はじめに
「はじめに 性の手ほどきを大学で」
高桑編『性 生命の教養学11』(慶應義塾大学出版会, 2015年9月), pp. i–vii.


 「生命の教養学」は, 慶應義塾大学の日吉キャンパスに拠点を置く「教養研究センター」が開講している講座である. この講座は, センターの活動に対して極東証券から長きにわたって寄せられている深いご理解・ご支援を承けて運営されている. この講義録は, 11回めにあたる2014年度の模様をお伝えするものである.

 この講座はおおむね毎年, 週替わりでゲスト・スピーカーのかたにご登壇いただくオムニバス講義という形式を採っている. 2014年度もそのスタイルを踏襲している.

 個々の年度の講座を企画するにあたってコーディネイターたちの共通認識となっている大まかな方針は次のとおりである (以下はこの数年にわたって「はじめに」で用いている文言だが, 大きく変わらないはずの原則なので繰り返しておく). 1. 講座名にある「生命」を, あらゆる学問分野からアプローチ可能なだけ広い意味を含みうる概念として捉えること. 2. 年度ごとに, その広い意味での「生命」現象にとって本質的と思えるサブテーマを設定すること. 3. そのサブテーマをめぐって人文科学, 社会科学, 自然科学等の研究領域をそれぞれに代表する研究者にお話しいただくこと. 4. そのお話を承けて, 受講する学生のそれぞれに「教養」的視座から「生命」について自分で再考してもらうこと.

 (「教養」的とはここでは, 特定の学問分野におもねることなく思考の材料を広く求め, とはいえ各分野の厳密さによって得られた成果には充分な敬意を払い, そのようにして得られた雑多な材料のすべてをもとに新たな知の組織を自分なりに工夫する, というほどの意味である.)

 サブテーマの設定は, 当講座のコーディネイター一同の合議によって決定される. 今回の企画に関わったコーディネイターは, 各学部で研究・教育にたずさわるかたわら教養研究センターに兼担で所属する7名の教員である. 以下, 所属と専門分野を添えて名前を列挙する (50音順, 敬称略). 小野裕剛 (法学部, 生物学), 片山杜秀 (法学部, 政治思想史), 小瀬村誠治 (法学部, 化学), 鈴木晃仁 (経済学部, 医学史), 高桑和巳 (理工学部, 現代思想), 高橋幸吉 (商学部, 中国文学), 鳥海崇 (体育研究所, 水球・コーチング).

 このメンバーによって選ばれた2014年度のサブテーマは「性」である.

 性が生命にとって最も本質的な現象のひとつであることは説明を要さないだろう. たとえばの話, 本講座で過去に扱われた「誕生と死」,「生き延びること」,「成長」,「新生」といったサブテーマにしたところで, 性を—とりわけ, その重要な一側面である生殖を—考慮に入れずに検討することはまず不可能だった (各年度の実際は, すでに刊行されているそれぞれの講義録で確認していただくことができる). また, それ以外のサブテーマのもとで展開された各講義にあらためて目を通してみても, 性に関わる題材が扱われているものが少なくないことに気づかされる. その意味で, 性はこの十余年にわたってつねに「生命の教養学」のかたわらにあったとも言える. しかし, その性が正面から取りあげられるのはこれがはじめてのことだった.

 社会的なタブーによって教養の営みが統制を受けることは理念上ありえない. 狂信, マフィア, 悪政など, さまざまな理由から表立って話題にされることが大なり小なり避けられているあらゆるものが, 権利上は教養の対象たりうる. 性も同様である. そもそも, 性は社会において厳格なタブーに抵触することをやめて久しい. さまざまな水準における公共の場—報道, 教育, 社交など—においてそれぞれに一定のコードが依然として存在し, たとえば, 倒錯を含む自分の性生活の詳細について記名で公言することが忌避され続けているのはたしかだとしても, 一般的に言って性について語ることは相当に制限を緩められている.

 しかじかの芸術行為を「猥褻」と形容して散発的におこなわれる摘発さえも, 性的なものを定義づけ制御するのは国家の側だということを人民に思い出させるためのいささか陰鬱な風物詩としか見えない. 裏を返せば, 私たちは自分たちの性が国家によって制御されているなどとはほとんど思わずに日々を暮らしている. 一見すると自由に任せているようにも見えるそのありかたもまた権力行使のれっきとしたパターンであると議論する余地はつねに残されているとしてもである.

 性はあまりに自然なものと化し, 私を含む歴代のコーディネイターの脳髄はむらなく桃色に染めあげられていたため, 当の染料自体がサブテーマとして脳裏に浮かぶことさえなかった. それが, 2014年度の講座を企画するコーディネイター一同の話しあいの場に, なかば偶然のように姿を現した, ということなのだろう. あまりにしっくりと風景に溶けこんでいたがゆえにうっかり忘れられながらも, 秘かに求められていた主題というわけである.



 ところで, 若者が学生の大半を占めている現在の高等教育の場において性を主題とする講座が開かれるとすれば, 初等・中等教育でおこなわれているたぐいの性教育をわずかに発展させたようなものがまずは思い浮かぶかもしれない.

 もちろん, 受講者がさまざまな意味や水準での「性生活」を営んでいくにあたって, 最低限の知識や作法が欠如しているのであればその欠落は正確な情報によって埋められるべきだろうし, いわれのない先入見が性に対する感覚や認識を曇らせているのであればそれはなるべく早く是正される必要があるだろう. 規範的な常識—それも, 時代に応じてつねに更新されていく常識—を提供するというこのような務めを本講座が最初から放棄すべきでないのは当然である.

 しかし, 本講座の本領はそこにはない.

 じつのところ, 性がかつてのようなタブーではもはやないとはいえ, 性にまつわる問題のすべてがすっきりと解決されており, もはや検討すべき何も残されていないというわけではない. それどころか, 性の諸相は私たちが生きていくにあたって依然としてさまざまな問題や葛藤を生じ続けているし, それらは多くの研究領域においてそれぞれの真摯なアプローチによっていまも問われ続けている. 明確な回答や解決策のないことがあらかじめわかっているような問いも少なくないが, だからといって問いかけがやむわけではない.

 それはおそらく, この性という問題は, 問う者たち自身のそれぞれがつねにすでにある程度は当事者でもあるからである. この「当の問題にいつのまにか巻きこまれている私たち自身による不断の探究」という一点こそが,「生命の教養学」において性を主題として立てるにあたって主軸となるべきものなのだろう. 性をめぐる教養が, 仮に規範的な性教育に毛の生えたようなものを含んでいるように見えるとしても, それは副次的にそう見えるというにすぎない. 尾籠な言葉遊びを許していただければ, 教養的主題としての性は何よりもまず, 毛の生えた私たち自身が否応なく問い続ける何かなのである. 性の手ほどきを大学でおこなうならば, そのような問いと検討の試みがありのままに提示されることが望ましい.

 というわけで, ゲスト・スピーカーのかたへのご登壇のお願いも, その点をおのずと強調するものになった.「「性」は純然たる生命現象ですし, そもそも生命にとって欠くことのできないものでもあります. しかし, それは単に狭義の生命へのまなざしによって捉えきれるものでもありません. それは生物の, また人間の営みのあらゆる局面において多様な現れを見せます. 私たちはその現れのそれぞれに対して肯定的にせよ否定的にせよ, あからさまにであれ隠れてであれ少なからぬ関心を示しますし, それだけでなく, 望むと望まざるとにかかわらず, それらの現れにすでに自分自身が巻きこまれてもいます. そのような「性」の諸相をあらためて博物誌的に明らかにしてみようというのが [...] 本講座のねらいとなります」.

 この呼びかけに応じてくださった11名のかたのお名前を, 肩書き (当時) と専門分野を添えて実際のご登壇順に列挙すれば次のとおりである (敬称略. より詳細な略歴はそれぞれの講義冒頭に記載されている). 斎藤環 (筑波大学医学医療系教授, 思春期・青年期の精神病理学), 松本緑 (慶應義塾大学理工学部准教授, 発生・生殖生物学), 長谷川由利子 (元慶應義塾大学商学部准教授, 比較内分泌学), 梅川純代 (日本大学非常勤講師, 中国性愛文化), 石井達朗 (慶應義塾大学名誉教授, 舞踊・身体文化), 小堀善友 (獨協医科大学講師, 男性不妊・勃起障害・性感染症), 佐々木玲子 (慶應義塾大学体育研究所教授, 発達動作学), 鈴木透 (慶應義塾大学法学部教授, アメリカ文化), 岡真理 (京都大学大学院人間・環境学研究科教授, 現代アラブ文学・パレスチナ問題・第三世界フェミニズム), 大串尚代 (慶應義塾大学文学部教授, アメリカ文学), 長沖暁子 (慶應義塾大学経済学部准教授, 生物学・科学社会学・女性学).



 すでに述べたとおり, 性はいまや比較的自由な語らいの場に置かれているとはいえ (あるいは, だからこそなおさら), 依然として人を困惑させている. それは, 単に恥ずかしい話題だからというだけではない. この概念によって指し示されるものがあまりに広範囲に散らばっているということも, 私たちの困惑の理由として挙げられるにちがいない.

 私たちは性について語るとき, その指し示しうるすべての事象について明瞭かつ詳細に語ることは事実上できない. 自分が焦点を合わせて語る当のものをまず明確にしなければならない.

 この話題にわずかなりと通じている者であれば,「性」に相当する英語として少なくとも「セックス (sex)」「セクシュアリティ (sexuality)」「ジェンダー (gender)」の3語が挙がるということ, それらがおのおの固有のニュアンスを帯びて使い分けられていることを知っている. このことは, これから読まれるそれぞれの議論でも折りに触れて指摘されたり, 暗黙のうちに参照されたりしている. 日本語ではそれぞれに対応する訳語が確定されなかったという事情もあり, 門外漢には意味あいがつかみにくいところではある. 講義録本体へと進む前に, これらの外来語の大まかな意味の核をあらかじめ確認しておくにしくはない.

 「セックス」は性差・性別を指すとともに, 実際の生殖行為としての性交に代表される性行為をも指す. それは, あらゆる性的事象が起動するにあたっての生物学的な基底に相当すると見なされる何かだと言ってもよい. つまり, 乱暴に言えばオスとメスのことであり, そのあいだでおこなわれるあれこれのことである.

 「セクシュアリティ」は, 単語の成り立ちからすれば「セックス性」,「性的であるさま」が原義である. それゆえ, 前述の「セックス」や後述の「ジェンダー」のニュアンスをも含みこむ, 広い外延をもつ概念として捉えられることもある (日本語の「性」が広い意味で用いられるばあいはそれに近い). だが, それは狭い意味では人間的な性の諸相を指し示すと言える. つまり, 生得的なものであれ後天的なものであれ, 意識的なものであれ無意識的なものであれ, 能動的に選択するものであれ受動的に受け容れるものであれ, 私たちのおのおのが, 人間として, 自分の心身において形を取らせる性的な布置のすべてである. 性行動の形 (さまざまな形態の性交, 自慰, 禁欲, 夢想など), 性的指向 (異性愛, 同性愛, 両性愛など), 嗜好 (フェティシズム, 嗜虐・被虐, 露出癖など) といったさまざまなファクターによって, 個々の人間が正常から—多少の別はあれ—逸脱しつつ心身にまとっている性欲・性愛の形のことである.

 この両者に対して,「ジェンダー」は制度的な性のありかたと言ってよい. たとえば「女性」というジェンダーは, 生物学的な女性たちが傾向的に示すと理解 (ないし誤解) されたさまざまな特徴を出発点として個々の文化によって恣意的かつ固定的に解釈・総合されてきた「女性のありかた」の全体を指す.「女性らしさ」「女っぽさ」などと呼ばれて肯定的にせよ否定的にせよ価値を付与される特徴のすべてがそこには含意される. (それが現実の女性たちの全体が示す共通の特徴から逸脱しているばあいも当然あるし, 実際の個々人がそのありかたと相容れない生きかたを望むばあいも多い. あるいは逆に, そのありかたを受け容れることに異を唱えないばあいや, それを受け容れていることを意識していないばあい, さらにはそれを意図的に受け容れたり, その裏をかいたりしているばあいもある.)

 このように, これらの概念はそれぞれにニュアンスを異にしている. とはいえ, これらのあいだに相互浸透が見られないわけではない. というより, 意識的か無意識的かを問わずなされるこれらの相互浸透からこそ, 私たちの性の喜びや悲しみは生じてくると言ってよい. したがって, 性についての慎重な語らい—たとえば今回の講座の11名の登壇者のかたによるそれ—に耳を傾けるときには, これらの概念のいずれに焦点が合わせられているかはもとより, 残る概念がそこにどのように絡んでいるかにも, つねに注意を払うことが肝要である.

 本書ではこの点に配慮して, 実際の講座で話されたのとは異なる順序で11のお話を並べている. まず自然科学から人文科学へというおおまかな流れを考え, そのあいだに, 双方に関与する技術や心理をめぐる議論を置いている. さらにその全体の流れの上で, 動物一般のセックスからヒトのそれへ, またヒトのセックスから人間のセクシュアリティへ, そしてセクシュアリティからジェンダーへ, さらに概念としてのジェンダーからジェンダーと社会との関わりへという移行を順に想定している.

 読者が, セックス/セクシュアリティ/ジェンダーの区別および相互浸透のありさまを段階的に捉えながら, それぞれのお話で展開されている議論の核心に無理なくたどりつけることを願っている.



2015年7月

極東証券寄附講座「生命の教養学」企画委員長 高桑和巳