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「ミニ・スピーチ」
アーカイヴの形態学研究会「政治をデザインする 安保法制・公共性・立憲主義」, 2016年3月26日 (於: 慶應義塾大学三田キャンパス東館8階ホール).
このシンポジウムでは片山杜秀さんによる「基調講演」, および「リレートーク」としてまとめられた9つの比較的短いスピーチがおこなわれました. 私はその「リレートーク」のなかの1つとして以下を話しました.
以下は, 準備しておいた原稿をもとに話した内容を, 録音にもとづいて修正したものです. ただし, 細かな言いまわしは再現していません.
こんにちは. 高桑と申します.
今日, 私たちは何人いるのでしょうか ? ざっと数えて50人か60人くらいです. しかし, ざっと数えればそれでよいのでしょうか ? 私たちはどのようにすればきちんと数えられるのでしょうか ? また, きちんと数えられるというのはどのようなことなのでしょうか ?
そもそも, このことはデモや集会のたびに問題になってきました. ふつうは主催者発表と警察発表というのがあって, 大抵において両者はかけはなれています. どちらを信ずるかという態度決定がそれ自体, 自分の主義主張を表明することになっていたりもします.
しかし, 私は逆に, そもそも「数えられない」ということ自体が私たちのもともとのありかただと思うのです. そのありかたを考えておくということが,「政治をデザインする」にあたっては根本的なことになってくるのではないかと思っています.
「数えられない」—私たちは大きく言って2つの意味で, 数えられない存在です.
まず,「ものの数に入らない」ということがあります. これが1つめです. 数えなくてよい存在だということです. デモに何万人と集まったところで, 正直なことを言えば, 直接的に国政に影響があるわけではありません (間接的には影響があるとしてもです). そこに集まる人々は, 国家の政治的決定においてはそれぞれ「1」という単位にはならない. ですから, きちんと数えようが数えまいが最終的には同じことです.
しかし, 私たちがものの数に入らないとは具体的にはどういう状況でしょうか ?
私は比較的デモに行くほうです. 皆さんはいかがでしょうか. デモにいらっしゃる皆さんは誰もがお気づきとは思いますが, それでもデモから帰るとたいてい忘れてしまうことがあります. 私たちはしばしば国会前や首相官邸前, つまりは霞ヶ関付近でデモに参加しますが, 夜のデモであれば7時くらいになると, ちょうど仕事を終えて家に帰る公務員たちが (私は彼らが悪いと言いたいのではありません), 大声をあげる私たちのすぐ脇を, 耳もふさがず, 顔色ひとつ変えることもなく通り過ぎていきます.
これはどのようなことでしょうか ? そう, 彼らにとって私たちは存在していない. 本当に存在していないのです. 単に彼らが自分を偽って,「こんなうるさいやつらは存在しない」と自分に言い聞かせているということではありません. たぶん, 私たちは存在しないのです.
『シックスス・センス』という映画をご覧になりましたか ? ネタバレになってしまいますが, 主人公がじつはすでに死んでおり, 自分が死んでいたということに最後に気づくという映画です. ちょうどそのようなことです. 私たちはすでに死んでおり, 幽霊になってデモに行っている. そして, 自分が幽霊であることに気づいていない. だから, 公務員たちはその脇を通っても当然, 気づくことがありません. 私たちは見えないからです.
(ただし, 幽霊である私たちを見ることができる人たちもいます.『シックスス・センス』であれば, 重要な役割を担っている少年がいて, 彼には幽霊が見えるという設定になっています. では, 私たちのばあいは, 誰に幽霊が見えるのか ? 警察です. 警察には, 存在しないものが見えるのです.)
「見えない」,「ものの数に入らない」ということを考えるとき, 私は必ず「イラク・ボディ・カウント」というプロジェクトのことも思い出します. 対イラク戦争において, 米軍側の死者は当然きちんと数えられていますが, 亡くなったイラクの多数の民間人はきちんと数えられるということすらなかった. 米軍の目には住民は誰一人映っていなかったと言ってもいい. 彼らにとって, その地には誰もいなかったのです.「イラク・ボディ・カウント」はそのような知覚に抵抗する試みです. 死んでもなお平等性が担保されないなんて, とてもじゃないが浮かばれない. せめて死んだら「1」とカウントしてあげなければ成仏しない.
では, 仮にデモ参加者のそれぞれが「1」としてカウントされるとしたら, それで全体数ははっきりするでしょうか ? しません. おおまかな数より先に進むことはできない. それも, 3万なのか10万なのかというような, オーダーさえ違うような概算になってしまう. このようなことが起こるのはなぜなのか ? それは, 私たちが非常に多いからです.「あまりに多くて数えられない」. これが2つめの「数えられなさ」です. デモに行けばそのことはすぐに実感できます. 自分のまわりだけでも, 50人なのか200人なのかわからない.
ここまでをまとめると,「ものの数に入らないものが, あまりに多くて数えられない」となります. これが生身の政治的存在である私たちのもともとのありかたです. このありかたにはすでに名前が付いています. これは「マルチチュード」と呼ばれています. 英語でわかりにくいのであれば,「群がり」と言ってもかまいません. 役に立たないものがうじゃうじゃいて, どうすればいいんだ, というようなイメージで捉えていただければ結構です.
さて, ジョルジョ・アガンベンという哲学者が去年,『スタシス』という本を出しました (ギリシア語で「内戦」という意味です). この本の日本語訳を近々出すのですが, そこにも参考になる議論があるので簡単にご紹介します.
1651年に出されたトマス・ホッブズの『リヴァイアサン』といえば近代政治理論のはしりですが, その有名な扉絵がこれです. 近代政治理論のアーカイヴ資料の最たるものと言ってもいいと思います. 人々が集まって巨人の体になっている. この巨人が, 国家権力を行使する主権者である怪物リヴァイアサンです. 国家の象徴です.
巨人のほうは後で取りあげるとして, まずはアガンベンにならって, この怪物の下にある都市に注目したいと思います. これが国家です.
「何人かの武装衛兵 [...] を除けば, 都市は完璧に住民を欠いている. 街路は完璧に空虚であり, 都市には誰も住んでおらず, そこには誰も生きていない」とアガンベンは書いています. 兵隊はちらほらいるけれども, ふつうの人は誰もいない. なぜ, 誰もいないのか ? それは, 住民は国家の目には映らないからです. 私たちは—つまり群がりは, マルチチュードは—, ホッブズのころからずっと, 国家からしてみれば幽霊のようなもの, 目に見えないものなのです.
「いや, リヴァイアサンの体のなかにいるじゃないか」という反論もあるでしょう. たしかにそうですが, それはリヴァイアサンの体のなかにいるから見えるのです. つまり, 政治的に「1」とカウントされ代表されてはじめて, 私たちはイメージされます.
そのようにして私たちが見えるものとなるのは一瞬にすぎません. 政治的主体としての私たちは「人民」と呼ばれますが,「群がり」である私たちは「人民」と同じものではありません. 「群がり」は「人民」として代表されるやいなや, ふたたび解体された群がりになってしまいます. ホッブズ自身,『市民論』のなかで,「議会が立ち上げられると同時に人民は解体される」(つまり「群がり」に戻ってしまう) と書いています.
私は, 現在の代議制は民主制を無条件に保証するものではないと思っています.「一票の格差」という問題もあります. 仮に怪物の体に書きこまれたとしても, 都市民である私たちは指先くらいしか描いてもらえないのではないか, ということです. しかし, 国家の目で見たときにもともと数に入らない幽霊でしかないのであれば, せめてその機会にはカウントされなければ浮かばれません. また, 小選挙区制であれば, 代表者を送りこむことができなければ自分はカウントされず, 結局ゼロになってしまい, 怪物の体には指一本描いてもらえなくなってしまう (それが「死に票」です). だから, 反安保勢力は「野党は共闘」と叫んで統一候補を立てさせようと必死になっているわけです.
関西市民連合という団体は「be the one」(1であれ) というスローガンを立てています. これは, 私たちの文脈にあてはめて言いなおせば,「数えきれないゼロたちを「1」として代表させなさい」ということです.
群がりである私たちの側から「政治をデザインする」ときに大事なことをあらためて復習すれば, 次の2点にまとめられます. その2点は互いに矛盾して見えますが, じつは矛盾していません.
1つめは,「ものの数に入らないものの数えきれなさ」をそれ自体として表象し続けることです. 政治的代表とは無関係にです. つまり, デモでうじゃうじゃいる, ということです. どうせ数えても数えられないけれども, その数えられなさをまるで心霊写真におけるようにそのまま表象させようということです.
2つめは, その群がりのもつ幽霊的な力が追い払われてしまう瞬間には (選挙のことです), せめて自分たちの死が浮かばれるように, ともかく「1」として数えさせて弔わせることです. こちらは政治的代表です.
この2つは一見すると相容れないように見えます. 去年はSEALDsに対しても「デモなんかしても意味はない. 選挙のほうが大事だ」というようなトンチンカンな批判が向けられていました. しかし, 群がりとしての私たちのありかたにまで遡れば互いに矛盾した主張ではないということがわかるはずです. 私たちという幽霊が成仏するためには, 両方とも大事なことだと思います.
ありがとうございました.