はじめに
「はじめに 「あらたま」を探し求めて」
高桑編『新生 生命の教養学X』(慶應義塾大学出版会, 2014年7月), pp. i–xi.


 「生命の教養学」は, 慶應義塾大学の日吉キャンパスに拠点を置く「教養研究センター」が開講している講座である. この講座は, センターの活動に対して極東証券から長きにわたって寄せられている深いご理解・ご支援を承けて運営されている. 2013年度は, 2004年度に講座が授業科目となって10年めにあたる. この講義録は慶賀すべきその10回めの模様をお伝えするものである.

 この講座は前年度から, 週替わりでゲスト・スピーカーのかたにご登壇いただくオムニバス講義という形式を採っている (前年度の内容はすでに『生命の教養学IX 成長』にまとめられている). 2013年度もそのスタイルを踏襲している.

 個々の年度の講座を企画するにあたってコーディネイターたちの共通認識となっている大まかな方針は次のとおりである (以下はその『成長』の冒頭にも書いた文言だが, 大きく変わらないはずの原則なので繰り返しておく). 1. 講座名にある「生命」を, あらゆる学問分野からアプローチ可能なだけ広い意味を含みうる概念として捉えること. 2. 年度ごとに, その広い意味での「生命」現象にとって本質的と思えるサブテーマを設定すること. 3. そのサブテーマをめぐって人文科学, 社会科学, 自然科学等の研究領域をそれぞれに代表する研究者にお話しいただくこと. 4. そのお話を承けて, 受講する学生のそれぞれに「教養」的視座から「生命」について自分で再考してもらうこと.

 (「教養」的とはここでは, 特定の学問分野におもねることなく思考の材料を広く求め, とはいえ各分野の厳密さによって得られた成果には充分な敬意を払い, そのようにして得られた雑多な材料のすべてをもとに新たな知の組織を自分なりに工夫する, というほどの意味である.)

 サブテーマの設定は, 当講座のコーディネイター一同の合議によって決定される. 今回の企画に関わったコーディネイターは, 各学部で研究・教育にたずさわるかたわら教養研究センターに兼担で所属する7名の教員である. 以下, 所属と専門分野を添えて名前を列挙する (50音順, 敬称略). 小野裕剛 (法学部, 生物学), 片山杜秀 (法学部, 政治思想史), 小瀬村誠治 (法学部, 化学), 鈴木晃仁 (経済学部, 医学史), 高桑和巳 (理工学部, 現代思想), 高橋幸吉 (商学部, 中国文学), 鳥海崇 (体育研究所, 水球・コーチング).

 2012年9月に開かれた会合ではさまざまなサブテーマ案が披露されたが, 奇妙なことにそのほとんどが1つの発想 (片山さんによるもの) に収斂していくように思われた. その発想を説明的に叙述するなら,「広い意味での生命現象のなかにある, ガラッと変わる不連続な部分, そしてその部分を超えて生まれる, ないし廃される何か」とでもなる. その不連続な部分が周期的に到来するというのも特徴であり, 死と再生, 生まれ変わりといったものとも関わりをもっている (会合では, 祭祀・儀礼, 活性化, 更新, 復活, 脱皮, 代謝, 適応, 突然変異, 世代交代といったキーワードも挙がっていた).

 議論のすえ, この発想を「新生」という単語に集約することが決まった.

 しかしながら,「新生」という単語は説明を要さないもの, 自明なものではまったくない. たとえば, 前年度のサブテーマに選ばれている「成長」と比べても, 日常における使用頻度には明らかな差がある. あえて言えば, 日本長期信用銀行が「新生」した後の名称としてわずかになじみがある程度である.

 なるほど, イタリア文学をかじった人であれば, ルネサンスの大立者ダンテ・アリギエーリが13世紀末にまとめた自註つき詩集のことを考えるかもしれない—とはいえ, それは代表作『神曲』に比べれば知名度の低い作品ではある. また, キリスト教 (とくに宗教改革以降のそれ) に関わりのある人であれば, キリストによる贖 [あがな] いを承けての信者の義認 (原罪から救われて義とされること) から導かれる新たな誕生 (霊的な生まれなおし) を思い浮かべるだろう.

 しかしながら, これらの事例においても「新生」の響きがどことなくぎこちないことに変わりはない.「新生」はつまるところ,「vita nuova」や「new birth」といった表現をとりあえず翻訳したものというニュアンス (要は「バタ臭さ」) を感じさせずにはいない.

 (半笑いで付け加えれば,「新生」はさらに, 会合の数ヶ月後にあたる2012年12月に到来するはずだった怖ろしい「マヤ暦の終了」と「世界の滅亡」, あるいはそれと軌を一にして起こるにちがいなかった驚異的な「地球のフォトン・ベルト通過」や「惑星ニビルの地球最接近」と「人類のアセンション (次元上昇)」, さらにはそれと前後してすでに観察されている「クリスタル・チルドレン」や「レインボー・チルドレン」の輝かしい誕生といった疑似科学的霊性の「うさん臭さ」をも, ばあいによっては感じさせるかもしれない. 言うまでもないが, 私たちの探ろうとしている「新生」とそれらの狂信のあいだには何の関係もない. それらが, 千年王国を希求するキリスト教的終末論のなれの果て,「新生」待望の戯画であるという一点を除けばである. ある意味では, 世界は別のしかたですでに破局を迎えているし, 別のしかたで「新生」すべきものだということを, 幸か不幸か私たちの多くはすでに身をもって知っているのではないだろうか ? そのことを知るために, 私たちはあらかじめ「インディゴ・チルドレン」である必要などなかった.)

 日常的な用法すら定着していないのだから, アカデミズムにおいて「新生」が用語化されているということなどなおのことありはしない.「新生」は, 生命科学をはじめとする自然科学においてはもとより, 人文科学においても社会科学においても, すでに挙げた用例を超えたところに充実した確固たる意味の拡がりを獲得などしていない. ということは, 何の補足説明もなしに「「新生」についてお話しください」と依頼をさしあげて二つ返事でお引き受けいただけるかたなど, ダンテの研究者か宗教改革の研究者のなかにしか見あたらないだろうということである. もとより, 私たちの意図するところは (ルネサンス研究やキリスト教研究を排除するものでないのは当然だが) それよりはるかに広い. だとすれば, 多分野のゲスト・スピーカーのかたにご登壇のお願いをするにあたって, それなりにくどい説明をさしあげる必要が生じてくる. 以下がその説明である.

 「来年度は「新生」をテーマに選びました. 本講座「生命の教養学」では例年, 講座名に含まれる「生命」の意味を可能なかぎり広く捉えております. そこには, 生命科学で扱われる当の対象のみならず, 社会生活や人生, あるいはまた生命の類比で語りうるあらゆるものを含ませております.「新生」について申せば,「無脊椎動物における変態」や「再生医療」などはもちろんのこと,「企業におけるイノヴェイション」や「コミュニティの再生」, あるいはまた「宗教における生まれ変わり」や「ルネサンス」などが無理なく含まれる, そのような概念として構想しております. 広い意味での生命において, 当の生命が「あらたまる」こと [を指す概念です]」.

 この贅言を寛容に受けとめご快諾くださった11名のかたを, 肩書き (当時) と専門分野を添えて実際のご登壇順に列挙すれば次のとおりである (敬称略. より詳細な略歴はそれぞれの講義冒頭に記載されている). 宮下志朗 (放送大学教養学部教授, 書物史・ユマニスム研究), 牛場潤一 (慶應義塾大学理工学部准教授, 脳科学・リハビリテーション工学), 飯盛義徳 (慶應義塾大学総合政策学部准教授, 地域イノベーション, ファミリービジネスマネジメント), 清水聰 (慶應義塾大学商学部教授, マーケティング), 渡辺靖 (慶應義塾大学環境情報学部教授, 文化人類学・アメリカ研究), 石川公彌子 (学習院大学非常勤講師, 日本政治思想史), 日高千景 (慶應義塾大学商学部教授, 産業史・経営史), 岸由二 (慶應義塾大学名誉教授, 生態学・都市再生研究), 上枝美典 (慶應義塾大学文学部教授, 哲学), 倉石立 (慶應義塾大学文学部准教授, 発生生物学), 藤原晴彦 (東京大学大学院新領域創成化学研究科教授, 分子生物学).

 ご登壇くださった皆さんが「新生」という未確定の意味の拡がりをどのように捉え, ご自分の研究に引き寄せた回答を試みてくださったかは本書につまびらかである. コーディネイター一同も講座の受講者たちも, そしてまた本書の読者の皆さんも,「新生」という単語がこれほど豊饒な意味の拡がりを備えうるとは想像していなかっただろう. それはひいては「生命」という単語のもちうる含意の拡がりを再確認させてくれることにもつながった.

 (なお, ここで編集上の諸点を言い添えておく. 第1に, 本書の編集にあたっては読みやすさを考えてお話の順序を入れ換えている. だが, もちろんその配列に絶対的な基準があるわけでもないし, お話を本書の順序で読み進めなければならないわけでもない. 第2に, ご登壇者のうち日高さんは, 講座でお話しになった内容—産業の「成熟」と, そこからの「脱成熟」の契機に関するもの—があくまでも初学者向けのものであり出版に値するものではないとのご判断から, 本書へのご講演の収録をご辞退になった. 私たちはもちろん日高さんとは異なる判断をしていたため大変残念だが, 本書に収録されているのはしたがって10名のかたのご講演である.)



 「新生」への10のアプローチの実際について, ここで要約めいたことをするにはおよばないだろう. そもそも, それらのアプローチの多面性は要約にそぐわない (逆説的なことだが, 教養に関わる事柄においては要約は逆に散漫さ, 冗長さを生むことがある). むしろ, それらの「新生」が共通にもっているかもしれない含意をまったく別の観点から粗描するにとどめたい.

 ゲスト・スピーカーの皆さんにご登壇をお願いするにあたって私が何の気なしに使った「生命が「あらたまる」」という言葉遊びのことをもう少し考えてみよう. 無粋な説明をすれば, これは「新 [あら] たな」生がじつのところ「改 [あらた] まった」生だという地口である.「new」と「renewed」が等号で結べるということが文字どおり表現されているのがこの大和言葉「あらた」だということである.

 それはまるで, もともと「新しい」ということに, 単にゼロから何かが生ずるということだけではなく, かつての何かがあらためて生ずるというニュアンスが必然的に含まれているというかのようである. 1番めの何かは, それが新しいかぎりにおいて, じつは必然的に2番め以降である, とまでは言わずとも, すでに序数で勘定されるものであるかのようである (というのも, 単独にとどまるものには本来, 基数は適用されても序数は適用されないのがふつうと思えるからである). これに関しては, 2013年3月に即位した教皇フランキスクスの呼称についての些細な騒動が思い出される.「1世」は本来,「2世」が即位してはじめて「1世」と称されるはずなのに, それをはじめから「1世」と呼んでしまった人たちが少なからずいた. しかしある意味では, じつはその人たちこそ,「新た」であることをよく理解していたのかもしれない.

 さて, その大和言葉「あらた」について, 語源を少し参照してみよう.

 (身も蓋もないことを先に言っておけば, 語源に立ち返ったからといって複数の単語のあいだの現在の類縁性について何かが確実に言えたことになるわけではない. 語源上は同根でも現在は意味のつながりを互いにまったく失っているような単語群については, 語源談義は現在の十全な意味理解に寄与しない. 語源は, かつてあったとおぼしい何らかの意味の拡がりが現在においても命脈を保っているということを信じこませる方便である, とまで言ってしまっては批判的に過ぎるだろうか ? ただ, そうは言っても語源にもそれなりの効用はある. 現在の私たちが日常的な言語運用のなかですでに漠然と類縁性を感じていたり, なかば無意識のうちに結びつけて駄洒落を作ったりしている複数の表現のあいだに, 意味上の共通の核となるものがまだ生きているのを感じたような気にさせてくれる, というのがそれである. 故事や民間語源も同じ効用をもちうるが,「教養」は科学的な語源学だけを許容する. ここではあくまでも科学に—門外漢の怪しげな理解だとしても—とどまることにする. 各種辞典に加え, とくに大島正健『國語の語根と其の分類』(第一書房, 1931年) を参照する.)

 まず,「新 [あら] た」と「改 [あらた] まる」の意味的な類縁性を含め, それらの共通の由来からの説明を参照してみる (なお, 以下では用言は連体形で示されている).

アルル (生) は生まるるなり, 無より有の生ずるなり. 是より語幹のアラ出でて新の義と爲る. アラヤ (新家), アラテ (新手), アラミ (新刄) のアラの如し. アラにの添はりて, 形容形のアラタ (新) と爲り, アラタシキ, アラタナルと云ふ語生じ來る. アラタシキは古言にして, ラタを顛倒したるアタラシキと同義なり. アラタムル (改) はアラタムルの添はりたる動詞にして, 基本義は新たにすることなり. 更に遣り返す, 調べ直す義と爲りて, 糺すといふ義に移る.

(大島『國語の語根と其の分類』150頁)


つまり,「あらた」は生まれたての状態ということである. だとするとやはり,「あらためる」は, 生まれたての状態にするという一種矛盾をはらんだ行為であるということになる. その行為の対象は理論上, 生まれに先立ってすでに存在しているのでなければならない (大島は「洗 [あら] う」も同根としているが, そこにも同一の矛盾が確認できる).

 さて, この「新の義と爲」った「あら」だが, これが「ある」から別の展開を見せてもいる.

アル [有] は存在を表はし, 在の儘の義を示す. アルより出でたる語幹のアラは形容形と爲りて [...] アラタマ (粗玉), アラガネ (粗金) などの如く存在其儘にして人工を加へざる義と爲る. /次にアラは粗製にして人工を加ふることの精巧ならざる義に用ゐらる. アラカベ (粗壁), アラゴモ (粗薦), アラト (粗砥) の如し. 日常使用の雜品をアラモノと唱ふるは, 精巧なる美術品に對して言ふことなるべし. /アラは又單に細に對する粗の義に用ゐらる. アラガウシ (粗格子), アラグシ (粗櫛) の如し. アラレ (霰) は粒の大なる者にして, 雨や雪に對しては, 粗の義を表はすことなるべし. アラは更に粗略の義に轉ず. アラマシ (大略), アラヅモリ (概算) の如し. アラカジメは豫定の義なり. 文の末にアラアラカシコ (粗粗畏) などと記するアラは大略の義なり. /アラは更に粗惡の義と爲る. 人のアラは人の缺點, 魚のアラは魚の骨にて, 何れも良き部分を取り除きたる廢物に對して用ゐらる.

(大島『國語の語根と其の分類』147–148頁)


「粗 [あら]」と「新 [あら]」はこのように別項で説明することも可能だが, 両者の意味上の近さは明らかである. 生まれたまま (「在の儘」,「存在其儘」) で, 時間や人の手の介入がない (ないし乏しい). それゆえに新鮮味に充ち, 鮮やかであるとともに粗雑でもある, というほどの意味の核が無理なく想定できる. ここでもやはり, 何かを「あら」にすべく働きかけることは矛盾をはらんでいる. 働きかけられずにあることがそもそもの「あら」だからである.

 さて,「粗 [あら]」の由来とされている「有 [あ] る」が単なる存在動詞ではないことはここから類推される.「生 [あ] るる」が誕生を表すことも示唆的だが (「無より有の生ずるなり」), 単に存在するのではなく, 存在が目に見えて出現するというニュアンスがおそらくは想定できる. これについては,「あら」に「は」が付されたものが強力な傍証になる (「アラの添はりたるアラハは, 隱れて存在する物の表面に出づる義なり. 之を基として, 自動詞現ハルル, 他動詞現ハスの二語出づ [...]」(150頁)).

 「ある」のもつこの現象のニュアンスについては他の説明も可能である.「あ」に「か」が付されたものについての, 別の研究者による説明を参照しよう.

[...]「赤 (アか)」と「明 (アか) るい」等は,「ア」という共通の語根をもつ. その意味は,「黒 (クろ)」や「暗 (クら) い」という語根と対立していると言えば, 一目瞭然であろう. 明るくはっきり見える色が,「赤」であった.「アか」はすみずみまで明るくよく見える状態のことだから,「明らかになる (また道理や事情に明らかになって「諦める」)」という意味にもなる. さらにものが目に見える状態にあることなので, ものが「在る」ということ, つまり明るみの中にものが現出してくること, という意味にもなると考えられる (現象はドイツ語では, Erscheinungと言うが, Scheinは光の意味で, 日本語との共通性を探れる).「在る」は,「生 (なる)」から転じたとか, また「新 (あら)」に通じるとの諸説があるが, 一貫性のある思考に関連づけて説明できるので,「明」と共通するという説をとりたい.

(岡田勝明「言語の哲学と語源をめぐって」, 吉田金彦編『日本語の語源を学ぶ人のために』(世界思想社, 2006年) 247–248頁)


「ある」において「明」と「新」は互いを必ずしも排除しないという注文さえ付ければ, この説明をそのまま私たちの文脈に導き入れることもできそうである.「ある」において, 存在は現象である. 現象とは世界への出現であり, 目に見えるしかたで剥き出しになっているということである. 以上を承けて, 次のように定式化してもいいかもしれない.「あらたなものは, あきらかに, あかるみに, あらわに, あらわれて, あかい, あらいものとして, ある」.

 ただし, それが「あらためて」のことであるということが,「あらた」なものに関する未解決の矛盾ではある. それは, 新たな出現がすでに繰り返しを前提とし, 序数化されているという謎である.

 ここで考えたいのが枕詞「あらたまの」についてである.「年」「月」「日」「春」「経 [へ]」「来経 [きへ]」などにかかるが, 語義は不詳とされる. この枕詞は「あらたまの年行きかへり春立たばまづわが宿にうぐひすは鳴け」(大伴家持),「ただ一夜隔てしからにあらたまの月か経ぬると心惑ひぬ」(湯原王) などに見られる. 推察されるのは, これは時間の経過, そして何かの周期的到来をぼんやりと喚起する役割を担っている形容語句だということである.

 「あらたま」が実際に「たま」であれば話は早い. つまり, 月ないし太陽である. 新月は29日あまりに1度, 朔日 [ついたち] (月立 [つきた] ち) として新たな期間を開始する. 太陽も, 月よりもはるかに頻繁にではあるがやはり時間の流れを改 [あらた] め, その赤 [あか] い光とともに夜が明 [あ] け, すべてを明 [あか] るくする (すべてを現象させる現象であると言ってもいい). 私としては, 枕詞に仕立てるほどの古代人の周期への思い入れを考慮に入れれば, これは月のことだろうと考えたいところである (一見すると太陽説のほうが説得力がありそうだが, 思いを寄せるには日周運動というのは速すぎるもののような気がする. あるいは, 冬至もしくは春分が念頭にあるのだろうか...). ともあれ, 本当の語源は門外漢にはわからない. たしかに私の試みたような解釈もすでにありはするが, その一方で, これが「新 [あら] たな間 [ま]」である, あるいは単に地名由来であるとする説なども同様に存在している.

 正確な語義はこのように不明だとしても, それでも「あらたまの」が口にされるとき, ちょうど指輪が「輪 (ラテン語でannellus)」として指を周回しながら記念日を「年 (同じくannus)」ごとに円環的に喚起するように, ともかくも「たま」の丸みによって循環の感覚が呼び覚まされ, 矛盾に充ちた「あらためて」の「あら」(再度の新品/粗い品) が, ついに, ごく自然に呼び起こされるに至る. 太陽であるか月であるかさえわからないもの, しかし周期的な現象の更新 (更新の現象) を体現するもの, それが「あらたま」である.

 それはきちんと神格化されれば天照大神 [あまてらすおおみかみ] やペルセポネー (娘神コレー), 不死鳥 [フェニックス] のような存在にもなりえたかもしれないが, 曖昧に実詞化されるにとどまった. もしかすると枕詞は (少なくとも「あらたまの」に関するかぎりは), 神格化に達しない微妙なアニミズム的感覚を起動させるために故意に神未満とされ, 不明瞭とされた合い言葉なのかもしれない. 確固たる神にはおよばないが, だからこそかえって現象の更新 (更新の現象) を体現することのできる, 曖昧な何か.... そのような漠然としたものにかろうじて与えられたのが, この枕詞に姿を現す「あらたま」という謎めいた実詞ということなのかもしれない.



 怪しげな語源談義はここまでにしておく. これから読者の皆さんには, あらためて, 気持ちも新たに, 本書で披露されているそれぞれのお話に向かっていただくことになる.

 それぞれの講義には「新生」という単語ももちろん姿を現すが, その他の類語も頻繁に登場する.「復活」,「活性化」,「イノヴェーション」,「再生」,「保全・回復」,「ルネサンス」(文字どおりには「再誕生」) .... あるいはまた, 読者の皆さんは「変態」,「擬態」,「死後」,「継承」といった用語にもそれと同じように遭遇することになる. それらの用語どうしの関係が不明瞭に思える瞬間もあるかもしれない.

 文脈もまちまちである. 神経科学とリハビリテーション,〈私〉の哲学, 棘皮動物の発生, 国学の死生観, 過疎地域の活性化, 昆虫の変態と擬態, マーケティングとインターネット, アメリカ合衆国の運動律, 流域を軸とした生態学・環境保全, ルネサンスと古典文学.... これほど多様なトピックを1冊の本でたどることは, 読者の皆さんにとっても相当に稀な経験になると思われる. 途方に暮れるかたがいらっしゃるだろうことは容易に想像できる.

 そのようなかたに対して, 読み進めるうえで指針となるキーワードをあえて提示すべきであれば, それが何かはもうおわかりだろう. 本書に収められたどのお話においても, 取りあげられているどの用語においても, 言葉の最も広い意味での「生命」の「あらたま」が探し求められている. そのつどあらわなものとしてあらたかに現れ, ときとして粗い見かけ, 荒々しい様相を見せるが, 古びてしまったものを改め, 生命をふたたび新しくし, すべてをあらためて明るみに出そうとする周期的な何かである.

 「あらたまの」は, 本書全体に透明な墨で書きこまれている, めでたい枕詞である. それはまた, 奇しくも10年めを迎えて1の位がゼロに戻った本講座全体にも冠するにふさわしい.

2014年3月21日