shibata
無駄な「反テクスト論」
『d/SIGN』no 10, 太田出版, 2005年4月, p. 132.


以下の書評です. 柴田勝二『〈作者〉をめぐる冒険 テクスト論を超えて』新曜社, 2004.


 柴田勝二 (1956– ) は近現代の日本文学を研究する人のようで, 単著ではこれまでに, 戦後の作家を扱った2冊のモノグラフィ—『大江健三郎論』(1992) と『三島由紀夫』(2001) —, またそれらに先立って, 幾人かの作家の作品についての読解をまとめた1冊—『閉じられない寓話』(1990) —を発表している. これらに新たに付け加えられたのが,『〈作者〉をめぐる冒険』(2004) という思わせぶりな題を付された本だ.

 この本の「売り」であるらしいアプローチ一般について確認するにとどめようと思うが, その前にそもそも断っておくべきことがある. それは, 新たなものであるとされるそのアプローチの設定にもかかわらず, じつは柴田の議論の展開のしかたに革新的なところはとくにないということだ. 個々の議論の内容には興味を惹かれる部分があるにしても, 読解の方法自体は, 近現代の日本文学を論ずるほかの人たちのそれととくに異なっているとも思えないし, のみならず, 柴田自身がこれまで書いてきた数冊の本で採用されているとおぼしい方法とのあいだにも際立った違いは見られない. そして, そのことは, それ自体では, べつに悪いことではない.

 柴田はこれまでも, 個々の文筆家の性向に主として帰せられるいくつかの因習的な解釈から作品を救済し, 文筆家の生とその書かれた時代の文脈をふまえたうえであらためて作品に向きあう, という地道な作業をおこなってきたとおぼしい. その姿勢自体に新奇なところはないし, その読解の着想はしばしば, 同種の姿勢を採用しているほかの批評家の書きものから無理なく借用されてもいる. 今回の本でもその姿勢に変更はない. この姿勢自体は平凡だが, その地味さは非難されるべきたぐいのものでもない. この種のアプローチも, 実際にアプローチされた対象の内容によっては, 充分に説得力をもつことがある.

 ところで, このアプローチを正当化するために—じつのところ, そのような正当化の必要はなかったように思われるのだが—柴田は「〈機能としての作者〉」(題にある「〈作者〉」はこれを省略的に表記したものだ) と称するものを想定し, この審級が作品においてどのように働いているのかを見ることで, 従来の読解が惹き起こしてきたさまざまな問題が解決されると主張する. しかもこの主張は革新的なものと想定されている. この新たな主張こそがこの本の「売り」であり, その原則が説明されている論文「語り直す機構」は本の冒頭に置かれている. だが, その原則を提示している箇所こそがじつはこの本で最も信用に値しない部分であり, すでに述べたとおり, この本の価値を産み出しているのはそれ以外の部分なのだ. この本では幸か不幸か, 読解の原則が読解の細部に影響を与えていない.

 柴田の主張によれば, 読解において問題を惹き起こしてきた悪いアプローチの最たるものは,「テクスト論を超えて」というこの本の副題によって文字どおり攻撃されているところのものだ. ここで標的となっている「テクスト論」を基礎づけた代表者はロラン・バルト (1915–1980) とミシェル・フーコー (1926–1984) だとされるが, 柴田は前者の「作者の死」(1968) においても後者の「作者とは何か?」(1969) においても, テクスト内で作者が何らかの働きを担わされているということ自体は否定されていないという当然の事実を確認し, そこから, 純然たる「テクスト論」—作品はテクストとして作者から自律して存在すると見なすたぐいの議論—は最初から問題をはらんでいた, というように議論を展開していく. だが, これでは議論が転倒している. そもそも「テクスト論」は柴田の想像するようなものではなかった. にもかかわらず, 一般に流布していた「テクスト論」の戯画を柴田は故意にそのまま理解し, いわば, 実際には存在しないこの敵を攻撃することで, 想像上の勝利を楽々と収めた.

 大きな (これまた想像上の) 戦利品は2つある. 読解の決定不可能性の排除と,「〈機能としての作者〉」の措定だ.

 読解の決定不可能性は「テクスト論」の戯画において頻繁に姿を現すが, この問題には, お望みなら「テクスト論」側からすでに回答が出されている. たとえばスタンリー・フィッシュ (1938– ) の仕事, とくに『このクラスにテクストはありますか?』(1980) では, 読解は「解釈共同体」ないし「解釈戦略」によって決定される以上, 恣意性はなくなるとされている. この種のことを柴田が知らないはずはない. しかし, 柴田は「テクスト論」をあえて攻撃することによって決定不可能性が新たに排除されたと見なす. まるで, そのことによってあらためて読解の細部に説得力をもたせようというかのようだ.

 たとえば, 村上春樹 (1949– ) の『ノルウェイの森』(1987) で「ノルウェイ」が「ノルウェー」と書かれていないのは「no way」を含意させるためだという, この本の最後のほうで提出される愛すべき解釈は, むしろ読解の恣意性を思わせる (この解釈を読まされた者のほうが「no way !」と叫びたくなる). だが,「テクスト論」を駆逐したつもりであってみれば, もはや恣意性の有無など, 柴田にとっては論ずるほどの問題でもないのだろう.

 肝腎の「〈機能としての作者〉」に触れて, この短い書評を終えよう. これは, ウェイン・C・ブース (1921– ) が『フィクションの修辞学』(1961) で, 寓意や皮肉を把握するために必要なものとして想定した「内在する作者」(これと語り手との距離を読者が想像することで寓意その他が機能する) に由来するもの, ないしはこれを改良したものと柴田は見なしたがっているようだ. しかし, 寓意や皮肉のために想定される語り手と「内在する作者」とのあいだの距離といったものは柴田の議論においてはほとんど意味をもたない. 柴田が望んだのは唯一, 現実の文筆家が作品を成立させるにあたって作品中にしかじかの形で溶けこませたかもしれない分身を (それが現実の文筆家自身と合致するかどうかを問わず), 読者が—つまりは柴田が—標定できると主張するための, 都合のよい装置を手に入れることだった.

 それが「〈機能としての作者〉」だが, 柴田がこの万能の装置を使ってやることはといえば, 彼自身によって読解の最初に排除された, 現実の文筆家の性向やその時代に依拠する読解を, 細かなニュアンスを付してではあれ再帰させるということにとどまっているように思える. ただし, その読解の実際には興味を惹かれなくもない. それだけに, なおさら, この「反テクスト論」という身振りは単なる無駄な迂回, 無用なこけおどしだった.



(ここに再録するにあたり, 句読点その他のタイポグラフィに変更を加えました.)