことである. その課題は, 芸術と性格とを一挙に無垢へと解放すること, と言い換えることもできる.
既に見たとおり, アルチュセールのイデオロギー論によれば, 主体の成立は, 権力からの呼び止めによる. これが, 法的秩序の中でのぼくたちの単位化のことであることは明らかだ. そこにおいて, ぼくたちは, 呼び止めを聞いてしまえば, それが自分に対する呼び止めであることから逃れることができない. 任意の誰かが法的人格として呼ばれているのが聞こえてしまった時に, 自分がその対象でありえないということを確信することは, 法的秩序においては定義上不可能だ. そこでは, 呼びかけられてあるということと, 自分がそこにあるということの間に, どのような間隙も想定することができない.
「警察権力の骸骨」はそのことをよく示している. それは, 権力がそこに顕在しているということだけを示しており, そのこと自体がぼくたちを法的秩序へともれなく徴募する. メッセージは発信され受容者に届いた途端に, 自らがそれとして受け取られることを確証される. その機能をもれなく無駄なく示しているがゆえに, これは警官を真似た模像ではなく, むしろ逆に, それが, 警官に範例を提供する母型なのだ.
それに対して, ぼくたちは次のように定義してみることができるだろう. ありうべき芸術的機能とは, しかじかのものが, 受容者にメッセージとして届いた後も, 受容者に, 自分がしかるべき受容者であるかどうかの疑いを残すような機能のことである. 言い換えれば, 芸術的なものは, そのメッセージの交流が受容者の (受容者としての) 単位化を必ずしも帰結しないもののことである. いかに逆説的に響くとしても, 芸術の受容者とは, 自分がその (芸術的) メッセージの受容者として単位化されるかどうかに確信をもたないことを通じてはじめてそのメッセージの受容者となる者のことである, と言える. 受容者の単位化とは, ぼくたちを不幸に引き渡すということであり, ぼくたちを因習的性格へと割り当てるということであり, 倒錯した時間構造によってぼくたちを個体化するということであるが, 芸術的メッセージの交流はその単位化へとぼくたちを運命づけることがない.
より正確に言えば, 解放された芸術的なものとは, 受容者を, そのような個体化を経由せずに, 共同性のうちに成立させるもののことである.
この共同性を社会のゆとりや潤いといった非整合的な偽概念によって不充分に解釈してきたことが, 芸術的機能の悪しき使用に対する理論上の無批判を許容することをぼくたちに強いてきた.
因習的な性格から性格自体を解放し, 自らを共通なものの働く場として開くことは, 幸福に向かって開く唯一の扉であるのみならず, 自らを芸術的なものと生とに同時に解き放つための唯一の鍵でもある. 負い目あるものとして呼ばれるのではなく, 自らを共通なものと呼ぶことをこそ, ぼくたちは解放と呼ぶことができる. そのためには, 自らがあらかじめ負い目あるものとして呼び止められてあることを否定することにかかずらう必要さえない. 呼ばれるべき共通なものとしての自分は, 仮に意識が原抑圧を構成的契機にしているとしても, 視覚的無意識が肉眼の視覚の連続に間断なく介入しうるように, いつでも, どこでも, 自らの可能性を闖入させることができるはずだ. 必要なのは, 硬直した意識のイメージに, ぼくたちに共通な潜在性としての可能な運動を取り戻してやることだ. それは失われたり抑圧されたりしたことさえなく, 喪失や抑圧の傍らに常に残ってきたものである以上, 今必要なのは, それを見て取ることのできるように視点を変容させ, いかに言い古されたことであるとしても, ぼくたち自身が, 生を解釈することから生を変化させることへと移行することだけだ.
レッスンの使用例2 転用:「屋上解放」
山村たけゆうが1997年に書いた「屋上解放」と題するテクストを, レッスンへの優れた回答として紹介しておこう.
屋上は, 建物に覆いをするという役割をもつものとのみ認められている状態から, その役割を放棄することなく, 別のものへと解放される. 放棄されるのは, 屋上の屋上としての従来の役割付与を通じてなされていた, 潜在的に働いていた禁止である. たとえば, 飛び降り自殺は, 禁止の対象でも推奨の対象でもない. 解放を待つ屋上は, いわば, 「すべての価値の価値転換」の場だ.
山村が思考を通じて解放するのは屋上だけではない. 何よりもまず, ぼくたちが屋上へと解放される. そこには, いわゆる「路上観察」の興味本位のまなざしが見出だすべきものは何もないかもしれない. あるのは, 平凡な貯水漕, 空調室外機, アンテナだけかもしれない. だが, 屋上は単に屋上であることで既にぼくたちを待っていた.
最後に, 念のために記しておくが, 山村はこのテクストを, レッスンを実践するために書いたわけではない. そもそも彼は状況主義者を自称したこともない. ぼくの知る限りでは, 彼が状況主義者の運動に対して肯定的にせよ否定的にせよ意見を公に表明したことはない.
しかしそんなことはこの際どうでもいいことだ. 重要なのは, 状況主義者を自称することより, 状況をそのつど局所的に構築することなのだから.
★
(山村たけゆう撮影)
屋上解放は, ブルースマン荒木瑞穂氏の提唱した運動だ. 荒木氏自身はこれについて多くを語らない. ここで示すのは私なりの解釈であり, それが荒木氏の思想を正確に表している保証はない.
屋上はビルの上にある. だから, 屋根であるとも言える. 屋根は居住用建築物にとってなくてはならない一部分だ. 屋上は独立した空間であると共に, 別の心地よい空間を確保するための壁であるとも言える. 屋上はビルに不可欠だが, ビルの外部にある. ビルの一部であるにも関わらず, 屋上はビルの中にはない. 外部が内部を支えている. 屋上は上から下を支えている.
夏, 屋上は暑い. 果てしなく暑い. 直射日光を遮るものもなく, 防水加工の照り返しも手伝って, 光と熱が肌をじりじりと灼いていく. しかし, 屋上にはアスファルトの路面と異なり, 風がある. 屋上には風が吹く. 直射日光に熱せられた肌を, 風が心地よく冷やしてくれる. 甲良干しにはもってこいの場所だ. わざわざ郊外のプールや海に出かけて体を焼く人間が愚かに見える. 自分の住居のすぐ上に最適の空間があるのに.
また, 屋上は密会にも最適の場所でもある. 昼休みの情事にはぴったりだ.
屋上は見晴らしが良い. 都会の林立するビル群を太古の森のように見渡すことが出来る. 屋上の縁に立って風を受けていると, 大昔に崖の上から獲物を確認し追いつめた祖先達の魂が甦る気がする.
しかし, こんな素晴らしい屋上が, 多くの場合立入禁止されている. 何故か. 何故, 権力は屋上を排除するのか.
権力は屋上を独り占めしようとする. 太古の森のように都市を眺める視点が公になるのを恐れている.
屋上は自殺にもってこいの場所だ. 多くの管理者は自殺者が出るのを嫌って, 屋上を立入禁止にし, 高い柵を作る. しかし自殺者はどこからやってきたのか? 自殺者は屋上に生まれたのではない. もっとずっと下の方から, もっとずっと平べったい土地からそこへ登ってきたのだ. 最後の手段を求めて. 柵を作ったところで自殺志願者が消えるわけではない.
空間を限定された都市は, やむを得ずその延長として建築物を上へ上へ伸ばしていった. 立体を平面の延長として措定することに, 生き残りをかけてきたのだ. だから, 立体が真の立体として露出することを, 都市は恐れている. それは単なる平面の延長でなければならないのだ. 特別な場所へ人々が容易に立ち入るのを許すわけには行かないのだ. ビルは塔ではない. 単なる平面の積み重ねだ. そう権力は訴えているのだ.
それがへたくそなウソであることは, 屋上に出てみればすぐに分かる.
都市は平面パース的思考様式によって, 物理的・心理的に圧倒的な利便性を築いた. それは権力が導いた巨大な箱庭である. 監視塔の上には誰もいない, 極度に洗練された監獄空間である.
人々がそれを嫌って空間的に移動しても, 行く先々に都市が待ちかまえている. 今や都市が農村を包囲しつつある. 箱庭的なものは真っ先に農民や地方生活者の精神を犯していったからだ. 農村のジャイアンツファンが権力を基礎づけている. だから「イナカグラシ」で権力から逃げることは出来ない. 脱出口があるとしたら, もっと近くを探さなければだめだ. 空間に逃避することは, 既に都市のトラップにはまっているのであり, どこまで行っても釈迦の掌である.
屋上は死に近い. 「天国に一番近い場所」だ. むろん, 天国は屋上の上にあるのではない. 下にある. 確かめたければ, 屋上の縁から一歩足を踏み出すだけで事足りる.
だから, 自殺を禁忌とする思想は屋上を封印したのだ.
都市は人間をビルという平面化される空間に監禁した. 雨漏りで困ったときには, 「汚い」男達を呼べばいい. 人間は涼しい空間で平面的に作業するものなのだ. 「汚い」男達は屋上で仕事をする. エアコンの室外機が唸りをあげて熱い風を吹き付けてくる.
「全く, 上にいる人間のことも考えろよ!」
ヒエラルキーの逆転? もう一度回って, 別段逆転などしていないのさ! ずっとずっと昔から.
制止を振り切って屋上に出ろ! 別段屋上に居を構えないでも良い. 階段で戻るのも, 自由落下で降りるのも, そこでゆっくり考えればいい21
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注 :
(本文中で引用ないし参照したテクストについては, 該当箇所を指示し, 外国語がオリジナルの場合, 手許に日本語訳のあったものに限り対応ページを示しているが, 訳文は必ずしも既訳を採用していない.)
01. ヴァルター・ベンヤミン「運命と性格」野村修訳, in 『著作集1』晶文社, 1969, pp. 43–45.
02. ジーグムント・フロイト「精神分析的研究からみた二、三の性格類型」佐々木雄二訳, in 『著作集6』人文書院, 1970, pp. 134–135. なお, 実際に犯罪を犯さなくても同じ状態に陥ることはある.「贋金づくりに関する何かの記事を読むと, 彼女 [強迫神経症の少女] には自分も偽造貨幣をつくったという考えが浮かんだ. どこかで犯人不明の殺人事件が起こると, その殺人を犯したのは自分ではないかと不安になって自問した.」(「防衛‐神経精神病」(1894) 井村恒郎訳, in 『著作集6』(op. cit.), p. 14.)
03. Lewis Carroll, Through the Looking-Glass, in The Annotated Alice (Martin Gardner, ed.), London, Penguin, 1960 (1970), p. 248. ちなみに, 『不思議の国のアリス』(1865年) にもこれに似た議論が既に現れている. ジャックがパイを盗んだ容疑で投獄されている. 彼に不利な証拠として, 彼が書いたという手紙が提出される. だが, この手紙には署名もなく, 筆跡もジャックのものではない. とはいえ, 容疑が判決をあらかじめ規定している法廷においては, それらの特徴も彼の無罪を証すにはほど遠く, それどころか逆に働く. 裁判長である王は言う.「彼 [ジャック] は他の誰かの筆跡を模倣したに違いない. [...] お前 [ジャック] が署名しなかったとしても, それは事態をさらに悪くするだけだ. お前には何らかの悪意があったに違いないし, そうでなければお前は正直者のするように自分の名で署名したはずだ.」(L. Carroll, Alices Adventures in Wonderland, in The Annotated Alice (op. cit.), p. 157.)
04. ベンヤミン「運命と性格」(op. cit.), p. 46.
05. フロイト「精神分析的研究からみた二、三の性格類型」(op. cit.), p. 135. 罪悪感とその起源については, 以下にも検討がある. フロイト「トーテムとタブー」(1912–1913) 西田越郎訳, in 『著作集3』(op. cit.), pp. 205–210.「文化への不満」(1930) 浜川祥枝訳, in 『著作集3』人文書院, 1969, pp. 477–496. これら (とりわけ後者の p. 484 以降) には, ここでぼくたちの展開している批判に対する回答の試みがあるが, 次注に記すとおり, そこで提出されている仮説は, 論点先取を犯している.
06. 本文中では議論を展開しないが, ゲザ・ローハイムが『スフィンクスの謎』(1934年) 他で提出している仮説も, 文化の創設にあたって罪関連を必然的契機としない可能性を示唆しているということを指摘しておくことができる. ローハイムの主張するところによれば, 人類の誕生にあたって原父殺害はたしかに行われはしただろうが, 文明の創設は, 殺害を遂行した兄弟ホルドの相互契約にではなく, その場に居合わせた, より幼少の子供たち (「ホルドの未発達の成員, 観察者」) の心的外傷に帰すべきである (文化とはこの神経症を起源とする治療の試みの総体のことだということになる). Cf. Géza Róheim, The Riddle of the Sphinx (Roger Money-Kyrle, trans.), New York, Harper & Row, 1974, p. 268. そのように考えるのは論理的でもある. というのは, そうでなければ, 原父殺害が兄弟ホルドに与えた衝撃は, それ自体があらかじめ罪悪感でなければならなかったことになるからだ. フロイトもこの矛盾には気づいており, これを, 原父殺害が無数に反復されたという仮説 (衝撃の刻印の世代間伝達と蓄積の仮説) によって, あるいは感情の普遍的両価性の仮説 (殺した父は憎かったが愛の対象でもあった云々) によって解決しようとしているが, 第1の仮説は, 感情の伝達や蓄積が文化の基礎そのものをなしているという事実によって, また第2の仮説は, それ自体が人間を特徴づける「聖なるもの」の基礎をなすと考えられることによって, いずれも論点先取ということで反駁されうる. 犯罪遂行と罪悪感の発生の間には, 物質的かつ時間的なずれ (たとえば殺害者と観察者の間のそれ), もしくは心的なずれ (罪の内面化に関する他の契機) が必要である. だが, 後者は, 言語活動の存在自体によるずれ以外には, 想定はできても証明は不可能である.
07. ヴィルヘルム・ライヒ『性格分析』小此木啓吾訳, 岩崎学術出版社, 1966, pp. 30–31.「第1幼年期に生きられた経験の分析なしには真の治癒は獲得されえない. だが重要なのは, 想起が, それに対応する興奮に伴なわれているということである.」 あるいは p. 56.「性格ごとに異なる類型的反応の形式は [...] 症状や幻想の場合と同様に, 幼年期の経験によって規定されている.」 ただし, その反応形式は, 抑圧を経て潜在的なものとなったわけではなく, 性格それ自体がその潜在的形式として与えられている以上, 幼年期における規定以来ずっと, 現在を舞台として顕在化していたはずだ.
08. Ibid., p. 57.
09. Ibid., p. 54 sq.
10. Ibid., p. 56.
11. Ibid., p. 39.
12. Ibid., p. 44–45.
13. もちろん, 性器期を口唇期や肛門期より優位なものとして模範的な異性愛を前提するイデオロギー, 分析による患者の全人格の新たな囲い込み (告白に基礎を置く権力が身振りをも圏域に収めること) の危険など, ライヒの教義は, 精神分析の孕む多くの問題を保存し, 時には助長してもいる. だが, 性格概念が明るみに出されることによって精神分析という領野において解放のきっかけがもたらされるこの過程自体は, 改めて注意を払うに値するものであると思われる.
14. ベンヤミン「運命と性格」(op. cit.), pp. 47–49.
15. Louis Althusser, «Idéologie et appareils idéologiques dEtat», in Sur la reproduction, Paris, PUF, 1995, p. 296.
16. Ibid., p. 305. なお, 彼がここで「罪悪感」と言っているのは, イデオロギーの枠内での罪悪感のことである. このことは, ぼくたちの語彙で言えば, 呼び止めの機構は罪の連関の分析によって説明がつく, ということである.
17. 赤瀬川原平のいう「超芸術」の構想は, (たとえば赤瀬川自身の紙幣の複製や「零円札」発行の試みなどがもっていたかもしれない) 政治的な批判力を喪失する傾向にあるため, こうした現象に対する必要な批判的まなざしを構成しない.「路上観察」と状況主義者たちの「漂流」との区別の必要性については, 知る限りでは木下誠が若干を暗示しているだけである. 以下を参照のこと. 木下誠「訳者解題」, in ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』木下誠訳, 平凡社, 1993, pp. 252–253.
18. ロマーン・ヤーコブソン「言語学と詩学」八幡屋直子訳, in 『一般言語学』みすず書房, 1973, p. 192.
19. ヤーコブソンにおいてはそのような区別は問題にならない. 彼は事実, ドワイト・D・アイゼンハワーの大統領戦のスローガン「アイクを愛す」(I like Ike) における詩的機能と, 日常的表現「ひどいハリー」(the horrible Harry) の語呂のもつ詩的機能とをその次元においては区別しない. この例示は以下にある. Ibid., p. 193.
20. Ibid., p. 194. 選択軸とは (観念) 連合ないしパラディグムと呼ばれるもの, すなわちしかじかの項の潜在的代替物 (連想によって置き換えられる可能性をもつもの) の総体のなす軸のことであり, 結合軸とは連辞ないしサンタグムと呼ばれるもの, すなわち実際に言説化されたものを構成する諸項の線条的連鎖 (具体的には, 実現された文章など) のなす軸のことである.
21. これは, 以下のテクストに山村たけゆう本人が若干の修正を施したものである.「屋上解放」, in 『残響通信』no 14, 1997 (ページ打ちなし). 『残響通信』は, 山村が単独で不定期に刊行しているフリーペーパーだが, 京都在住者以外にはおそらく入手は困難だろう. しかし幸い, このテクストのオリジナルは彼の運営するサイトでも読むことができる. <
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/takeyu/zankyo/zankyo14/zankyo14.html#anchor167713
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また, 屋上解放論についてさらに知りたければ, 以下を参照することができる.
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http://web.kyoto-inet.or.jp/people/takeyu/zankyo/okujo/index.html
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なお, 文中の「パース」は建築用語で透視図のこと (perspective の略).
(ここに再録するにあたり, 句読点その他のタイポグラフィに変更を加えました.)