今日のデリダ
「今日のデリダ 死刑廃止論の脱構築」
『未来』no. 419 (未來社, 2001年8月), pp. 8–13.


 ジャック・デリダは今日, 何を思考し批判の対象としているのか ?



 彼は現在も,「責任の問い」という総題をもつ講義を社会科学高等学院で続けている. それに関連して発表されたテクスト, インタヴュー, 発言なども多い. 日本語訳はたとえば以下に見いだされる.



『歓待について』廣瀬浩司訳, 産業図書, 1999.

情況出版編集部編『デリダを読む』情況出版, 2000.

『言葉にのって』林好雄他訳, 筑摩書房 (ちくま学芸文庫), 2001.



 さらに, この周辺に位置する—同時代に書かれ, あるいは語られた—テクストを入れれば一覧はさらに膨らむし, それらをめぐって日本語で書かれたものもすでに少なくない.

 ここでは, 講義全体をカヴァーする「責任の問い」一般の射程を見極めるという無謀な企ては措き—それは各人がデリダの思考との距離を測りながら, たとえば今しがた挙げた諸テクストに触れることでなすべきことだろう—, その「問い」の枠内で近年採りあげられているある特定の主題について語ることで満足しよう.

 その主題とは, 死刑廃止論の脱構築, である. 1999–2000年度から現在まで継続されている,「死刑」をめぐる講義がこの問題を扱っている. その最初の1年間, 私はこの講義に出席することができた. 以下では, この問題の全体を理解するうえで不可欠と思われるいくつかの点を挙げ, 自分の理解しえたかぎりでその議論の射程を素描しようと思う. なお, 言うまでもないが, 以下, デリダの主張として書きつけることは, 彼の言葉から私個人が聞き分けたものにすぎず, (ないことを祈るが) 誤解を含んでいるかもしれないということを断っておく.



 死刑廃止が世界的規模で今日的な問題である—むしろ, 今日的な問題となったまま時が経っている—ということについては説明を要しないものとしよう. ここで私たちがさっそくまなざしを向けるのは, デリダが死刑廃止という問題の圏域において何を問題としているのか, この一点である.

 あらかじめ確言しておくが, デリダははっきりと死刑廃止に与している. デリダが目指すのは, 死刑廃止論が, その意に反して死刑廃止という目標への到達を妨げるかもしれない点を, 脱構築可能なものとしてあばくということである. 実際, それらの点が逃げ道となって, 死刑制度が維持されるということがあった.

 それらの点をこれこれの新制度の提示によって一気に払拭することは, おそらく不可能だろう. にもかかわらずデリダがこの作業を遂行するのは, 死刑制度維持の論理に加担してしまっているものをそのつど問い糺すことによってしか死刑廃止論に力を与えることはできないからだ. 正義はそのつど新たな決定においてその可能性を追求される. 正義とは, 安定的に到達したり安定的に規定したりすることのできないものなのだ. ここでの脱構築とは, 正義を求める不断の作業に与えられた名に他ならない.



 読解の対象は多岐にわたっている. 死刑廃止論者の祖とも言われるチェーザレ・ベッカリーアの『犯罪と刑罰』(1764), フランスにおける熱烈な死刑廃止論者ヴィクトール・ユゴによる憲法制定議会での発言 (1848) をはじめとするテクスト, ロベール・バダンテールがビュフェとボンタン (脱獄を図るにあたって看守を殺害した囚人) の弁護をした経緯を記した『死刑執行』(1973), ジャン・ジュネの『花のノートル・ダム』(1948), アルベール・カミュの『異邦人』(1942), フリードリヒ・ニーチェの『道徳の系譜』(1887), イマヌエル・カントの『判断力批判』(1790), モーリス・ブランショの「文学と死への権利」(1948), そしてまた「人間と市民との権利の宣言」(1789) や「世界人権宣言」(1948) などである. 処刑機械ギヨティーヌの発明者ジョゼフ‐イニャス・ギヨタンの発言やギヨティーヌの比喩化されたさまざまな形象 (「血呑み女」など), ユゴを皮肉ったシャルル・ボードレールの批評なども分析の対象となった.

 以下ではデリダによる読解のすべての局面を詳細に追うことは避け, 彼の問題提起を浮き彫りにするいくつかの点を明らかにしたいと思う.



 死刑廃止論を支えている典型的な論拠として,「死刑は残酷だ」という, 最も自明と思えるものがある. たとえば, アメリカ合衆国憲法には「あまりに残酷な, 尋常でない処罰」を禁ずる条項があり, 死刑が憲法違反だという判決が1972年に下された時は, 死刑はこの条項に抵触するものとされた.

 ところが, アメリカ合衆国では, 死刑執行方法の技術的改善によってこの条項が満足させられてしまい, 1977年には死刑が復活した. その改善とは, 麻酔による安楽死の導入のことである. 苦痛を感じない状態へと移行させられた身体はもはや, 「あまりに残酷」な処罰を受けることがない, というわけだ. デリダはこの点において, 死刑廃止論における残酷イデオロギーを脱構築可能なものとして批判する.

 残酷さは, 血を見ること (公的権力が公的に血を目にすること) と結びつけられてきた. アントナン・アルトーにならって「残酷演劇」と呼ぶこともできるこの傾向は—アルトーはこの同一の範例において思考した1人だと言える—, 残酷さへの心理的抵抗から, 少しずつ軽減されてきた.

 だが,「権力は罰せられる者が死ぬのを見ることを欲する」という原則にはいささかも変更は加えられていない. たしかに, ギヨティーヌその他によって血を見る死刑から, 電気椅子や薬物注射の使用へと技術は「進歩」し,「血を見ること」は次第に少なくなっているし, かつて公開されていた処刑は, 限られた関係者の臨席のもとでおこなわれるものになっている. だが, 実際に処刑に立ち会う人が減っているにしても, たとえばテレビや映画などの媒体を通じて, 処刑そのものは, 潜在的には, かつてよりはるかにスペクタクル化している. 死刑囚が自殺しようとすると処罰される, という慣習の存在も, 権力が殺害をスペクタクル化する権利を保持するためであると考えなければ理解できない. (日本での事情がさらに異なり, 近親者にさえ事後的に処刑の事実が知らされるにすぎないということはここでは措く. 日本政府による死刑制度の維持は, まるで死刑の瞬間が存在しないかのようにしてなされている.)

 死刑廃止論の支えとなる別の議論として,「死刑は非人道的だ」というものがある. これもまた, ある局面では無力さを露呈する.

 そのことを知るには, ギヨティーヌの発明の経緯について考えてみてもよい. 発明者ギヨタンはそもそも, かつての処刑よりも「人道的」なものとしてこの機械を構想した. 少なくとも原則的には, 苦痛が瞬間へと縮減され (ギヨタンの主張によれば, この機械的斬首はあまりに瞬間的なので, 受刑者は自分の首がいつ飛んだのかもわからず, 首筋に刃がひやっと当たるのを感じるだけだという !), しかも機械仕掛けによって, 刑罰に平等性が確保される.

 また,「人道的なもの」は, 人間の「尊厳」ないし「人間らしさ」, 法が人間に与える「しかるべき」「ふさわしい」姿といったものに結びついている. しかし実を言えば死刑は, まさにこの「尊厳」のために要請されてきた. プラトンの『法』においても, 死刑にさえ値しない者とは, 人間の尊厳に値しない者のことである. カントにおいても, 死刑は, 法における人間性を主張するために欠かせないものとなっている. 法制度は, 死刑を要請することによってはじめて, 人間と非人間とを判別する力を (つまりは法の基礎を) 獲得する, とされる. 死刑囚は, 処刑されることによって, かろうじて人間の尊厳を獲得する.

 死刑制度を肯定するために, この「尊厳」の論理を逆のしかたで用いる伝統もある. すなわち, 死刑囚とは社会に対する公敵に匹敵する者であり, それはいわば人間の共同性の外部に置かれる者, 戦争状態における敵, 例外状態において尊厳なく排除されるべき者だ, というのだ. 死刑は, 一市民を公敵と見なしてなされる戦争行為であるとされる. この論理はジャン‐ジャック・ルソーにも見られるし, ベッカリーアにも見られる.

 あるいはまた, 死刑の正当化は, 死刑に処せられる者を, 異なる信仰をもつ者と見なすことによってもなされてきた. これも例外化の権力の行使の一例と言える.

 例外化はまた, 恩赦 (死刑からの救済) の権力としても保存される. 恩赦 (つまり情け) とは, 権力者が生殺与奪権を保持するために必要な装置である. ここでの主権権力とは, 単に殺害する権力なのではなく, 殺害することも赦すこともできる権力, 殺害するという決定を自由に選ぶことのできる権力である. 例外状態を決定する者として主権者が措定されるのは, まさしく, 神学の遺構としての政治的制度である (ここではカール・シュミットによる議論が陰画として用いられている).



 こうした弱点をもつ死刑廃止論を新たな展開へと導くにはどうすればよいか? デリダは大きく分けて2つの議論を展開する.「利」に関する議論と,「感覚」に関する議論である.



 ボードレールやニーチェは死刑廃止論者に対して, ある皮肉な態度をとっている. それはつまり,「死刑廃止を主張することはおまえたち自身にとって利となるのではないか?」ということである.

 デリダは, この「利」がつまるところ否定しきれないものであることを認める. 彼は, むしろこの「利」を逆用し, ある意味で肯定することができるのではないかと主張する. そのために彼は, この「利」が否定されるべきものとされている範例そのものを批判の対象とする.

 たとえば, カントにおける法の範例がこの「利」を否定している. カントは, 人間の生の尊厳はあらゆる利 (利害, 利息) を超越したものだと言う. カントの法の体系において死刑が否定されないのは, それが, 利を排除したところに置かれるものだからである. 司法はその総体が, 私的な復讐ではない判断の場であるために, 利のない場として想定されている. これは当然のことと思える. そのつど私利によって判決が左右されるのであれば, 法制度はそれ自体において自滅するより他はない.

 だが実を言えば, この利を欠いた場は, ある隠れた利によって作動させられていると思われる. この利を「純益」とでも呼んでみることができる. この「純益」の論理は, カントの『判断力批判』にも容易に確認できる. 美的判断自体が, 利を排除することによって成立する. ショーペンハウアーを経由してニーチェが排撃したのが, 美ないし感覚に対するこの「利の排除」というカントの姿勢だったことはよく知られている.

 さて,「純益」にもとづく死刑は, 権利主体を発生させた商業からの派生物かもしれない. 死刑を, 刑法のではなく商法の派生物と見ることによって, 死刑のもつ経済的側面を積極的に批判することができるようになるだろう. 単に計算であるような死刑—技術の「進歩」とともに, この制度はますます「純益」にもとづく計算へと還元されている—を批判するためにできることはこのことをおいて他にない.

 しだいに縮減されていく, 死刑における「残酷さ」や「利」を, 従来とは違う仕方で, 死刑廃止論のために流用することが求められる.

 そもそも,「純益」ではない「利」は, 商業における「約束」と切り離せない. あらかじめ計算されるに任せないものである. それは, 経済においてつねに前提されていながら, 経済と見なされているものからつねに逃れるものだ (純粋な計算はこのことを見えなくさせる). 商業における「信用」—宗教的な「信」はここから派生したものかもしれない—も, これと同様である.

 デリダは,「信」と「残酷さ」がともに反対物をもたないと言う. この反対物のなさが,「純益」の経済においては見えないものになってしまうのであり, その経済の限界内で死刑廃止を主張していても, それはつねにすでに脱構築可能なものにとどまるだろう, というのだ.

 では, 脱構築をおこなうにあたって支えになる「利」はどのようなものか? それは—そもそもこれこそ「責任」の正体なのだが—, どのように規定することができるのか?



 それは, あらかじめ言ってしまえば, 自らの有限性に対する利であり, 感覚への利である.

 死刑廃止論が有効な効果をもたずにいるのは, 麻酔による安楽死がしだいに広範に採用されていることと軌を一にしている.

 残酷さを非難された死刑制度は, その残酷さが感覚に結びつくものであることから, 感覚を排除することによって自らを維持するという道を選んだ. あたかも, 麻酔 (感覚の抹消) さえおこなえば, 人間を殺害することのもつ意味 (ここでは残酷さ) について言及せずにいることができるというかのようだ.

 ここで死刑制度に抗して要求すべきなのは, まさにそこで奪われているもの, すなわち感覚である.

 この感覚というものがどのようなものなのかを見るために, デリダは, 死を待つものとしての2つの形象を挙げる. 一方は, 実際の「死刑囚」(condamné à mort) であり, 他方は, それを譬喩とする「死へと断罪された者」(condamné à mourir), つまりハイデガーのいう「死へと向かう存在」(Sein zum Tode) である.

 デリダはこの2つの違いを強調する. どちらも死へと定められてはいるが, 後者が, 自分がいつ死ぬのかについての知をもたない可能性をもち続けるのに対して, 前者は, 自分の死ぬ瞬間が定められうるものであることを知っている状況に置かれている (自分はその時間を知らないかもしれないが, 誰かが知っているということは知っている). この, 死の瞬間が定められているということに対する知の有無が両者を隔てている.

 デリダによれば, それを知らないということが受動性のすべてを, 感覚のすべてを基礎づける. 死刑囚は, 自分の死が見られるものとなることの不可能性を奪われている, と言ってもいい. そして, 今や制度は, この「感覚」の剥奪の装置を隠蔽するかのように, あらかじめ「感覚」を奪う手段を採用し,「残酷さ」を抹消しようとしている.

 そこで働いているのは, 死の瞬間を計算のうちに入れてしまう権力である. 今, 要求できるものがあるとすればそれは, この権力に対して抵抗することである. その抵抗は, ある種の「利」に依拠することによって, つまりはある種の「責任」—自分の死への知の不可能性を維持すること—に依拠することによってなされる.

 麻酔の「優しさ」とは異なる, 感覚 (それは「残酷さ」になることもある) を失わない存在の力を擁護するためにこそ, 死刑廃止は主張されなければならない.

 今回, 未來社から日本語訳が刊行されることになったカトリーヌ・マラブー編『デリダ』のオリジナルが発表されたのは1990年のことだった. それは, デリダの政治的転回 (ないし正義論的転回) と見なされる方向転換—少なくとも外見的にはそのように見える変化, その種の傾向の顕在化—が,『法の力』その他の発表によって確認されるようになる時期である. 死刑廃止論を検討するデリダがその転回の延長線上にいることは言うまでもない.

 デリダのおもむきがいつを期に変わったかというたぐいの詮索がここでの優先的課題でないことはたしかだが, いずれにせよ, この時期と前後して, デリダの読者たちもまた, ある者は自らの身振りの同様の「転回」によって, またある者はデリダのテクストを読むことによって, そしてまたある者は世界の布置の変容に反応することによって (あるいはそれらの姿勢の複合的関係のうちに), デリダのテクストを読むにあたっての姿勢を, 微妙にであれ突然にであれ変化させてきた.



 今回お手もとに届けられることになったこの本は, 16人のいずれ劣らぬ魅力的な文筆家 (アガンベン, ブランショ, ラポルト, リオタール, ナンシー, …) が, その転回点にそれぞれのしかたで身を置き, 自らの読みを提示しているという点で興味深い.「責任の問い」の前夜あるいは夜明けにあって記された文字 (あるいはその行間) に何を読みとり, どのように使用することができるか? この問いに対する応えを見いだすことは私たち読者へと委ねられている.