5月7日の反原発デモについて
「5月7日の反原発デモについて」
(2011年5月下旬に当サイト上でのみ公開したテクストです.)


5月7日の反原発デモに参加しました。

あの日のデモ隊に対する、警察によるコントロールは過剰なものでした。

その過剰なコントロールの表向きの理由はといえば、混乱を避けること、でしょう。つまり、渋谷の駅前交差点をデモ隊が埋めつくすこと、そしてそれによって交通に混乱が生じたり、デモ隊が暴徒化したりすることを避けるということでしょう。その理由を心から信じている警察関係者も少なくないとは思います。高円寺で4月10日におこなわれたデモ(私は別のデモに行っていて参加できませんでしたが)での失敗(つまりデモ隊による街路占拠の成功を許すこと)を繰り返すな、街路の安全・安寧を死守せよという指令が厳命されていたのだろうと容易に想像できます。

しかし、警察による過剰なコントロールの第一の目的は、おそらくそれではありません。日本の最も有名な繁華街で、反原発という1つの主張で集まった人々の圧倒的な数が可視化されるのを避けること、とりわけその出来事が報道されざるをえなくなるのを避けること、これが第一の目的だったと容易に想像できます。

しかし、デモというのはそもそもの成り立ちからして、数(あるいは無数さ)のあからさまな可視化を主たる目的の1つとしているものです。これだけの人が同じ主張のために1つのところに集まったのだということが街路自体において、あるいはまた周辺のビルから、新聞社やテレビ局のヘリコプターからも明らかになる。

ならば、そのこと自体を阻止しなければならない。それが警察のねらいだった。

デモ行進が始まる前、集合場所に続々と集まった人々は、私の目算でも1万人は優に超えていました。この規模の人たちがデモ隊を組んで渋谷駅前に繰り出せば壮観だろう、私たちの数の可視化、ないし無数さの可視化という目的をある程度まで達成するだろうと思われました。

ところが、デモ隊出発の刻限を過ぎても、いっこうに隊列が進みません。微量の放射性物質を含んでいるにちがいない霧雨が、おとなしく出発を待つ人々のうえに降り注ぎます。

ちなみに、私は、反原発を攻撃的に主張したくてデモに参加したわけではありません。街路を行く人々に攻撃的に訴えかけるというのは、少なくとも私の趣旨ではありませんでした。デモというのは攻撃性をもたなくてもかまわないと私は思っています(もちろん、そういうデモがあってもかまいませんし、圧倒的な少数者によるデモはそのような形を取らざるをえないこともあるでしょうが、ともかく今回のデモはそのような形を取っていなかったように思います)。今回のデモは、私見では、ふだんはデモに参加することなどない人が非常に多くを占めていました。恥ずかしながら私もそうです(この前のデモ参加は対イラク戦争反対のときですから、ずいぶん前のことです)。今回は、「私たちはこれだけの数である」ということを示すため、つまり「私もその数のなかに含まれている」あるいは「含めてくれ」ということを示すため、いてもたってもいられずとにかく作法もわからぬまま参加した、という人が大半だったのではないでしょうか。その意味では、考えられるなかでも最も平和裡におこなわれたデモだったと言えます。

楽隊を載せた軽トラックが数台出て、ひょっとすると珍奇な、さらに言えば(デモに好意的でない人にとっては)騒々しい、攻撃的とも取られうるような様相を見せていた可能性はゼロではないかもしれません。しかし、それでもちょっと考えてみてもらいたいのは、参加者が誰一人として—と思いますが—かつてのようにヘルメットをかぶってもいなければゲバ棒をもってもいない、暴力や騒擾などいっさい企図していない(そんなことなどハナからやる能力も気力もない)無防備な集団であるということが明らかだったということです。

ところが、そのような、いわば客観的に見てまったく「おとなしい」集団が—私見では、メッセージの連呼も小さい、散発的なものにとどまり、もっと大声があがってもよかったと思うほどでした—、ただ集団であるということだけを理由として、集団としての存在を否定されてしまいました。

デモ隊はなかなかスタートしません。それもそのはず、1万人規模の人たちが、4人縦列を取らされました。デモ隊が通ることを許されたのは1車線だけで、その車線を隊列がはみ出すと、警察の先導車の上に立っている警察官から、デモを即座に中止させる旨の脅しがスピーカーから執拗に叫ばれました(警察のスピーカーの音量はデモ隊の音量をはるかに上回るものでした)。ちなみに、ほかの車線を通過する車は総じてまばらで、デモ隊がほんの数秒くらい車線をはみ出したところでトラブルが起こることなどありえませんでした。私は自分のことを「善良な市民」という形容で呼ぼうとは思いませんが、それでも、警察のスピーカーから脅迫や罵倒が浴びせかけられると、「ああ、私たちはいつのまにかこちら側に来てしまったのだな、悪の側、犯罪者(ないしその予備軍)の側に勘定されているのだな」とわかり、あらためて小さな覚悟を決めさせられました。ただ単にデモに参加して、決められたしかたでおとなしく街路を歩いているだけなのに、です。

デモ隊は4列縦隊を組まされただけでなく、200人くらいずつに分断され(正確な数字はわかりませんが、ともかく数百人単位です)、それぞれの小隊が、前後の仲間を完全に見失うほど距離を取らされました。それでは、200人のデモに参加しているのと同じことになってしまいます。要するに、「私たち」なるものの数、ないし無数さの可視化が阻害されたということです。そのことにその場で抗議をするのは不可能でした。というのも、抗議をしようものならデモの中止を命ぜられてしまっただろうからです。警察の裏のメッセージは—じつはそれほど隠れてもいないメッセージですが—、「そんなしかたでもデモがともかくできるだけでありがたいと思え」ということです。

というわけで、私たちは小さなデモ隊を組み、こま切れになって渋谷の街を進みました。

途中、渋谷に入る前、原宿のあたりだったでしょうか、前方で何やらもめているようで、隊列が少しふくらみ、警察官が集まってきていました。何が起こっているのかはよくわからず、しかしもめている真ん中には誰かが1人か2人くらいいるようでした。とっさに、これは何か警察が検挙をしかけているなと思いました。そこで—その判断をいまでは悔やんでいますが—これに下手に関わると検挙される人が増え、デモが中止されてしまうかもしれないと思い、デモ本隊が進んで行くのに従う道を選びました。いまはわかりますが、それがいま問題になっている違反のでっちあげ、不当逮捕の現場でした(http://illcomm.exblog.jp/13557136/http://57q.tumblr.com/)。

私は現在つかまったままの人たちが無罪であることを、上記のとおりのデモ隊の状況から推して確信しています。彼らの早期無罪釈放と、警察からの謝罪を要求します。彼らに対する支援金もわずかながら供出しました。一刻も早い問題解決を願っています。

が、ここでは、これが不当逮捕であったとして、なぜそのようなことがおこなわれたか、なぜそのようなことが必要だったのかを考えてみたいと思います。

要するに警察側は、「私たち」の数が—あるいは無数であることが—選挙以外のしかたで明らかになることを恐れています。ちなみに、この国の選挙制度自体があまりにも恣意的に不完全なものとされていることは指摘するまでもありません(議会制自体が問題をはらんでいるということについてはここでは措きます)。その不完全な民主主義を離れたところで私たちの数(ないし無数さ)が可視化されてしまうことは全力をあげて阻止しなければならない。それが警察の定言命令です。民主主義と呼ばれるものがどのような姿をしたものであるにせよ、既存の権力によってコントロールできないしかたで現れるということは許されません。したがってこのばあい、民主主義は街の安全・安寧と対立することになります。

しかし、民主主義が街の安全・安寧と対立するというのはどう考えても矛盾です。というのももちろん、原理上、街は人民(つまり何の変哲もないそのへんの人たち)のものであるはずだからです。何の変哲もないそのへんの人たちが街で自分たちを可視化させるという出来事だけをもって、そのことが街の安全・安寧をおびやかすものであると見なすのは、明らかに無理な話です。警察でさえ、それは無理だとわかっているはずです。

この状況に介入するために警察に残される方法は限られています。今回は、そのなかでも最も低劣な方法の1つが選ばれました。すなわち、彼らの考えはこうです。

「この者たちは何の変哲もないそのへんの人たちではない。少なくとも、全員がそのような人たちではない。一部には犯罪者が含まれているにちがいない。いや、そうであるべきである。ひょっとすると相当数が犯罪者予備軍だと言ってもいいのかもしれない。ともかく、そういうことにしよう。だから、少数であれ、犯罪者が検挙できるべきである。デモの主催者、ないしその近傍の人物が当の犯罪者と見なされればなおのことよい。それによって、この者たちは自分たちが何の変哲もないそのへんの人たちであるという主張を取り下げざるをえなくなる。それに、そもそも、デモなどを組織して街の安寧を妨げるような者たちは、そのこと自体において犯罪者のようなものなのだ。放っておけば、すぐに暴動を起こすに決まっている。そうであってみれば、犯罪者をでっちあげてでも、デモが組織されることを妨害しなければならない。もちろん、あからさまに無罪の者を逮捕することはできない。それならば、デモ隊に入りこんで、少しでも違反と見なしうるような振る舞いをする者がいないか注意深く観察し、少しでもきっかけがあれば逮捕することにしよう。それでもだめなら、体をぶつけるなどして巧妙にきっかけを作り、違反が生ずるように努めよう。なに、罪状は些細なものでよい。数人をともかく逮捕・拘留できるということだけが重要なのだ。それによってデモ全体に汚点がつき、デモからは民主主義の美名が奪われることになる」。

だとすると、逮捕されていたのは私であってもまったくおかしくなかったわけです。それが彼らであって私でなかったということにとくに理由はありません。だから私は逮捕された人たちを支援しています。現在、まだ拘留されているのは2人のデモ参加者のようですが、それなら、その人たちは1万分の2の私です。

さて、この警察の底意ですが、このメッセージはそれほど解読が難しいものでもありません。むしろ、参加者の各人に確実に届くように発せられているメッセージだとも言えます。

「もう2度と集まるな。「私たち」なるものの数(ないし無数さ)を示したりするな。お前たちが民主主義の何らかの主体であることをいかに標榜しようとも、我々警察はつねに、無理やりにでもそこに犯罪者を見つけ出し、さもなければ犯罪者を作り出し、お前たちを分断して、お前たちを、街の安寧を妨げるやかましい左翼集団、アナーキスト、テロリストと命名する。犯罪者はいくら集まっても民主主義者ではない。騒擾を企図するただの悪者だ。だからお前たちを物理的にも分断して小隊に区切ったのはやはり予防的措置として間違っていなかったし、そのようにすることはこれからも間違っていないだろう。お前たちのようなまとまりを欠いた連中、分断されてしかるべき連中のことを、報道が取りあげることはあってはならない」。

たしかに、私は元来、街路の力などあまり信じているほうではありません。デモをしたから何かがすぐに変わると信じこめるほど純朴でもありません。しかし、それでも、今回のような警察のやりかたを見てしまうと考えこまざるをえません。じつのところ、人は、お前のやっているのは民主主義的ではないと一方的に決めつけられることから、逆説的に、無理やりに民主主義へと向かわされることになるのかもしれません。

私は、今回の「私たち」の数(ないし無数さ)があらためて街において可視化されることを願っています。

最後に、繰り返しになりますが、わかっていただきたいこと、にもかかわらず隠されてしまったことが2つあります。1つめは、私たちは、「善良な市民」のイメージにふさわしいかどうかはともかく、誰も犯罪を犯してなどいなかったということです。そして2つめは、私たちは渋谷駅前交差点を埋めつくして余りあったにちがいないほど多かったということです。


高桑和巳