agamben : user's guide
「交流用マルチ変換プラグ アガンベン使用法」
『[本]のメルマガ』2000年6月5日. (限定配布)


ジョルジョ・アガンベン『人権の彼方に』(高桑和巳訳, 以文社, 2000年5月) の刊行後, ほぼ1ヶ月にわたり, 『[本]のメルマガ』がこの本の販売をおこないました. このテクストは, この委託販売に際して, 翻訳者からの一言として添えられたものです.



 思考の舞台であり軌跡であるかぎり, 本はそれ自体で意味をもっている. ジョルジョ・アガンベンという個人が思考によって切り開いた道をまずはたどり, そのつどその先に垣間見えた到達点へと導かれ, さらにはそこを通過することが, この本を読むことのすべてだろう. すべてとはつまり, 望んで得られる愉しみ, 向こうからやってくる悦び, 汲みとるべき問題提起といったもののことだ. 本の名にふさわしいあらゆる本と同じように, この本についても, こうしたことは自明であり, あえて強調するまでもない.

 しかし, 「本はそれ自体で意味をもっている」という表現は, 孤立した思考が本という場を得て内在的に定着されたという誤解を生じさせかねない. 思考が世界からの引きこもりという契機を保ち続けるのは事実だとしても, 実を言えば, ここでの思考はむしろ, 世界のうちにあって個的に得られた印象を, 引きこもりによって, 逆に多数の知性のうちに拡散させる活動だと言ってみることができる.

 そうした思考を展開するいわば多孔性の知性は, それ自体が多数の知性へと拡散していく可能性をもつだけではなく, さまざまな知性によってあらかじめ汚染されてもいる. その拡散と汚染が時宜を得て定着された本は, 読者にとっては, 数ある思考への接続を可能にする変換器にもなる.

 こうしたマルチ変換プラグは今までにもいろいろと入手することができた. すぐに思いあたるのは, ジョルジュ・バタイユ, ヴァルター・ベンヤミン, ジャック・デリダといった名, そしてとりわけジル・ドゥルーズの名だ.

 プラグの使い方には若干の注意が必要だ. あたりまえの注意なのだが, 忘れられることもあるので書いておく. まず, それぞれのプラグの特性をよく知ることが大切だ. それぞれのプラグには似たところも違うところもある. それから, プラグさえあれば何でもできると思うのは誤りだ. また, プラグは乱暴に取り扱ってはいけないが, かといって, プラグそのものを大事にしすぎるのは無意味だ. いろんなプラグをコレクションしたり, 次から次へと取り替えることなどは無意味のきわみだ. そのプラグを使って何ができるのかをそのつど考えるのが最も正しい使い方だ. もちろんだからといって, もともと想定されていたとおりの使い方をしなければならないわけではない. ともかく, 使えるように使う, という最も単純なことを念頭に置けば, まず問題はない.

 プラグにはそれぞれマニュアルがついていることがある. たとえば, この「アガンベン使用法」も, 簡素ではあるがその一つだ. マニュアルは, 使用がおぼつかない時に目を通すものであって, 使い方がわかってくればまったく不要になる. そもそもすべてのマニュアルは, 製品を(あらためて)使用した人(製品の製作者であることも最初の使用者であることもある)が, 使用にあわせて, 他の人による使用を頭でなぞりながら書いているものだ. (実際, ぼくは普段は以下のような図式で考えてはいない. ) たとえば, 文法はもともと言語と二次的な関係しかもたず, 文法の習得は言語の核心への到達を決して保証しないが, 文法を習得しつつ思考することが言語の使用の熟達を速めることがある. マニュアルとはこの文法のことだ. マニュアルの強調するプラグの諸特性は(そもそもすべてのマニュアルは強調以外のことをしたことがなく, 大事なことしか書かないと常に主張している), プラグの製作者自身がそうした特性を目立たせていることがあるとしても(たとえば「禁止と侵犯」「パサージュ」「脱構築」「器官のない身体」など), いずれも, 仮に割り当てられ名づけられた特性であるにすぎない. いずれも, それ自体に意味などありはしない. (もちろん, なぜそうした仮の名が有効でありうるのかという問いが立たないわけではないが, そうした問いが立つ時には既にマニュアルは不要になっている. )

 本というのは, はじめは使い方がわからなくてもいじっているうちにわかるようになることのある便利なプラグなので, アガンベンがどのように思考を拡散させ, 思考を汚染されるにまかせるのかについて, マニュアルを整備する必要など実のところほとんどないだろう. 以下に読まれるのは, この本の末尾に挿入されてもおかしくなかった第二の—幾分ぎこちない—人名一覧である. それらの名はこの本の各所に—時として透明なインクで—書きこまれている.


 ヴァルター・ベンヤミンの著作はアガンベンの思考と切り離せない. 今のところ, ベンヤミンただ一人に捧げられたアガンベンの大部一巻の本は存在していないが, 既にアガンベンには少なくないベンヤミン論があり, のみならず, 彼はイタリア語版ベンヤミン全集の監修者を長らく務めていた. こうした事実を措くとしても, ベンヤミンの影はいたるところに見てとれる. 第二次世界戦争を超えてイタリアで賦活されたベンヤミンの亡霊の威を感じとるのはさほど難しいことではない.

 第二次世界戦争といえば, ヨーロッパ人にとっては何よりもまず収容所の出現として記憶されるものである. 収容所を可能にしたものを全体主義として明確に規定したハナ・アーレントの思考が, アガンベンが現代政治を分析するにあたって一つの重要な源になっていることに疑問の余地はない. 収容所を思考することによって, 以下の人々も参照されるだろう. クロード・ランズマン, ピエール・ヴィダル・ナケ, フィリップ・ラクー‐ラバルト, ソール・フリードランダー, エマニュエル・レヴィナス. 証言者としてのロベール・アンテルムプリモ・レーヴィらも見逃せない.

 アガンベンは, 全体主義における生政治の働きを中心的な分析対象にすることがなかったという点についてはアーレントに留保を設けている. 生政治ということで彼が参照しているのはもちろんミシェル・フーコーである. 生政治という視点の設定はこれからも有効だろう. ここでは, 異質と思われるかもしれないが, 講演「人間公園のための規則」で騒動に巻きこまれたドイツの哲学者ペーター・スローターダイクの名を挙げておく.

 アガンベンはというとイタリア人であり, アメリカやフランスの雑誌で「イタリアの哲学」や「イタリアの政治的思考」が特集される時にはほとんど常に姿を現してきた. しかし, こうしたレッテルに「イタリア料理」「イタリア旅行」などのもつ地方色の魅力以上のものを認めるには, とりわけ, 1960年代からの労働者運動の展開(珍しく持続力をもった)と70年代末からの政治弾圧という歴史が育ても歪めもした状況を把握することが必要だろう. 一方では, 高等教育の場での政治的思考の伝承が断絶され, 他方では, パリに亡命した知識人たちが新たな交流を模索した. 何よりもまずアントニオ・ネグリの名が思い浮かぶが, その他にもマッシモ・カッチャーリ, パオロ・ヴィルノ, アウグスト・イルミナーティ, マウリツィオ・ラッツァラート, マリオ・ペルニオーラなどの名を挙げることもできる. 彼らは時として酷似した思考を展開しているが, 事実しばしば, 同一の政治的範疇の構想に共同で参与してきた.

 同時代に, 時としてこの運動と緊密に接触しながら思考を続けていたのがジル・ドゥルーズであり, フェリックス・ガタリである. また, ポスト‐アルチュセール派とでも仮にまとめられるジャック・ランシエール, アラン・バディウ, エティエンヌ・バリバールといった人々である. 今ではここに, ヤン・ムーリエ‐ブータン, エリック・アリエーズなどを加えることもできるだろう. また, 少し離れたところにはルネ・シェレールもいる. 彼らはそれぞれにアプローチこそ異なるが, 解放の思考のための範疇を創造することを使命としてきた.

 アガンベンは若年にマルティン・ハイデガーの教えを受けたことを, ベンヤミンについてとは違う仕方で自分の糧としている. 引き受けられたのは「現事実性」に関する構想と「生起」に関する構想が中心だが, いずれにせよ「不安」の哲学を解放の思考へと転換するためにはいくつかの批判的な視点が設定されなければならなかった. テオドール・ヴィーゼングルント・アドルノジャック・デリダ, そして既に名を挙げたラクー‐ラバルトも, 異なる仕方でではあれそうした道を通過した. モーリス・ブランショの名を挙げてもいい. こうした立場にある人で最もアガンベンに近しいのがジャン‐リュック・ナンシーであることに疑いはない. ナンシーとの決定的な差異は, ナンシーの思考をいわば規定しているのがジョルジュ・バタイユの視点であるのに対して, アガンベンにとってはそれがベンヤミンであるというところにあり, この差異は, ベンヤミンがバタイユの秘密結社「アセファル」の試みをファシズムに加担するものとして叱責したという事実によって既に象徴的に示されている. ベンヤミンとバタイユの間の亀裂は, 今日もなお思考されるべきもののままである.

 ファシズムということで言えば, アガンベンの近年の政治的思考に逆説的に力を与えているのがカール・シュミットの思考であることを指摘しないわけにはいかないだろう. アガンベンがシュミットから借りるのは, 「主権者とは例外状態について決定する者のことである」という『政治神学』冒頭の有名な一節の含意と, あらゆる政治的概念は神学的概念の遺物であるという『政治神学』のモティーフである. 後者は, アガンベンの新刊『残りの時間』(この「アガンベン使用法」が公になる頃には刊行されているはずだ)でなされている使徒パウロのメシア主義の検討に重要な支えを提供しているヤーコブ・タウベス『パウロの政治神学』にも引き継がれている.

 アガンベンを取りまいている思考の星座は, 他にも提示の方法はいろいろあるだろうが, ざっとこのようなものだ.


 最後に, 『人権の彼方に』が捧げられているギー・ドゥボールも忘れないようにしよう. 状況主義者たちの中心に位置を占めていたドゥボールの遺産を, 彼の誇大妄想的かつ迫害妄想的な歪みを考慮に入れたうえで引き受けることには依然として意味があるはずだ. ドゥボールの『スペクタクルの社会に関する注解』とドゥボール夫人アリス・ベッカー‐ホーの『隠語の君子たち』とにそれぞれ捧げられたテクストが, 状況主義者的思考への接近の一つの方法を提示している. アガンベンが現在, パリのポスト状況主義者のグループ「ティックン」(ヘブライ語で現世での改革を指す)の活動を高く評価していることもついでに指摘しておく.


2000年5月29日
(ここに再録するにあたり, 句読点その他のタイポグラフィに変更を加えました.)