「肯定の思考」について
「「肯定の思考」について」
『bk1』2001年9月9日.
カトリーヌ・マラブー編『デリダと肯定の思考』(未來社, 2001年10月) についての翻訳者コメント.
(『bk1』は, かつて存在したネット書店です.)


 この『デリダと肯定の思考』の翻訳作業に参加し, 監訳者にも名を連ねることになった者として, この本について語ってよいということなので, この機会に若干を書いてみたいと思います.

 すでに掲載されている編集者のコメントをご覧いただければわかるとおり, この本は『ルヴュ・フィロゾフィック』誌の1990年4–6月号 (カトリーヌ・マラブーが編纂を指揮したジャック・デリダ特集) を全訳したものです. 16人 (デリダ本人を入れれば17人) のいずれ劣らぬ文筆家が, 今から10年ほど前に, ジャック・デリダの思考をめぐって, それぞれの文体とそれぞれの関心をもって寄稿しています. 60歳のデリダに宛てた祝賀論文集です.

 日本語タイトル『デリダと肯定の思考』は, 監訳者と編集者が議論のうえ選択したものであり, オリジナルのタイトルは特集名として「デリダ」とあるだけです.『デリダ論, 1990年』『16人によるデリダ解読』のようなタイトルも考えられましたし,『デリダを読む』のような簡素なものでもよいかとも思われました (最後のものはすでに他の本が用いていたため, 採用できませんでしたが).『デリダと肯定の思考』というこのタイトルが選択されたのは, 編纂者であるマラブーが, 執筆者たちに寄稿を呼びかけるときに,「この特集号は, 数ある肯定の思考のなかでも最も美しいものの1つを肯定する身振りとして構想されています」という一文を用いていたためです.

 それぞれの執筆者は, 当然のことながら, 1990年にいたるまでのデリダのテクストを読んでいます. つまり, 主要な参照先となるのは, まずは『声と現象』『グラマトロジーについて』『エクリチュールと差異』であり, あるいは『散種』『余白』『ポジシオン』を経由して『弔鐘』『郵便葉書』にいたる作品であって,『メモワール ポール・ド・マンのために』『シボレート』『精神について』『ユリシーズ・グラモフォン』『コーラ』といった, その当時には相対的に新しい著作であったものも触れられてはいますが, 1989年から1990年にかけて口頭で発表された『法の力』を明示的な皮切りとする, デリダの倫理的転回とも言われる変化以降の作品 (『マルクスの亡霊たち』『友愛の政治』『アポリア』『他者の単一言語使用』など) は言及の対象ではありません.

 しばしば脱構築が決定不可能性の身振りのみを指示していると見え, したがってそれが正義や責任といった語の参照させる倫理的範疇とは無関係であると思われていたその時期に—デリダ自身, この状況を『法の力』において問題にし, 往々にしてあるその表面的な理解に抗する「脱構築は正義である」という一文を書くのですが—, デリダを指導教官としていたマラブーは,「脱構築」を1つの「肯定の思考」として名指し, それを「肯定する」ようにそれぞれの執筆者をいざなっているわけです.「肯定の思考」という, デリダの思考の受容において時期を画するこの表現がこれらの多様なテクストを1つの場に集めているということは, 無意味ではないと思われました.

 その「肯定」がどのようになされるかは, 執筆者によってかなり異なっています. しかし, たとえば「マラブーの口を借りて当時のデリダが強調しようとしたかもしれないことに, 16の知性はどのように応えているか ?」と問いながらこの本を読み進めれば, 時代状況とデリダの思考とそれぞれの執筆者の知性とのあいだに, 互いに引きあう確かな何かを必ずや見いだすことができるでしょう.

 今や, 原著刊行から11年が経ち, そのような読解がこの本の解読の重要な導きの糸の1つであることは明らかになったと思います. たしかに時代錯誤ではありましょうが, この糸を手放すことはないと思います. 必要でもあり可能でもあるのは, つねに, 今この本を読むということに他ならないからです.