解題
「解題」
カトリーヌ・マラブー編『デリダと肯定の思考』(未來社, 2001年10月), pp. 476–494.


 本書は, 以下の日本語訳である. Revue philosophique, vol. 115, no. 2 “Jacques Derrida,” Paris, PUF, avril–juin 1990, pp. 129–408.



 これは, 冒頭に記されているとおり, カトリーヌ・マラブーが『ルヴュ・フィロゾフィック』誌編集部と協力して編纂したジャック・デリダ特集号である (マラブーについては後述する). なお, この号の末尾2割ほどを占める書評部分は特集とは無関係なので訳出していない.

 この翻訳の一般的な位置づけについては増田一夫さんによる解説をご覧いただくことにして, ここでは, 翻訳者を代表して, 作者についての情報, テクストの概要, 書誌情報をまとめておく. 解説の順序は, 本文の配置と同様に作者のアルファベット順である. なお, 説明の長短の差は, これらのテクストや作者の重要度を反映したものではない.



 ジョルジョ・アガンベン (Giorgio Agamben, 1942– ) は, マチェラタ大学などを経て, 現在はヴェローナ大学で教授を勤めている. ヴァルター・ベンヤミン研究をはじめとする多彩な業績で知られる. 近年は政治に寄せる関心を前景化させている. 彼の仕事は, すでに以下が日本語で読める.『スタンツェ』岡田温司訳, ありな書房, 1998年.『人権の彼方に』高桑和巳訳, 以文社, 2000年.

 ここに発表されたテクスト「パルデス 潜勢力のエクリチュール」(Pardes: l’écriture de la puissance) は, ちょうどアガンベンが政治への傾斜を強めた時期 (彼の政治的思考のマニフェスト的な書物『到来する共同性』(1990年) の書かれたのと同じ時期) に書かれている. これを読むことで, 彼が言語活動と潜勢力に寄せる変わらぬ関心が, 言語活動に対するデリダの立場を浮き彫りにする作業を通じて, 政治の諸問題へと結びついていく過程に立ち会うことができる.

 以下の英語訳, ドイツ語訳が存在する. “Pardes: The Writing of Potentiality,” in G. Agamben, Potentialities (Daniel Heller-Roazen, ed. & trans.), Stanford, Stanford University Press, 1999, pp. 205–219 ; “Pardes: Die Schrift der Potenz” (Giorgio Giacomazzi, übers.), in Michael Wetzel & Jean-Michel Rabaté (hrsg.), Ethik der Gabe, Berlin, Akademie Verlag, 1993, S. 3–17. ここで底本としたテクストはジャクリーヌ・ラポルトによってイタリア語からフランス語に翻訳されたものだが, 誤訳が散見されたため, 原著者の指示にしたがって必要な修正を加えた.



 ルドルフ・ベルネット (Rudolf Bernet, 1946– ) は, ルーヴァン・カトリック大学教授. 同大学に置かれているフッサール文庫 [アルヒーフ] の責任者,『フッサーリアーナ Husserliana』,『フェノメノロギカ Phenomenogogica』, および英訳フッサール全集の編集責任者,「ルーヴァン哲学会」会長,「ドイツ現象学研究会」会長をつとめている. 現象学の総体を関心対象とするが, とりわけ時間性, 主体性, 言語をめぐる問題を扱う. 彼の仕事の一端は, エドゥアルト・マールバッハらとの以下の共著を読むことで垣間見ることができる.『フッサールの思想』千田義光他訳, 晢書房, 1994年. なお, 以下の日本語訳もある.「フロイトの無意識概念の基礎づけとしてのフッサールの想像意識概念」和田渡訳,『思想』10月号, 岩波書店, 2000年, 180―202頁.

 ここに発表されたテクスト「デリダ 師の声を聴く」(Derrida et la voix de son maître) が提示しているのは, すでに歴史的規定をもってしまったいくつかの読解の先入見から離れてデリダ『声と現象』(1967年) を読み, その射程をあらためて明らかにし, 場合によっては問題点を指摘するという, 慎ましいながらも必要な作業である. デリダの当初の目論見を知るために,『声と現象』の脇に置いて読むことができるだろう. ちなみに原題は, そのまま訳せば「デリダとその師の声」となるが, 名詞「声」が何を受けるのかが曖昧になるのを避けるため, わずかばかり意訳した. 題においては,「師」フッサールの「声」を聴き分けることに執心するだけの現象学者たちの姿勢が, まさしく「声」のありようを問うたデリダの著作を参照することで皮肉られている.

 このテクストは, 若干の加筆のうえで以下に再録されている. “La voix de son maître (Husserl et Derrida),” in R. Bernet, La vie du sujet, Paris, PUF, 1994, pp. 267–296. また, 英語訳もある. “Derrida and His Master’s Voice” (Nadja P. Hofmann & William R. McKenna, trans.), in W. R. McKenna & Joseph Claude Evans (ed.), Derrida and Phenomenology, Dordrecht, Kluwer Academic Publishers, 1995, pp. 1–21.



 モーリス・ブランショ (Maurice Blanchot, 1907– ) は作家, 評論家. すでに作品のほとんどが日本語訳されているので, ここであえて一般的な紹介をおこなう必要もないだろう. ただし, ブランショの小著『私の死の瞬間』をも含む, それにデリダが寄せた論考が最近になって日本語訳されたので, それにはとくに触れておいてよいだろう.『滞留』湯浅博雄監訳, 未來社, 2000年.

 ここに発表されたテクスト「ジャック・デリダのおかげで (ジャック・デリダに感謝)」(Grâce (soit rendue) à Jacques Derrida) は, モーセと律法の物語を,「エクリチュール」の二重性に関するデリダの構想を喚起しながら読みなおすという試みを提示している.

 なお, このテクスト中で言及されているトーラーの原初的二重化についてはすでに以下で扱われている. “L’absence de livre,” in M. Blanchot, L’entretien infini, Paris, Gallimard, 1969, pp. 620–636.『終わりのない対話』の末尾に位置するこの「書物の不在」の最後に付された謎めいた注記にはこうある.「私は, 書物の不在が自ずと約束されつつ産み出されている, あの—によって書かれたいくつかの書物に, このはっきりしない数ページを捧げる dédie (そして前言撤回する dédis). だが, 名が欠けているということだけが友愛のうちにそれらの書物を指し示すのであってほしい」. 単なる興味本位の詮索は無用だが, この伏せ字がジャック・デリダを指し示している可能性が, この「ジャック・デリダのおかげで (ジャック・デリダに感謝)」の発表によってさらに高まるかもしれない.



 レミ・ブラーグ (Rémi Brague, 1947– ) は, CNRS (フランス国立科学研究センター) 研究員, ブルゴーニュ大学教授を経て, 1990年からパリ第1大学教授. 専門はギリシアおよびアラブ哲学. 中世哲学の比較研究から近代を再考する作業をつづけている. 数冊の著書がある他, マイモニデスの翻訳なども手がけている.

 ここに発表されたテクスト「ストア派の狂人」(Le fou stoïcien) は, 狂気の排除をめぐるフーコーとデリダの論争に見られた2人のすれ違いを議論の出発点として, 紀元後5世紀ストア派のヨアンネス・ストバイオスによる狂気論を紹介し, 検討している. したがってこれは, デリダの思考を直接に検討する試みではないが, 狂気が問いの中心となった議論の重要性をあらためて証してくれている.

 注に見られたいくつかの誤記について, 原著者の了解を得て修正を加えた.



 ジェラール・グラネル (Gérard Granel, 1930–2000) は, ボルドー大学, エクス‐アン‐プロヴァンス大学を経て, トゥールーズ大学 (ル・ミライユ) で教授を勤めた後, 出版社TERを主導していたが, 最近死去した. 数冊の著書からは, つねに政治への尖鋭なまなざしが感じられる. ハイデガー, ヴィトゲンシュタインをはじめとする翻訳も多い. 彼の仕事は, 日本語でも以下が読める.「大学にかかわるすべての人々へのアピール」松葉祥一訳,『現代思想』7月号, 青土社, 1989年, 74–87頁.「主体ののちに誰が来るのか?」安川慶治訳, ジャン‐リュック・ナンシー編『主体ののちに誰が来るのか ?』現代企画室, 1996年, 209–224頁.

 ここに発表されたテクスト「スィボレート あるいは〈文字〉について」(Sibboleth ou de la Lettre) は, ギリシア的なものとユダヤ的なものの間の錯綜した関係を, デリダの思考とともに, またそれに抗して, 問いなおそうとする試みである. 題の「スィボレート」は,『旧約聖書』の「土師記」第12章第6節に由来する. ギレアド人は, ヨルダン川の向こう岸に難を逃れようとしていたエフライムからの逃亡者を見分けるために,「シボレート schibboleth」という語 (ヘブライ語で「流れ」の意) を発音するように言った. エフライム人はこの語を「スィボレート sibboleth」と発音して, 殺された. 近代ヨーロッパ諸語では「シボレート」は試し言葉の代名詞となっている. グラネルは殺されたエフライム人の発音のほうで表記している.

 なお, このテクストは以下に, ほぼ同時に発表されている. “Sibboleth ou De la lettre,” in G. Granel, Ecrits logiques et politiques, Paris, Gallimard, 1990, pp. 261–285. また, 本文中で言及されている本人の仕事の多くも, この同じ本に再録されている.



 ミシェル・アール (Michel Haar, 1937– ) は, パリ第4大学助教授, パリ第12大学教授を経て, 現在はパリ第1大学教授. 専門はニーチェおよび現象学. ガリマール版ニーチェ全集のための翻訳に加わるなど, 翻訳も多い. 10冊ほどの著書がある.

 ここに発表されたテクスト「デリダにおけるニーチェの作用 [あそび]」(Le jeu de Nietzsche dans Derrida) は, デリダが自らの思考の特権的な参照先としているニーチェの思考を再検討し, デリダとニーチェのあいだにある齟齬を, 時としてデリダに抗しながら, 丹念に浮かびあがらせようという試みである. 題名は,「ニーチェのいう「遊戯 Spiel」がデリダではどのような姿を取っているのか」という意味と,「デリダのなかでニーチェの思考がどのように作用しているか」という意味に取れる.

 なお, このテクストには英語訳がある. “The Play of Nietzsche in Derrida” (Will McNeill, trans.), in David Wood (ed.), Derrida: A Critical Reader, Oxford, Blackwell, 1992, pp. 52–71. (ちなみに, この『デリダ』という英語の論文集—後述のとおりナンシーとサリスのテクストの英語訳も収録される—には, デリダから執筆者たちへの「斜 [はす] にかまえた回答」も収録されており, これは後にフランス語で単行本化された (1993年). 以下の日本語訳が刊行されている.『パッション』湯浅博雄訳, 未來社, 2001年.)



 デイヴィッド・ファレル・クレール (David Farrell Krell, 1946– ) は, デ・ポール大学 (シカゴ在) 教授. 専門はニーチェおよび現象学. 10冊ほどの著書がある.

 ここに発表されたテクスト「最も純粋な私生児 (行き場のない肯定)」(Le plus pur des bâtards (L’affirmation sans issue)) は, デリダが再検討に付していたプラトン『ティマイオス』の「コーラ」の思考を根底まで追求できる者を「最も純粋な私生児」というデリダによる逆説的表現によって指し示し, その特権的な例として, ヘーゲルの私生児ルイを紹介している. この試みは, それ自体がある時期のデリダの身振りをそのまま引き受けるものとも読める. なお, 本文中, 冒頭近くに現れる詩めいた一節は, 引用ではなくクレールの創作である旨, 本人の説明を得ている. この箇所はこのままだと意味不明だが, 後述の修正版では以下のようにわかりやすくなっている.「『然り然り !』と言う者たちもいる. /これに対して『否, 否 ! まったく違う !』と抗弁する者たちもいる. /だがこの, 小心な妥協と抜け目ない正しさ [コレクトネス] の時代にあっては,『然り, かつ否 !』と言う者が大多数だ.」

 また, デリダからの引用で, 数文字にわたって空白になっている箇所があるが, これは, 自分の手紙を「送付」として発表するにあたってデリダが削除した部分にあたる. 原文では1行弱の空白だが, ここではクレールにならって空白を短縮しておいた.

 ここで底本としたテクストはフランソワズ・バレによってアメリカ語からフランス語に翻訳されたものであるが, 原則的に問題は見受けられなかった. なお, このテクストは若干の修正を経て以下に収録されている. “Conclusion: Affirmation Without Issue,” in D. F. Krell, The Purest of Bastards, University Park, The Pensylvania State University Press, 2000, pp. 201–213. また, 以下の風変わりな小説が同一の発想から書かれている. Son of Spirit: A Novel, Albany, SUNY Press, 1997.



 ロジェ・ラポルト (Roger Laporte, 1925–2001) は作家, 評論家. 最近になって死去した. 10冊以上の著書があるが, 主著と目されるのは以下である. Une vie, Paris, POL, 1986. 日本語では以下を読むことができる.『プルースト/バタイユ/ブランショ 十字路のエクリチュール』山本光久訳, 水声社, 1999年.「パッション」小林康夫訳,『現代詩手帖』10月臨時増刊号, 思潮社, 1978年, 238–255頁. 「モーツァルト 1790年」笠羽映子・千葉文夫訳,『ユリイカ』8月臨時増刊号, 青土社, 1991年, 124–142頁.

 ここに発表されたテクスト「自分が話すのを聞く」(S’entendre parler) は, デリダの問題にした, 現象学における音声中心主義を象徴的に表現する「自分が話すのを聞く」という行為に言及しながら, デリダの思考の検討からは離れ, 自分の作品の朗読について思うところを開陳している. デリダ論としてよりは, 作家ラポルトの思考を辿る資料として読めるだろう.

 なお, このテクストは以下の論文集成に再録されている. “S’entendre-parler,” in R. Laporte, Etudes, Paris, POL, 1990, pp. 83–93. 再録にあたって, イザベル・バラディーヌ・オヴァルド Isabelle Baladine Hovald への献辞と, 1989年という日付が付加されている.



 ニコル・ロロー (Nicole Loraux, 1936– ) は, EHESS (社会科学高等研究校) 教授. ギリシア研究者. 10冊ほどの著書があり, 彼女の作品は, 処女作である以下の作品からほぼつねにこの分野の基本文献と見なされてきた. L’invention d’Athènes, Paris, EHESS, 1981 (Paris, Payot, 1993). なお, 日本語で読めるものに以下がある.「戦士の恐れと戦慄」下川茂訳, ジャン・ボードリヤール他編『恐怖』今村仁司監修, リブロポート, 1989年, 171–193頁.「誕生を否認すること」大西雅一郎訳,『現代思想』10月号, 青土社, 1996年, 19–209頁.「アンティゴネの手」吉武純夫訳,『現代思想』8月号, 青土社, 1999年, 130–160頁.

 ここに発表されたテクスト「隠喩なき隠喩 『オレステイア』3部作に関して」(La métaphore sans métaphore: A propos de l’“Orestie”) は, デリダによって正当に提起された, 隠喩をめぐる錯綜した問題設定を出発点として, ソポクレスの『オレステイア』3部作における隠喩のもっていたありうべき力にあらためて接近する厳密な試みを提示している.



 ジャン‐フランソワ・リオタール (Jean-François Lyotard, 1924–1998) は, パリ第8大学の哲学科名誉教授だった. カリフォルニア大学アーヴァイン校教授を勤めたのち, アトランタのエモリー大学でフランス語と哲学の教授を勤めていた. 著書のほとんどが日本語訳されているので紹介は不要だろうが, 総括的関心に関しては, 以下のように書くように本人から生前に回答を得ていた.「何かが抵抗し, 執拗に存在している. それは, このポストモダンの世界の実証主義的な言説においてさえ抵抗を見せている. この『何か』は勘定することも, 帳簿に記載することも, 営利化することもできない. 芸術的な仕事は, また文学的エクリチュールは, この『何か』の『現前』を, 可感的なものや言語を通じて表明しようとしている. これに類似したもの—これそのものではないかもしれないが—が, 法的規則や慣習がどのようなものであるにせよ, 我々に, 正しくあることを強いる. 形而上学的な幻想に堕してしまうことなく, このまったく内在的な超越性を思考すること, これ以外のことを私はしようとしたことがない. 私はこの思考を, 現象学, マルクス主義, 構造主義, 精神分析, 実存主義, 批判哲学とともに, またそれらに抗しておこなってきた」.

 ここに発表されたテクスト「翻訳者の註」(Notes du traducteur) は, マラブーの注記に読まれるとおり, リオタール他によって企画され1985年におこなわれたパフォーマンスによって残されたデリダの挑発的エクリチュールに対して, 遅ればせながら応えようという試みである. デリダも, デリダの文体を模倣するリオタールも, 固有語法としてのフランス語に可能なかぎりの無理を強いながら書き連ねているので, まさしく翻訳が問題になるが, 辛抱強く読んでいただければ, 論旨はさほど不明瞭ではないはずである. リオタールによって用意された「定義ゲーム」に対して, その枠内で抵抗の身振りを見せるデリダと, それに事後的に応答しようとするリオタールが, 言語に無理強いをしながら思うところを述べている.

 なお, リオタールの言及しているデリダのテクストに関しては, マラブーの注記のとおり,「エクリチュールの試み」の全記録が1冊の本として刊行されており, 他の参加者たちの発言とともに読むことができる. 本文中に言及のあるリオタールとシャピュによる「提示*」についても, 刊行された文献を参照することができる. これらについては, 訳注で文献を指示しておいた. また,「エクリチュールの試み」とデリダ, リオタールについては, イタリア語訳だが, 以下のテクストも参照できる. J.-F. Lyotard et al., “Gli Immateriali” (Antonello Sciacchitano, trad.), in Aut aut, no. 289/290, Milano, gennaio–aprile 1999, pp. 207–220.



 ルネ・マジョール (René Major, 1932– ) は, 精神科医, 精神分析家.「精神医学史精神分析史国際協会」会長. 精神分析に関しては臨床と理論の双方に関与し, また, 歴史, 法, 哲学, 文学, 芸術と精神分析との連関にも強い関心を寄せている. 現在までに著書は数冊あり, 最近の以下の2冊は, 彼の思考とデリダの思考との近しさをあからさまに証している. Lacan avec Derrida, Paris, Mentha, 1991 ; Au commencement, Paris, Galilée, 1999. その他, 彼の主宰した『コンフロンタシオン Confrontation』誌 (1979–1989年),『コントルタン Contretemps』誌 (1995–1997年) も, デリダの思考の強い影響下にあった. またマジョールは, デリダ『郵便葉書』(1980年) をめぐる以下の論集も編集している. Affranchissement du transfert et de la lettre, Paris, Confrontation, 1982. なお, 日本語で読めるものに以下がある.「国民・固有名・選ばれること」石田靖夫訳,『現代思想』10月号, 青土社, 1996年, 178–189頁.

 ここに発表されたテクスト「『脱 [デ]』の賽 [デ] を投げて」(A coups de dé(s)) は, いくつかの言葉遊びと精神分析の隠語の使用ゆえに読みにくくなってはいるが, 精神分析の言説の布置, とりわけ「脱拘束」や「死の欲動」などの否定的契機の評価においてデリダの思考がどのような貢献をもたらしたことになるのかを手早くまとめている. なお, テクストの原題は「(いくつかの)「dé」を使ってみて」というほどの意味だが,「dé」というのは, 普通に聴き取れば「さいころ」のことであり, ここではそれと,「脱構築 déconstruction」「脱拘束 déliaison」などの接頭辞として用いられる「脱 dé」, またデリダ Derrida の名の冒頭の2文字とが語呂合わせになっているため, 少しばかり説明的に訳した (なお,「脱拘束 déliaison」はEntbindungの訳語で, 刺激の疎通が固着した状態 (拘束) から新しい疎通が設けられることを指し,「解放」とも訳される).

 このテクストは以下に再録されている. “A coups de dé(s),” in R. Major, Lacan avec Derrida (op. cit.), pp. 153–165. 注に言及のある「盗まれた手紙の譬喩」も同書に再録されている (pp. 25–100). また, 注に言及のある「権力原則」に関する考察は, 以下に展開されている. “La cruauté originaire et le principe de pouvoir,” in Jean Nadal et al., Emprise et liberté, Paris, L’Harmattan, 1990, pp. 109–124 ; “Des idéaux en partage,” in J.-M. Rabaté & M. Wetzel(éd.), L’éthique du don, Paris, Métailié-Transition, 1992, pp. 117–132 ; “Le goût du pouvoir,” in Trans, no. 3, Paris, automne 1993, pp. 107–118 ; “La soif du pouvoir,” in R. Major, Au commencement (op. cit.), pp. 141–153. また, ラカンと固有名の問題については, 注記されている論文の他, 以下でもこの問題が扱われている. “Depuis Lacan: ___,” in R. Major, Lacan avec Derrida (op. cit.), pp. 127–150.



 カトリーヌ・マラブー (Catherine Malabou, 1959– ) は, パリ第10大学助教授. ハイデガーの継承を目指す今日の哲学を弁証法と結びつけもし分かちもしているものを問いなおすことを仕事の中心に据えている. デリダの指導のもとで書きあげた以下の博士論文が刊行されている. L’avenir de Hegel, Paris, Vrin, 1996. また, デリダとの共作として以下がある. Jacques Derrida: La contre-allée, Paris, La Quinzaine littéraire/Louis Vuitton, 1999.

 ここに発表されたテクスト「暴力の経済, 経済の暴力 (デリダとマルクス)」(Economie de la violence, violence de l’économie (Derrida et Marx)) は,『マルクスの亡霊たち』(1993年) の刊行されていなかった当時に, 題の示しているとおり, 暴力と経済を主題として, マルクスの思考とデリダの思考のあいだに可能な議論を展開させようとした稀な試み (マイケル・ライアン『デリダとマルクス』(1982年) などの例外はあるが) だと言える.

 注に見られたいくつかの誤記について, 原著者の了解を得て修正を加えた.



 ジャン‐リュック・ナンシー (Jean-Luc Nancy, 1940– ) は, ストラスブール大学教授. ニーチェをはじめとする翻訳も多い. 現在までに20冊近い著書を刊行している.『声の分有』(1982年) ないし『無為の共同性』(1983年) を出発点とする独特な共同性の思考を展開していることで知られる. デリダをめぐっては, フィリップ・ラクー‐ラバルトとともにコロック (1980年) を主宰し, 以下の記録を刊行している. Les fins de l’homme, Paris, Galilée, 1981. また, デリダからのナンシーへの応答として, 以下の大著が刊行されている. Le toucher, Paris, Galilée, 2000. ナンシーの著作の日本語訳も充実してきた. ここでは以下を挙げておく.『エゴ・スム』庄田常勝・三浦要訳, 朝日出版社, 1986年.『自由の経験』澤田直訳, 未來社, 2000年.『無為の共同体』西谷修・安原伸一朗訳, 以文社, 2001年. また, 彼の編集した以下の『トポイ Topoi』誌特集号 (1988年) もすでに日本語になっており, 参考になる.『主体の後に誰が来るのか ?』港道隆他訳, 現代企画室, 1996年.

 ここに発表されたテクスト「省略 [エリプス] 的な意味 [サンス]」(Sens elliptique) は, 本人の記しているとおり, ナンシーによるはじめての本格的なデリダ論 (を装ったもの) である.「起源」「パトス」「意味」といった語を「省略」「変 [か] わり渇 [かわ] く altérer」といった語彙を鍵として脱構築し, デリダのありうべき「身体」に触れようと試みるこの濃厚なテクストは, 言うまでもなくナンシーによるデリダの把握のありかたを知る絶好の論文であるが, 同時期の『コルプス』(1992年), あるいは最近の『侵入者』(2000年) と併せて読めば, 彼の身体論の展開の端緒とも理解することができる.

 このテクストは, 冒頭部分を省いたものが以下に再録されている. “Sens elliptique,” in J.-L. Nancy, Une pensée finie, Paris, Galilée, 1990, pp. 269–296. なお, このテクストの元になったペルージャでの発表の英語訳は, ナンシーの注記している文献に収録されたが, その後, 以下に再録された. “Elliptical Sense” (Peter Connor, trans.), in D. Wood (ed.), Derrida: A Critical Reader (op. cit.), pp. 36–51. なお, 原題に用いられている連辞「sens elliptique」は, 本文にあるとおり,「sens」(意味, 感覚, 方向...) にも「elliptique」(省略的, 楕円的) にも複数の読みが可能なため, ぎこちなくはあるが原語の読みをルビでふった.



 ジョン・サリス (John Sallis, 1938– ) は, ペンシルヴェニア州立大学教授. ドイツ哲学を専門とし, 現象学に造詣が深い. すでに10冊以上の著書がある.

 ここに発表されたテクスト「二重化」(Doublures) は,「音声中心主義」を批判的に検討していた初期のデリダによる, 主としてソシュールとフッサールにおける「起源」の構想の脱構築の身振りを, 起源の「二重化」を鍵として読み解いた, 模範的なテクストである. ベルネットやタミニオーのテクストと併せて読むことによって, 現象学に対してデリダの思考がもたらした破局的貢献を仔細に辿ることができるだろう.

 ここで底本としたテクストは, クレールのテクストと同じくフランソワズ・バレによってアメリカ語からフランス語に翻訳されたものであるが, 問題は見受けられなかった. なお, このテクストに加筆したテクストが存在する. “Doublings,” in D. Wood (ed.), Derrida: A Critical Reader (op. cit.), pp. 120–136 (repris in J. Sallis, Double Truth, Albany, SUNY Press, 1995, pp. 1–18).



 ベルナール・スティグレール (Bernard Stiegler, 1952– ) は, コンピエーニュ工科大学勤務を経て, 現在はINA (国立視聴覚研究所) の副所長. 哲学と技術の根源的関係の分析, とりわけ, 技術の問いの抑圧によって特徴づけられる形而上学の批判をおこない, さらに,「技術の進化の理論」を支えるべき諸公準を確立することを目指している. それは具体的には, 初期ハイデガーの批判的な読みなおしを通じて, 時間性を構成するものとしての技術のありかたを問いなおす作業である. 以下がその総括である. La technique et le temps, 2 vol., Paris, Galilée, 1994–1996. なお, この『技術と時間』は全4巻で完結の予定らしい. また, デリダとの以下の共著も刊行されている. Echographies, Paris, Galilée-INA, 1996. 彼の仕事は, 日本語では以下が読める.「レジス・ドゥブレの信」広瀬浩司訳,『現代思想』4月号, 青土社, 1996年, 86–97頁.「ルロワ‐グーラン」暮沢剛巳訳,『現代思想』7月号, 青土社, 2000年, 68–74頁.「リーディング・マシン」原宏之訳,『シリーズ言語態3』東京大学出版会, 2001年, 275–302頁.

 ここに発表されたテクスト「歪んだ記憶」(Mémoires gauches) は, 前半と後半に大きく分かれている. 前半は, フェデリコ・フェリーニ『インテルビスタ』(1988年) の時間性にまなざしを向けることで, 「写真の現象学」(ロラン・バルト『明るい部屋』(1979年)) を支える「それはかつてあった」の可能性を, バルトの思惑とは反対に, 映画のなかにも確認する試みである. 後半は, 正確さという技術的問題と真理とのかかわりを, デリダの「エクリチュール」の構想を手がかりにして, 主としてハイデガーを読解することによって明らかにしようとしている.

 このテクストは若干の変更を加えて以下に統合された. B. Stiegler, La technique et le temps, t. II, Paris, Galilée, 1996, pp. 24–56. また, 前半部分にはドイツ語訳が存在する. “Verkehrte Aufzeichnungen und photographische Wiedergabe” (M. Wetzel, übers.), in M. Wetzel & J.-M. Rabaté (hrsg.), Ethik der Gabe (a. a. O.), S. 193–210.



 ジャック・タミニオー (Jacques Taminiaux, 1928– ) は, 新ルーヴァン大学教授, ルーヴァン・カトリック大学名誉教授. 同大学に置かれている現象学研究所の所長. ベルギー王立アカデミー会員. ドイツ観念論からニーチェを通過して現象学 (フッサール, ハイデガー, メルロ−ポンティ, アーレント) に至る関心領域をもつ. とりわけ, 美学と政治哲学に傾斜している. 10冊ほどの著書がある. 日本語では以下が読める.「行動の現象学者たちと複数性」松丸和弘訳,『現代思想』5月臨時増刊号, 青土社, 1999年, 166–188頁.

 ここに発表された論文「ハイデガーの〈基礎的存在論〉における『声』と『現象』」(“Voix” et (“Phénomène” dans l’Ontologie fondamentale de Heidegger) は, デリダがとりわけ『声と現象』(1967年) で展開した, フッサール現象学における「意義 Bedeutung」(デリダが「言わんとすること le vouloir-dire」と読むもの) に対する批判的分析を視野に収めながら, ハイデガーの〈基礎的存在論〉にその師フッサールの遺産がどのようにもち越されているのかを仔細に検討している.



 最後に, 翻訳作業について若干を記しておく. 各テクストは, それぞれの担当者が翻訳したうえで, 少なくとも2人の他の翻訳者が目を通し, 誤訳を少なくするようにつとめた. それを高桑がまとめ, さらに監訳者の高橋哲哉さんと増田一夫さんがチェックし, 場合に応じて必要な修正を加えた. それぞれのテクストに付されている注については, 高桑が統一的に改善につとめた. 人名索引の整備や表記の統一といった細かい処理については, 高桑が編集者の西谷能英さんと協力しておこなった.

 なお, この解題を準備するため, またなるべく正確な翻訳を提供するために, 原著者のかたたちにも可能なかぎり連絡を取った. どなたも懇切丁寧に情報を提供してくださったことを付記しておきたい. Je me permets de remercier ici, représentant toute l’équipe de traduction, tous ceux qui ont contribué à ce numéro spécial de la Revue philosophique et qui ont bien voulu répondre à nos questions.